踏み絵を拒みたい
小学校で習う歴史の授業に、踏み絵の話が登場する。江戸時代に幕府がキリスト教信者に踏ませるために、十字架やキリスト像、マリア像などが描かれた絵や板を作り、踏めば信者ではないと見なされて釈放されるが、踏まなかった場合は死刑や磔刑に処せられるという恐ろしいキリシタン狩りが当時は行われていた。
踏み絵の話を目にした小学生の僕は、「絵なんか踏めばいいのに」と普通に思った。
絵に描かれた神様を大切にして踏めずに殺されるとかバカじゃね? 信心なんかより命のほうがよっぽど大切なんだし、せめてその場だけでも「キリスト教なんて信じてませーん!」とおちゃらけて踏みまくっちゃえばいいじゃん。自分だったら絶対そうするね、だなんて不謹慎ながら考えていた。
「一人の生命は全地球よりも重い」とはサミュエル・スマイルズ『自助論』の言葉だけど、他人の命についてはなかなかそうは思えないとはいえ、自分が死ぬことは世界が消えてなくなるのと等しいと感じ、命よりも大切なものはないのだと思って僕はずっと生きてきた。たかが絵を踏めなくて殺されるだなんて正気の沙汰とは思えなかったし、生命よりも重い信仰の存在なんて理解ができなかった。
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中学生の頃は三国志を読むことに夢中になっていた。コーエー(現コーエーテクモ)から発売されていた三國志シリーズはいくつかハマってプレイして、三國無双シリーズはこんなの三国志じゃない! と思って買わなかったタイプだ。
蜀漢の皇帝に劉禅という人物がいる。三国志演義によれば攻めてきた魏の軍勢を前に降伏して蜀漢を滅亡させ、三国時代を終わらせた人物でもある。彼は魏に降ったあとも丁重に扱われて余生を過ごし、「蜀のことなど恋しくない」と酒席で言ってのけて降伏後の生活を満喫していたという。
三国志演義の話だから史実と異なる創作でもあるんだけど、命を懸けて戦火に散っていった三国志を彩る英雄達とは正反対の臆病で意気地のない劉禅の生き様は、中学生の僕を軽蔑させるには十分な題材だった。たかだか数十年長く生きたところで後世である現代人から見ればなんの価値もない、それよりも信念や大義に殉じて潔く散ろうじゃないか、と踏み絵の時とは真逆の考えを持つに至った。
この大きな価値観の転換はいったいどうして起こったのだろうか。命よりも重い価値をこの世界に何一つ見出せなかった小学生の頃と同じく、中学生になっても自分の命より大切なものは見つからなかったが、もし命を懸けて貫きたい「なにか」を人生で見つけ出すことができたなら、その生はきっとより充実したものになるんじゃないかという期待があった。
今もって死ぬことはとんでもなく恐ろしいし、果たして文字通り懸命に生きていくことができるかどうかは自信がないが、死を恐れずになにかを為そうと一心不乱に生きた瞬間は何物にも変え難い充実感があることは少しわかった気がする。
踏み絵を拒まず、命に代えても守りたい大切なものもなく、ただ長々と生きながらえても結局たった数十年の誤差を生むだけで最期はどうせ死ぬのが人生ならば、自分よりも大切ななにかのために生きていきたいなぁ。
ジェンダーロールは大嫌いだけど、これも男性性による固定観念なのかしら。しかし例えそうだとしても、命に代えてもこれだけは守りたいと信ずるものを心に抱いて生きていきたい。
僕は、踏み絵を拒むキリシタンでありたい。