オール4な生き方してきました 2話目
小学生の頃はそこまで勝気ではない穏やかな過ごし方を好んでいたボクですが、小学校6年生になると少年野球の副キャプテンに任命されました。
そこそこ野球も上達し1番でショートを守っていました。
その間に、マラソン大会も毎年あったのですが、順位は最高で2位。
どうしても1位の称号を得る事は出来ませんでした。
恐らくボク自身がそこまで望んでいなかったからなのだと思います。
勉強もそこそこ出来ていたので、大体クラスではベスト3。
でもそこでも1位という事はありませんでした。
当時の通信簿は絶対評価制ではなくて相対評価制。
クラスの中で必ず5段階の5の生徒と1の生徒が存在する、なんとも言えない制度だと思っていました。
ボクはたまに5があって4以下というのはほぼほぼありませんでした。
だから何となく、出来てしまう生徒の一員を形成していたのだと思います。
体育や球技などのスポーツもそつなくこなし、サッカーをやってもストライカーというよりもアシストの方が得意な気がしてて、小学生ながら自分の役割というのをしっかり捉えていたのだと思います。
ボクの住む川崎市には連合運動会という市内の全小学校の代表選手が集う大運動会があって、ボクは1500mの学内選考レースに出場しました。
2位までに入賞すれば選手として出場出来るのでこの時ばかりは、かなり走り込みの練習をしていました。
選考レースが始まり、ボクはかなり好位置を保ったまま最終コーナを回りラストスパート。
このまま行けば1位若しくは2位!!
というポジショニングだったのですが、4人が団子状態でゴーーール!!
という所でボクは他の選手と足が絡まってしまい転倒。。。
いつもとは違う足の甲の痛みに打ちひしがれてそのまま病院へ。
結果、足の小指の骨折となり、敢え無く出場を逃しました。
この時ばかりは悔しかったのですが同時に、連合運動会からのプレッシャーから解放されて少しホッとしました。
ただこの時に足が絡んでしまった選手が連合運動会に出場したのですが、彼はこの頃から開花して、大学で駅伝部の主将を務めて箱根駅伝に出場するスゲーー奴になってました。
運がなかったのは自分だし、彼を恨んだりした事は一度もなくとても誇りに思います。
その後の事は彼の努力の賜物なんですが、当時彼はボクに謝りに来たのでその分頑張ろうって頑張ってくれたんだと思います。
その後、飛び飛びで4年間お世話になった担任の先生が卒業式でボクを答辞に選んで下さり、ボクの小学校生活は終わりました。
すごく楽しい6年間を過ごしたのですが、どうしてもボクには越えられない1位の壁というものがあった気がして、それを超えようとしないボクもそこにはありました。
活発な方ではあったけれど、すぐに遠慮して我を通すという事もなかったと思います。
こうして振り返り、思い返してみると今の自分にも当てはまる事が多いんだなと気付いてきました。
大人からしてみたら聞き分けの良い素直な子供だったのかも知れません。
でも子供の世界では特にそれを理解出来る子はいないから、我の強い子に押されていたのかも知れません。
よく言えば大人びていたから、我の強い子も意見を求めて頼りにしてくれていたのかと思います。
特に大人しくてヲタクっぽい子やいじめれっ子とも仲良くしてたから、みんなに好かれる自分を演じていたのかも知れません。
先生受けも良かったから、クラスのパイプ役と通信簿に書かれていたし(当時は意味が分からなかった)。
だから少し気付き始めてた事がNo.2の役回りって事かな。
結構最近は30代の若い方々が自己啓発的に「やれば不可能はない」的な事を書いておられるけど、「そこまでやりたくない」ってのが本音かもね。。
確かに成功者と言われる方々はみんなそう言うけどね。
続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?