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『論語と算盤』考察7 声は小にして聞こえざるはなく

 次の一万円札と2021年の大河ドラマの主人公、渋沢栄一の足跡を、僕の目線で考察していきます。

 『論語と算盤』を何度となく通読していますが、意外とスルーしていたところ。それが冒頭の「格言五則」。一つずつ考察していこうと思います。


四つめ。

声は小にして聞こえざるはなく、行いは隠しても形(あらわ)れざるはなし。 説苑
すぐれた人の声は、たとえ小さくとも必ず聞こえ、その行いは隠していても必ず現れる。

『説苑』とありますが、『荀子』の誤引のようです。

おさらい

 格言五則の前後を確認してみると、

3つめ
言は多きに務めず。其の謂う所を審(あきら)かにするに務む。
言葉は多ければよいものではない。その趣旨を明らかにすることが大切。

5つめ
志意修まれば、則ち富貴を驕(あなど)り、道義重ければ、則ち王公を軽しとす。
こころざしがきちんとしておれば、富や地位など問題ではない。人間としてのありかたができていたならば、権力に媚びることもない。


1つめからまとめると、
①言葉と行動は大事だよ
②でも、普通の人はいろいろ言うけど何もしようとしないね
③言葉は多さではなく、発言の意味が大事だよ
④だから立派な人の声(意見)は、小さくても影響力があるよ
⑤だから立派に生きていれば、富や権力に振り回されることはないよ

という感じでしょうか…まとまってない気がしますが、まあよし。

剛毅朴訥

 論語に、「剛毅朴訥、仁に近し」とあります。

剛毅…意識の強さ
木訥…無口で飾り気がないこと
この2つが備わっている人は、仁者に近いらしいです。
(コミュ障で陰キャの僕にとってはたいへん心強い言葉です。)

 ちなみに論語の「剛毅朴訥」(巻第七 子路第十三 27)前の文章は、

子曰く、君子は泰(ゆた)かにして驕らず、小人は驕りて泰(ゆたか)ならず
君子は落ち着いていていばらないが、小人はいばって落ちつきがない。

と、巧言令色に関連すると思われる言葉で、いばっていて落ち着きのない人をディスる内容になっています。


 また、幕末の吉田松陰先生は、
「古より大業を成すの人、恬退緩静ならざるはなし」と言っています。
恬退緩静とは…おだやかで人と争わず、ゆったりとして物静かなことです。

 偉業をなす人は、一般的には、ガツガツしてて実行力があってリーダーシップがあって…みたいなのを想像しますが、それだけはないようです。

 上記のイメージは、渋沢栄一的に言うと「偉き人」です。織田信長的なイメージ。
一方、「恬退緩静」は、渋沢栄一的に言うと「全き人」です。徳川家康的なイメージ。

 この視点、『論語と算盤』では「偉き人と全き人」という超おもしろい節があるので(「常識と習慣」の中)、別の機会に紹介したいと思います。

 剛毅朴訥、恬退緩静的な生き方を貫いている人は、不思議な魅力があるらしく、人がついてきたり、人に多くの影響力をもたらすらしいです。

 本当に人間的な魅力がある人は、魅力を隠そうとしても隠しきれない、とも言えるかもしれません。以下引用する『荀子』でも、同じようなことが書いてあります。

善を積む

 ついでに、格言4の元ネタ、『荀子』の勧学篇から、「声は小にして〜」前後の文章を引用してみます。

 昔、コハ(楽器の名人)が大きな琴を弾いたら、沈んでいる魚までも出てきて聴いた。
 ハクガ(楽器の名人)が琴を弾いたら、王様の車を引く六頭の馬までも、聴きながらまぐさを食べた。
 (なので、すぐれた人の声は)たとえ小さくとも必ず聞こえ、その行いは隠していても必ず現れる。
(中略)
 善を行なってそれを積みたくわえよう。どうして名声が高くならないことがあろうか。
(昔者、瓠巴瑟を鼓すれば流魚も出でて聴き、伯牙琴を鼓すれば六馬も仰ぎて秣えり。
故に声は小なるものも聞こえざることなく、行は隠れたるものも形れざることなし。
玉の山に在れば草木も潤い、淵の珠を生ずれば崖も枯れず。
善を為して積まんか、いずくんぞ聞こえざる者有らん。)

 ちょっと意味わかりづらいのと、ストイックな感じを受けます。さすが性悪説の荀子。(蛇足ですが、本当の「性悪説」という言葉は、人間の本性は悪いことを考える、という意味ではありません。「自己中」くらいの意味です。この点、法律用語の「善意」と「悪意」に似たややこしさを感じます。)

 逆を言えば(逆でもないですが)、悪い言動も他人には伝わってしまうので、
身を律して良い言動を心がけましょうよ、ということでしょうか。
こう考えると、格言3(言は多きに務めず)につながっていることを改めて感じます。

 ということは、荀子的には、本当に魅力的な人間になるには、善を積み続けること、といえるかもしれません。「善」を言い換えると、自己研鑽によって自己中を直していくこと、というところでしょうか。
 荀子は、孔子・孟子よりもだいぶストイックな印象があります。法家につながるような。

 荀子、おもしろいですね。今、『孟子』を読みはじめたので、対立(?)する荀子も併せて読んでみようと思います。渋沢栄一の考察とは別に、ネタにしていければ。

 孟子の性善説と荀子の性悪説、反対のことを言っているかのように見えますが、当然ながら、大元は孔子の教えなので、根本の思想は一緒です。どちらも、修養して善を伸ばしていかなければならない、というのも一致しています。

 『論語と算盤』でも、「算盤と権利」の「仁に当たっては師に譲らず」の章で、「両極は一致す」と言っています。
 この節では、キリスト教と儒教で例えています。
 キリスト教は、おなじみの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。
 儒教もおなじみの、「己の欲せざる所を人に施すなかれ」。
 これは、根本が同じ(「愛」と「仁」)ことを、自動的か他動的か、つまり別々の視点から言っている、ということになります。


 本題からかなり話がそれてしまった気がするが…まあ良いでしょう。
 こんな感じで、渋沢栄一に関連する思想や行動なども、織り交ぜて考察していければと思います。

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