「若いうちに勉強する、苦労する、etc.」は根性論以外にどんな意味があるのか
以前、「自責思考と他責思考」という記事を書いたのを思い出した。
自責思考で仕事をすることが好ましい理由は、自分に何ができるか、何をすべきかにフォーカスして主体性の高い仕事ができるため
読み返してもそのとおりだと思いつつ、自責思考=今起きている問題は全部自分のせいだと思え というニュアンスが強い言葉だとも思っていて、そういうのとは違うんだよな、とモヤモヤしていたのも事実。
しかし色々考えていくうち、自責思考とは突き詰めれば「自分の人生は自分でコントロールできる、だからそうする、という考え方」にほかならない、というまぁまぁ乱暴な結論に思い至った。
ニュースに対する世の中の反応などを見ていてしばしば感じてきたことだが、他責思考の人と自責思考の人で決定的に違うと感じるのは「だって仕方ないじゃないか」「そんなこと言われてもどうしようもない」の範囲の広さだ。本当に決定的に違う。
図にするとこういう感じ。
「どうしようもない、個人の努力の問題ではない」のわかりやすいケースは、例えば生まれた国や地域、性別、体質、生家が裕福か否か、自身や家族が病気や障がいなどを抱えているか否か、などのケースで、そんなものにまで自責を求めるのはどう考えてもおかしい。
逆に言えば、そういう大きな話以外のことというのは、基本的には何らかのコスト or リスク(不確実性)と引き換えに、本当はどうにでもできる話だったりする場合が多い。
そういう問題に直面した際に、
・行動の選択肢として何があるのか
・それぞれどういう結果を期待するのか
・それぞれどんなコスト or リスクが見込まれるか
・それぞれ得られる結果に対して許容できるコストかどうか
このあたりを総合的に(自然と)判断して自ら行動を起こすことができ、その結果を「自分の選択の結果」として受け入れることができる人こそ自責思考の人と言えるのだろう。
一方の他責思考の人はと言うと、
・そんなコストを払うなんてあり得ない(ただし根拠はない)
・そんなリスクを許容できるわけがない(ただし根拠はない)
・そもそもそういうコスト/リスクは自分が負うべきものではない、なぜなら自分は何も悪いことをしていないのだから
のような思考が前提にあり、そこから「だから自分は何も悪くなく、環境に恵まれてないことがこの問題の原因であり、誰かが何かを変えてくれるまでは解消されないのだ」という発想に至ってしまうのだろうと思う。
若いうちに努力して何かしらの結果を得ることは、「やれば意外となんとかなる」の思考の原点になる
自責型・他責型それぞれの一番の差は「行動の選択肢として何があるのか」の着想に至れるかどうか、というスタート地点にあると思っている。
この発想はそもそも「今の状況は自分次第でいかようにもコントロール可能である」というのが思考の前提にある場合に限られる発想だからだ。
そういう発想のある人、ない人の差はなんなのだろうか?というのが、記事タイトルにもある、若いうちに勉強する、苦労する、努力する、などをどれだけ経験してきたかの差なのだろう、と思うようになった。
言い換えれば、それらは全て、自分の人生を自分でコントロールする姿勢を持ち続ける上で欠かせないプロセスだ、という話でもある。
乱暴にいえば「やればなんとかなる」の着想に自然と至れる人というのは、やはり「難しいと思ってたけどやってみたら意外となんとかなった」経験の多い人たちだ、ということだ。
若いうちにそれを経験できるわかりやすい場は例えば部活だったり受験勉強だったりするのだろうし、アルバイトや若手時代の仕事なんかももちろんそうだろう。
それらを通じて得られる知識や考え方、スキル、人間関係などといった実利はもちろん大きいが、それ以上に「自分でやり抜く経験を積み重ねたこと」そのものの人生における意味が非常に大きいと考えている。
なぜ「若いうち」がいいのか?大人になってからそういう経験を積めば良いのでは?
これを例えば自分のような年齢(35)のまぁまぁなオッサンになってから同様にやれるのか?というと、可能ではあるだろうがそこには「思考習慣」という大きな邪魔者がいる。
長年にわたって無意識のうちに繰り返してきた「そんなもの自分がどうにかできるような話ではない」という思考のクセを、突然「そんなものなんとでもできる」に切り替えるのはそれなりにハードだろう。
つまり自責モードで生きていくためには思考方式が習慣として定着して凝り固まる前に様々な成功体験を積んでおいたほうがいいだろう、と考える。
そういう意味で若者に向けた「苦労は買ってでもしろ」のようなアドバイスは、根性論ではなく、実は非常に理にかなったものだと思う。
たいして若くない人は、どうすれば自責型の思考習慣に変われるのか?
そんなこと言ったって我々オッサン世代は少なくとも最低限オッサンであるという事実がある。それを嘆いても仕方がないので、まさに自責思考で未来をコントロールしていかなければならない。
そのためには、まずは最低限こういう姿勢で日々物事に対峙していくことが重要だろうと考えている。文字に起こしてみたら当たり前すぎてアホらしくはなってくるが、とても大事だと思う。
この前提さえ意識していれば、「だって仕方ないじゃないか」(えなりかずき風に言えば「どってしことのいじょのいこ」)という着想から物事を捉える頻度は大幅に減らせるだろう、と思う。
※ここでいう「選択と行動」には「コストが高いからスルーする」も含まれ、敢えてそれを選択している自覚があるならそれも立派な行動と言える。
例を挙げると、
自分の上司は本当に仕事のできない無能なクソ上司であって、自分はそんな上司の下で仕事をすることに辟易としている。ただし給与条件や労働環境には恵まれているので、我慢しながら仕事を続けている
という状況にいる人をイメージしてみよう。
まず、他責思考型の人の考え方は以下のようになるように思う。
・会社が決めていることだし、上司は自分で選べず、黙って従うしかない。
・この給与や労働環境が得られる場は他にないから、我慢するしかない。
・転職したところで今よりいい会社にいける保証もないのだから、そんな危険を犯すわけにはいかない。
・それらを踏まえれば、自分ができることはなにもなく、不遇な環境に身を置いていると考えざるを得ない。
一方の自責思考型の人の発想はこうなる。
(・今の辟易としている状況は、それを打破するための有効なアクションをこれまでに何も起こしていないことに起因しているのだ)
・ひとまず上司があまりにクソすぎるので異動したいと交渉してみよう
・あるいは上司がクソというのは自分の思い込みかもしれないから直接思っていることを上司にぶつけてみよう
・なんなら自分が目立った活躍して上司の上司になってしまおう
・それらが叶わなさそうな環境ならさっさとやめて他の会社みてみよう
・とはいえ給与条件は家庭にとって重要だから他見てみた結果給与維持できるとこに行けなそうなら最悪しばらくスルーして働いておこう
(・その結果どうなろうと自分の行動の結果だから素直に受け入れよう)
書いてしまえば「そりゃ後者(自責)のほうがいいよね」という感想は多くの人が持つのだろうが、実際はそれでも前者のような発想に縛られてしまう人のほうが世の中の圧倒的大多数だろう。
まとめ
1.今=自分の選択の結果 として受け入れる
2.未来に向かって自分の行動を選択する
3.「仕方ない」と思うことには「本当に仕方ないのか」を問いかける
自分の人生を自分でコントロールしたい方はまずはこれを徹底してみるところからどうぞ。
おわり
※2020/10/26 追記
別記事で「自分の上司は無能だ、だから自分はこんなにつらい目にあっているのだ」というタイプの人に着目した記事を書きましたので合わせてどうぞ