お酒を飲み続けた自分との別れ:前編
過去に何度も断酒を試みてきた自分に遂に変化がみられました。数日にわたり書き連ねていると1万字くらいになったので生意気にも前後編に分けます。*後編は未着手(2019年12月現在)
初めて飲んだのはウォッカのCCレモン割り
大学の入学式で、偉い人が、「未成年もいるであろう諸君の前では不謹慎であることを承知で申し上げますが、早く自分のお酒の許容量を知ってください」と言われて少々面食らったのを思い出す。それはあたかも未成年に飲酒を推奨しているような発言で、当然のことながらその場にいた保護者や我々新入生も多少ザワついた。今同じ発言をすれば大問題であろう。しかし今思うとその忠告は極めて正しく、つまりは「法律ではダメってことになってるけど、どうせ君たちお酒飲むんでしょ?だったら無理しない程度にやりなさいよ」というメッセージである。
私の父はほとんどお酒を口にすることはなく、むしろ母は大のお酒好きだった。そんな母が大学生の自分にお酒の飲み方を理解させるべく家飲みを推奨。テーブルにドン!と置かれたのはウォッカとCCレモンのボトル。「ウォッカのCCレモン割り」である。割り物ではあるが慣れ親しんだCCレモンの味でしかないので、グイグイ飲む。もちろん酔う。かなり酔う。泥酔した。
当時、横浜市の実家から都内のキャンパスまでの通学に片道100分を要するという物理的な制約もあり、自分はなかなか大学のある街で深く飲むということができなかったが、仲の良かった変わり者の友人とT尾君と電話飲み、それは文字通りお酒を飲みながら電話するだけという妙なことを頻繁にやっており、実家にはウォッカの空のボトルが何本もならんだ。資源ごみを出す際に近所のおばさまから若干、訝しがられていたのを思い出す。「あすこのお子さんまだ学生よね?ヒソヒソ」みたいな。ちなみに横浜市民は自らを決して神奈川県民とは言わない。
元祖OEMの養老ビールでマーライオンと化した
学生時代に所属していた陸上競技部は、いったんは秋頃で当年のシーズンが終わる。9月頃に納会があり初めて参加したのだが、会場となった養老の瀧で飲んだ養老ビールがどういうわけか口に合わなかった。否、おそらく当時の自分にはビールという酒に対する免疫がなかったのだろう。不慣れなのにグイグイ飲んでしまったから許容範囲を超え悪酔いし、それはもう大変なことに。結果、マーライオンと化す。背中をさすり介抱してくれた中山先輩、ありがとうございました。
ビールが飲めなかった学生からビール好きな社会人へ
時は経ち社会人になりお酒の付き合いをおぼえ、半強制的にビールを飲む(飲まざるを得ない)機会も増えてきたということも相俟って徐々にビールには慣れてきた。むしろビールが大好きになった。どうやら苦いビールを美味しく飲める=きちんと働いている人=納税をしているまともなオトナ、というかなり強引な図式が頭の中にあったらしい。
もともと陽気な性格ということもあり、ことあるごとにお酒を飲む機会が増えた。もちろん飲めば楽しいしワイワイ騒ぐし、それでいて道端で寝転ぶとか喧嘩するとかモノを壊すとか、そんな人様に迷惑をかけるような飲み方はしてこなかった。純粋に騒いで楽しかっただけである。そう、いつだってお酒には楽しい思い出ばかりだ。甘酸っぱい思い出だってある、たぶん。
この2〜3年での酒量を真面目に考えてみる
とはいえ、昨年に2回目の成人式を迎えた自分にはそろそろカラダにもガタが出てきたような気がする。気がするというのは、なんとなく80歳を平均寿命とするならば、人生を折り返した自分には飲酒は控えるべきものというイメージがあり、ちょっと飲み過ぎたかなと思うと当然のことながら翌日には顕著に悪影響が。朝早く起きることができない、カラダが浮腫む、唇がヒリヒリする、手のひらが荒れる、軟便になる、頭痛がするなど。いわゆる典型的な二日酔いの症状である。深く飲んだ日の朝は重いカラダを引きずりながら「嗚呼、今夜はお酒を抜こう」と思うわけだが(酒を抜くという理屈は飲酒が常態化・習慣化している前提の考えだから、これまた恐ろしいことではある)夕刻頃になると胃腸も回復し、仕事が間も無く終了するという解放感から性懲りも無くまた飲みたくなってしまい、結果飲む。その繰り返しである。
問題なのはその飲み方。とにかくペースが早い、早い、早い。グイグイ飲む。ドンドン飲む。どれくらい早いかといえば、例えばツレと2人で飲みに行く。「えーと、まずは中生3杯」「あ、もう一人お見えになります?」「え?誰もこないよ。俺が最初に2杯飲むんだよ」もう無茶苦茶である。当然、家でも似たような飲み方(速度と量)をしているので、傍で妻が呆れ顔で見ている。そして家飲みは酔いが早く回るので、些細なことですぐに泣く。テレビを見て泣く。リビングで遊ぶ我が子を見て泣く。実家から持ち出した卒業アルバムを見て泣く。子ども達からは泣き虫と言われているが大いに結構。涙は心の汗なのだから。お酒は大人のポカリスエットだ。
飲酒におけるメリットとデメリットを検証する
もう自分もいいオトナなので、全てにおいて節度を以って生きていきたい。学生のように飲ん酔って大騒ぎなど愚の骨頂。今更ながらに自分にとってのお酒の役割を考えて見る。
<メリット>
・楽しくなる
・ストレス発散
・適量であれば医学的にも良いとされる
・新しい友達ができるかもしれない(外飲みの場合)
・新しい街や店を開拓する契機となる(外飲みの場合)
<デメリット>
・健康に悪影響が出る(飲み過ぎた場合)
・生活のリズムが狂う(飲み過ぎた場合)
・お金を遣いすぎる(飲み過ぎた場合)
・酔った勢いでSNSで強気な発言をする(飲み過ぎた場合)
・総じて飲んだ翌日の自己嫌悪感(飲み過ぎた場合)
デメリットを列挙していて気づいてしまったのだが、いづれも飲み過ぎた場合の当然の結果であって、それが改善できていないだけなのだと改めて気付き愕然としているところだ。要はなんでも加減ということだ。
過ぎたるは及ばざるが如し
結論、飲み過ぎているだけのことではあるのだが、どうにも自分にはアル中の気があるんじゃないかと先週くらいから疑っている。つまりは、お酒を飲まなくても良い状況なのに、気づけばリビングテーブルの自分の指定席で飲んでいるのだから。しかもビール(度数5-6%)では全く酔わず、レギュラーはストロングゼロなどの9%クラス。最近はサッポロでパッケージが素敵な商品があるのでそちらをチョイス。物足りない時はキンミヤ焼酎をストロングゼロで割って飲んだりしていた。ほとんど病気である。それでいて人工甘味料(アセスルファムカリウムやスクラロース)が含有されているアルコールは絶対に買わない飲まない。間違えて買ったら誰かにあげる、誰か遊びに来たら飲ます、という妙なコダワリがあったりする。健康を気にするならお酒ヤメロヨと思う、貴方が絶対に正しい。
たとえば自宅に来客があるとか、外で食事をするとか、お酒がそこにあって当然若しくは飲まなければならない状況であれば話は別なのだが、問題なのは「飲まなくてもいいのに飲んでいる日」が超絶圧倒的に多いということだ。多い、多すぎる、十万石饅頭スタイルなのである。
ふざけたことを書き連ねている自分だが、2017年から猛烈なライフワークと化した読書(2017年は354冊、2018年は370冊を読破)は殆どが地元の図書館でお借りした書籍で構成されている。2019年は積極的に書ったり蒐集するつもりなので、当然のことながら今までのように外で飲んだり買って飲むと経済的にも行き詰まってしまうだろう。否、どちらの優先順位を高くするか?ということなのだが、ずばり、今の自分は読書>お酒である。
続きは後編で、近日公開予定。
*記事中に挿入されている美味しそうなお酒の写真は全て私が撮影したものです、なかなか美味しそうに撮れていると思います。