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教会に所属せずにクリスチャンになる方法-2
前回も紹介したように、聖書の中では教会についていろいろな言葉で表現されています。
今回は、もう少し詳しく見ていきましょう。
1.神の家族としての教会
第一に、「教会」とは、本来神の家族のことでした。
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ人への手紙 2:19)
ここには、神の国の民という言葉も出てきますが、これはクリスチャンのことです。
クリスチャンになるということにもいろんな意味がありますが、重要なことの一つは、私たちが神さまを王とする神の国の民になるということです(これについては、また別のところで詳しく話しますね)。
でも、ここでは私たちが神の国の民になるというだけでなく、神の家族の一員になるんだということが記されています。
教会とは、キリストの名によって私たちが一つの家族になるということなのです。
国籍が違っても、文化が違っても、イデオロギーや価値観が違っても、私たちは互いに家族の関係であり、だから赦し合い、愛し合うことができます。(もちろんそれは簡単なことではありませんが…。)
聖書の中の使徒の働きというところには、互いに財産や所有物さえも共有した時のことが記されています。
実際には、そこまでの極限状態になることはそうそうないことですが(聖書の中でも、わずかな間しか起こらなかったことです)、家族であるということ繋がりの深さを考えさせられるエピソードですね。
2.一つのからだとしての教会
第二に、「教会」とは、キリストを頭とする一つの体です。
教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ人への手紙 1:23)
「私たちがキリストのからだである」という言葉には、更に色々な意味が内包されています。
1) キリストのからだとして生きる
まず、私たちはキリストのからだとして、イエスさまの代わりに働きをするということです。
イエスさまはもう地上にはいないので、イエスさまがやっていたこと、そして今やろうとしていることを、私たちが代わりに行うということです。
イエスささまがしていたように、人々を愛し、寄り添い、耳を傾け、教え、癒し、伝えるのです。
聖書の中で、パウロさんという人がこんな風に言っています。
今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。(コロサイ 1:24)
少し分かりにくいですが、イエスさまの代わりに働きをすることができることを喜んでいると言っていますね。
2) 私たちはキリストのからだの一部
次に、それぞれが与えられた役割を果たすということです。
私たちは、キリストのからだの一部です。
あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(Ⅰコリント 12:27)
私たちは、ひとりでキリストと同じことはできないというのは大切なポイントですね。
一部でしかありませんから、一人では完結せず、他のキリストの体の一部と繋がりを持つことで役割を果たすことができるわけです。
役割が違いますから、みんな同じことをしても意味がありませんね。
目ばっかり、耳ばっかり、口ばっかりあっても、ひとつの体としては成り立ちません。
自分らしく生きることが、自分に与えられた役割を果たすことに繋がっていくのです。
このことに関しては、また別の機会にもっと詳しく話したいと思います。
3) からだとして一体となる
そして、私たちは一体であるということでもあります。
私たちはバラバラのままではからだとして機能することができません。
手も足も、目も口も内臓も、全て組み合わされて初めて機能することができます。
そんな風に、私たちはひとつに繋がることが大切なのです。
違う役割を持った私たちが、それぞれに好きなことだけをやっていたら、私たちが一体になることは絶対にないでしょう。
そんな私たちが一体となるのは、私たちが自分の願望や、気持ちを見るのではなく、神さまを見上げ、キリストの声に耳を傾け、それに従うときです。
世界中のクリスチャンが心を一つにして神さまを見上げることができたら、どんな素晴らしいことが起こるのでしょうね?
3.キリストの花嫁
第三に、「教会」とはキリストの花嫁です。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙 5:31)
この言葉の前半の太字のところは、結婚式の時にもよく読まれる聖書の言葉なので、聞いたことがある人も多いかもしれません。
これは、創世記の中の1節です。
夫が妻を愛し、恋い慕うように、キリストは私たち「教会」を愛しているのです。
そして、ここでも「一体」という言葉が出てきます。
聖書では、最初の人アダムのあばら骨(体の中でなくてはならない大切なものとされていました)から作られたという話を聞いたことがあるでしょうか?
そうして、分けられていた二人が一体となるというのが、聖書の中で表されている結婚の意味なのです。
そのような意味合いで、キリストと私たち「教会」も一体になります。
何とロマンチックで、心強いことでしょう。
私たちクリスチャンにとって、神さまはどこか遠い存在ではありません。
また、どこかに会いに行かなければならないような存在でもありません。
いつもともにいて下さり、私たちの内に住んでくださっているのですから。
「教会」が、建物や場所、宗教組織ではないことをご理解いただけたでしょうか?
しかし残念ながら、その意味は薄められ、神さまは宗教組織に管理され、建物や特定の場所に行かなければ会うことができないように扱われています。
教会でそのように教えられてきたのだから仕方がありません。
でも、宗教としての教会に所属し、毎週教会に通っている私たちも、このことをしっかり理解し、思い出す必要がありますね。
では、どうすれば、このような「教会」として生きることができるのでしょう?