現代アート論(5)-ビフォーコロナの現代アート
現代アート(4)を受けて、コロナ下にある我々からアフターではなくビフォーコロナ(コロナ以前)の現代アートを眺めると、2010年代の苦肉というか窮余の策のモダンとポストモダンの折衷と合体に、必然性があったのかどうかを問いたくなる。
まず、それはポストモダンのカテゴリーに入るだろうか? 表現にモダンの〈物質〉を流用しているので、ポストモダンの一つ前の伝統への回帰になる。そうなら、2010年代の現代アートは、正統なポストモダンである。とはいえ、作品の構成要素の半分はモダンであり、ポストモダンからはみ出してもいる。その逸脱部分はモダンなので、その側面のみに光を当てれば、作品は単なるモダンのように見える。下の画像の作品は、そのかなり上質な二例だろう(2020年3月に行われたアートフェアのArmory Showから、あるギャラリーの展示作品)。モダンのマティエール(物質的素材としてのガラス、絵の具)とデフォルメ(鏡像、シンメトリーによるシミュラークルの生成)の融合(折衷)。
各作品の特徴を根掘り葉掘り詮索しているのではない。モダンとポストモダンのパラダイムの重箱の隅をつつくことで、ようやく2010年代の現代アートの傾向を説明できるのだ。
それほどまでに現代アートは行き詰まっている。それに「大きな物語」が有する崇高さが付帯しなければ、誰も作品の正当化に付き合うことはしないだろう。
だが、ここで疑問が湧く。モダンの「大きな物語」は、〈物質〉という理念である。ところがポストモダンに「大きな物語」はあるのか? ポストモダンの利点は、一つの「大きな物語」が終わった後の、小回りのきく複数の「小さな物語」ではないか? ポストモダンの原理はシミュラークルだが、それを「大きな物語」と呼ぶことはできない。シミュラークルの定義はズラすことだからである。そこに理念をはぐらかし脱臼させるモーメントはあるにせよ、まともな理念(派生的な理念として多様性はあるが)はない。だから、モダンとポストモダンの折衷は、理念ありと理念なしの非対称なのだ。
2010年代の表現の非対称が、折衷的作品を中途半端にする。モダンとポストモダンにそれぞれ固有の理念が備わっていれば、それらの混合は不可能だったろう。それらが対立し両立しなかっただろうから。とはいえ、モダンの〈物質〉とポストモダンのシミュラークルの非対称で両立可能な表現が、そのどちらも極められない苦境に、作品を追い込むのである。その意味で、2010年代の折衷的現代アートは、あくまで過渡期の表現として歴史に刻まれるだろう。だがそれは、「出来事」としては存在しなかったことになるだろう。さらに現下のコロナ危機が、その歴史からの退場を早めるのではないか。
複雑に縺れるポストモダンの終焉に向けて、その最後の花火が上がろうとしている。少なくとも、その助走が始まっているとは言えまいか? 最後の花火とは、折衷主義の桎梏から逃れて極端に振れる、とはいえモダンに反動的に与するのではなく、ポストモダンのシミュラークルを純化して出現するだろう極限の作品である。見出しの画像の作品は、その候補の一つだと思う。アーティスト名は、Tom Waringである。
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