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おばんです(朝読んでいる方は、おはようござりす)。

(公財)渋沢栄一記念財団の機関紙『青淵』第863号の、「雑誌に見る渋沢栄一」より、気になったところを抜粋していきます。

雑誌『現代』大正11年新年号に、渋沢栄一が寄稿したものだそうです。
タイトルが、「資本より信用」。

以下、灰色の塗りつぶしが引用で、その下が僕の感想です。

 事業を創めるにしても、商売を営むにしても、先立つものは資本である。いかに有望な事業を計画しても資本がなければその事業を創始することは出来ぬし、(中略)、資本がないために、絶好の機会を眼前に見ながら、他人の活躍するところを指をくわえて見ていなければならぬ場合もある。
 しかしながら、資本は万能ではない。もっと大切なのは人である。資本の価値も、これを活用する人によって定まるのである。

 例えば、コンテンツがよかったとしても、良い使い方を勧められるベンダーと、良い使いかたをするユーザーがいなければ、本当に良いコンテンツとはいえないわけだな…。


 道理正しい使い途を知っている人にして、はじめてその財産にも価値があるのである。されば財産をつくることも結構であるが、資本を最も道理正しく活用する途を覚えることが、最も大切である。
 古い時代にはむしろ精神教育に偏していたようであるが、今日は昔と反対に、科学的教育に偏しているため、精神教育の方面は世ほど閑却されているように思われる。

 これ、約100年前の雑誌の内容です。やっぱり今も昔も人の考えることは同じなんだな…


 しかしてあまり道徳に傾き過ぎると富貴栄達を嫌うようになるし、また、高名富貴にとらわれすぎると、道徳などはそッちのけで、目的のために手段を選まぬという弊風に陥り易い。

 道徳経済合一説。


 「有望な仕事があるけれども、資本がなくて困る」という人がある。なるほど、資本がなければこれに着手することが出来ぬから、本人にとっては定めし遺憾であろうし、資本を持っている人をうらやましく思うこともあろうが、それは畢竟愚痴である。愚痴をこぼすような人はよしんば資本があっても、大いに為すある人物ではない。

 それな。


 一人の資産には限りがあるけれども、世間に信用のある人は、その信用が大きければ大きいほど、大なる資本のを活用することが出来る。
 従って世の中に立って活動せんとする人は、資本を作ることよりも、まず以て信用の厚い人たるべく心掛くることが肝要である。
 しかし力の足らぬのと、知恵の乏しいために、私自身では大なる富をつくることは出来なかったが、実業方面においてはその進歩に相当力を添えたと申し得るつもりである。しかしてそれは私自身に資本があったためではなく、社会が私を信じ、私を援助して下さったからである。

 渋沢栄一は、しばしば岩崎弥太郎と対比されることがある。この一文が渋沢栄一のスタンスをよく表していると思う。


 渋沢栄一記念財団に入会してると、「青淵」という冊子が毎月送られてきます。新1万円札とか大河ドラマで渋沢栄一に興味を持ったかたは、入会してみるといいと思います。本屋やamazonでは読めないような、渋沢栄一の考察ができます。



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