落ちついてアメリカ
note書く時って毎回何かに追い込まれてる。太平洋を縦断してまで来た国でバナナ工場で働いてしまってる時とか。親の旧姓の始めの"ま"を打つと、予測変換で松岡ちなが一番最初に出てきてしまった時とか。ホームステイの家族に振る舞った牛丼を、俺が教えた片言の日本語で‘’ゴチソウサマ‘'って言いながら残された時とか。
オーストラリアで会った日本人の旅人は言ってた。‘’オーストラリアは落ち着いたアメリカ‘’と。‘’落ち着いてないオーストラリアはアメリカ?‘’って聞いたら、アメリカ大陸であろう方を向きながら‘’全然違います‘’って言われた。
遠いのか近いのかわからん連日鳴り響くサイレンとか、三千里の広告の高い音とか、黄色い線の内側に下がって欲しいお願いとか、一切耳から入れずに脳に届くのを拒みながら、ぼーっと人の流れに合わせて目で追いかけてる時とかに思う。
感情を表に出さへん人って幸せそうに見えへん。表に出す人は感情が脳から溢れ出て、皮膚を通り越して汗のように空気中に放出されてるから、幸せオーラ丸出しで見てる方も幸せそうやなーって思う。感情を表に出さん人は、汗出せなかったら、体温が体に篭るみたいな感じで、感情が皮膚から放出されずに体の中に溜まってるから体の内側全体で幸せの感じてるかも。気分はハイみたいな感じなんかな。そんな人って人生苦労して楽しんで、顔の皮膚も分厚くなってる気がする。物理的な問題なんかも。まあでも幸福がエクスタシーのレベルまでいったら、感情出すのやめちゃうよな。
隣の芝は青く見える。なんで青なん。金色とか虹の芝生の方が気になるし、行きたくなる。調べたら青々しく凛々しく生えてるからって書いてた。そんなわかりにくい表現よりも、隣の芝の上には松岡ちながたくさん見えるとかの方が羨ましい。松岡ちななんて居ればおるほど良い。パチンカスには、隣の芝にはマルハンがあるとか。メンヘラ家出少女には、隣の芝には新宿東方ビルが見えるとか。哀川翔には、隣の芝はクヌギの木が見えるとか。青って微妙やわ。でも青の方がちょうど良いんかも。そんな絶妙な色がちょうど良い。
空いてる席の前で吊り革掴む人。なんで座らんの。そんな人って大体携帯を撫でてるわけでもないし、電車の揺れに身を任せてぼーっとしてんねんな。こっちが座りたくても微妙に座れへん位置に立ってるし、2人分使ってる。贅沢な使い方。そんな席の使い方あるんやっておもうほど。その人が電車の座席フェチだったとして。電車の席に触れるよりも、ちょうど空いた一つの席を上から眺めることで興奮してるかもしれへん。そう思うと人のエクスタシーは邪魔にできない。
空いてる座席見てエクスタシー感じてる人も、感情表に出さずに自分の中で幸せを楽しんでる人も、オーストラリアの旅人に反論してみてる自分も、みんな気になる。なりたいわけでもないねんけど気になるな。実際大したことないし。そういうの青色に見えるかも。
隣の芝は青に見えてる時はまだ全然マシなほう。死ぬほど羨ましい時は、脳と薄い皮膚の間にブルーな感情が残るだけ。
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