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『オブスクラ』を観劇してきた

以前から尊敬している舞踏家の最上和子先生。
先生が公演が行うと知って昨日観に行ってきた。

前回は初めて舞踏の体験に参加させて貰い、次はぜひ舞踏を見てみたいと思っていた矢先、9月に公演が開催されると発表された。
チケットの申し込み開始日には待ち構えていたかのようにスマホを開き、すぐに申し込んで購入した。先生の舞踏とはいったいどんなものか、楽しみにしながら公演の日を待っていた。

そして9月15日。
六本木ストライプハウスビルにて、公演『オブスクラ』が開催されたから観に行ってきた。
「オブスクラ」とは密閉した部屋の一方の壁に小さな穴を開け、その穴から光を取り込むことで、外の景色が部屋の反対側の壁に倒立して映し出される光学の原理に基づく様を指すらしい。この原理は16世紀以前から知られており、小型化した道具は絵のスケッチに使われて芸術家たちが使っていたという。

開場となる14:30に間に合うように家を出る。
場所は六本木駅から徒歩数分のところにあるビルの一室だった。もしかしたら六本木に行くのって人生初かも。田舎者の僕は六本木というと六本木ヒルズのイメージしかないからお金持ちが住む小綺麗で高級な街並みを想像していたんだけど、駅に着いて降りてみると渋谷とか原宿みたいなごちゃごちゃした印象もあって意外だった。
少し歩くと程なくしてストライプ柄の壁が特徴的な目的の建物が見えた。既に同公演のお客が10人以上は並んでいたのでここだとすぐわかった。
列に並んでドアが開くのを待つ。もう9月も半ばだというのに真夏並みに日差しがキツい。最後でいいやと思い、列から外れてビルの影に身を潜めて待機していた。

係の人が出てきて中に案内され、スマホでチケットを見せて開演まで地下の一室で待つ。15:00前になると会場のDフロアに通されて席についた。席は空いてるところに自由に座っていいんだけど、こういう時に奥ゆかしい僕は最後列を選んでしまう。ちなみに電車の席も基本的に座らないタイプ。
そして公演が始まった。

公演に使われたフロアは黒塗りの部屋で、来年には老朽化で同ビルが取り壊しとなるために以前まで芸術作品の展示スペースとして使われていた部屋が空室になっているところを借りたとのことだった(多分)。並べられたパイプ椅子50席にお客全員が着いて待つと、踊り手らしい衣装に身を纏った最上先生がやってきた。
それまでの空気が変わり、張り詰めた静寂が辺りに漂う。たたみ8畳分くらいの舞台でゆっくりと動き出す先生の一挙手一投足を見逃すまいと、食い入るように視線を送った。
舞踏が始まると先生は隅に行って壁にもたれるように手をついたり、真ん中にきて歩行のような動きをする。そして、崩れ落ちるように床に突っ伏した。

……見えない。
今なにをやってるのかが前の人の頭で全然見えない。精一杯背筋を伸ばしてみるが、床にうつ伏せになっている先生の御姿まではどうにも見えなかった。
少し経って周りを見回すと、立ち上がって見てる人がいた。一人がすれば安心するのが日本人の性なのか連鎖するように何人も立ち上がり、乗じて僕も立ち上がって見ていた。

先生の舞踏に込められた想いや表現を理解しようと集中して見続けた。時折り神々しさを感じたが、正直に言ってしまえば、「よくわからない」という感想が中心になってしまうかもしれない。
僕の側に受け取るだけの感受性が備わっていないからなのだろう。多分1割、いや1%も感じとることができなかったんじゃないか。
途中で電気が消え、暗闇の中で耳だけが冴えて親子の会話のような声が聞こえた。スタッフが窓を開けると、差し込んだ光に照らされて虚空を見つめる先生の厳かな顔が煌々と映った。
印象深い瞬間はたくさんあった。立ち上がり、こちらを向いている先生の顔は表情がなく、現代人が知らず知らずのうちに皮膚に張りつけている共同体の一員である証のようなよそ行きの顔をしていない。ただあるがまま、否定も肯定もない顔のようにも見えた。あるいはこれが原初なのだろうか。どうにか一身に受け止めようと、一対一になったような感覚で先生と向き合った。
しかしどれだけのことを感じ取れたかはわからない。『舞の発生』というテーマも、言われなければ自分の内からそのインスピレーションは生まれなかっただろう。

公演が終わるとアフタートークが始まった。
ユリシーズ共同代表の飯田監督と二人で話す。共同体、彼岸と此岸、樹のウロ、この会場を選んだ理由、オブスクラ……
お客さんからの質疑応答もあったりして、トークは全てとても面白く聞けた。他のお客さんの感想や着想を聞くと、人それぞれの感性があることを改めて思う。
きっと自分は言語や理屈の人間なんだろう。芸術への憧れは強いが、頭でっかちなので言葉を咀嚼しながら理解を深める方法でしか美や本質に辿り着けない気がする。説明を聞く時間なしに舞踏だけを見ても先生の世界観には触れられない確信がある。どうにか会話からヒントを掴んで自分なりの解釈をして捉えていくことしか僕にはできない。

最上先生、昨日は本当にありがとうございました。

***

1日経って、(仕事もあったけど)改めて昨日の舞踏を振り返りながら色々なことに派生しては思いを巡らせている。
昨日の感想をSNSでいくつか目にしたが、観にきたお客さんらしき人達が様々な視点と描写で観た光景を書き表していて、そこまで伝わってない自分の鈍さが恥ずかしい。しかしよくわからないと感じたのは本音だけど、よくわからない世界だからこその誠実さもあるのだと感じている。

本当はよくわかることなんて世の中ほとんどないのに、わかった気分になる記号を共通認識にして多くの人を巻き込もうとする芸事が世の中には溢れているのだと思う。
スポーツなんてその最たる例だ。ルールに身体を当てはめて、どれくらいパワーがあればホームランを飛ばせるのか、何本打てれば凄いのか、何割当てれば打率が高いのか。何キロを超えれば豪速球なのか、何勝すれば強いのか。それらの凄さはプロ野球ファンにとって体感ではなく選手同士の比較でしかわからないはずなのに、記号や数字で凄さを印象づけて今日も誰それが凄いと盛り上げている。無論、それは他のスポーツにも芸事にも、あるいは何にだって言える。
りんご一つとっても全く同じものは存在しないのに、りんごという言語を用いて輪郭をアバウトにすることで他者と情報を共有し、人は文化を築き上げてきた。記号を共通認識にして虚構を作り上げたことで、人類はここまで巨大な共同体を成立させたのかもしれない。

僕は『我が道をゆく』を座右の銘にしてずっと生きてきたけど、道なき道を切り拓いていくよりも敷かれたレールの上を走る方がよほど速く走れるのは確かだよな、とは最近よく思う。
陸上競技の世界記録が次々に塗り替えられていくようにスポーツが日進月歩でハイレベルになっていくのは、ルールを設けて範囲を限定する「身体運動の競技化」というレールを敷いて市場を拡大させ、競技人口の増加や技術の発展、学術研究を進められたからだ。
しかしその裏で、競技化によって不要の烙印を押された身体的特徴もあるだろう。言語化によって言葉にできない感情が削ぎ落とされていったように、社会の成熟度が高まるにつれて非難を浴びた気質や情動があるように、身体にルールを定めたことで失われた特徴や機能もあった。
社会の歩みと共に切り捨てられていった人間の根源を取り戻す作業が原初舞踏なのかもしれないと妄想してみた。全く見当外れかもしれないけど。

情報化社会の現代は誰もが博識になっている。アメリカ人の容貌に驚き、慌てふためいたペリー来航の時代と違って今では誰もが人種の多様性を理解しているように、あるいは義務教育が実施されて識字率が一桁の時代から100%へと変わっていったように、実感がなくとも先の時代と比べれば現代人は誰もが遥かに博識だ。考察や体験の過程を経ずとも容易に知識へとアクセスできる状況が多くの固定観念を生み、誰もが世界の審判になりたがる。
けれど昨日の公演、多様な顔ぶれのお客さんが集まっていたのを見ていると、この空間には何のレッテルもないことが感じられた。もしかしたら最上先生の舞踏は、世の中の上下や優劣、善悪正邪、否定や肯定を超えた彼岸の踊りなのかしら。
と、半分以上は僕の妄想でしかない感想文でした。

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遠藤健太郎 Kentaro Endo
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