スポーツを連れ出す

 連日暑すぎる・・・。

 どうも!上杉健太です!
 埼玉県富士見市の総合型地域スポーツクラブの代表やスポーツ推進審議会委員、長野県のクラブのアドバイザーをしながら、生涯スポーツ社会の実現を目指して活動しています。総合型地域スポーツクラブのキャリア10年目に突入しました!

 今日は、『スポーツを連れ出す』というテーマでお話したいと思います。かなり不思議な表現だと思いますが、僕のオリジナルではありません(笑) 今読んでいる小説『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)に出て来る表現をパクっただけです。

 『蜜蜂と遠雷』はピアノ(音楽)のコンクールが舞台となっているお話なのですが(※まだ半分くらいの時点だけどめちゃくちゃ面白い!)、そこですごいピンときたというか、スポーツで僕がやりたいことも、そういうことなのかもしれないなと思った部分があったので、以下に引用してみます。小説の中でコンクールの審査員たちの頭を悩ませる天才ピアニストの塵(じん)の師匠との過去を回想するシーンです。

 そういえば、以前先生と似たような話をしたことがあったっけ―――
 パリの国立高等音楽院に初めて行ったあとのことだった。
 立派な建物の中で、堅苦しい衣装をつけてポーズを取らされ、照明を当てられた音楽を、連れ出したいなぁと塵が呟いた時、先生は小さく笑った。
 そして、ふと、何かを思いついたように顔を上げると、塵を振り返ったのだ。
 よし、塵、おまえが連れ出してやれ。
 少年はきょとんとした。
 先生は、底の見えない淵のような、恐ろしい目で少年を見た。
 ただし、とても難しいぞ。本当の意味で、音楽を外へ連れ出すのはとても難しい。私が言っていることは分かるな? 音楽を閉じこめているのは、ホールや教会じゃない。人々の意識だ。綺麗な景色の屋外に連れ出した程度では、「本当に」音を連れ出したことにはならない。解放したことにはならない。

『蜜蜂と遠雷』(恩田陸)より

 いつからか、僕はこう思うようになっていました。

「スポーツはもっと寛大なはずだ。あらゆる形になり、誰をも受け入れる寛大さを、本来のスポーツは持っているはず。でも、僕たち人間がそれを狭くしてしまっている。スポーツとはこういうものだと余計な定義をして、限定してきた。」

 大学生の頃にフットサルクラブを立ち上げて、色々な人とスポーツをするようになるまで、僕は”狭いスポーツ”の中で生きていました。勝ち負けをスポーツの全てのように捉え、高校時代なんかは、「やる気がないならやめろ!」と何度部員を怒鳴りつけたか分かりません。勝ちたい、上手くなりたいという僕自身だけの想いを、他人に押し付けていただけだということが今なら分かるのですが、当時は「スポーツってそういうものだろ!」と本気で思っていました。僕はずっと、狭いスポーツの中で生きていたんです。いや、僕が勝手に、スポーツを閉じ込めていたのでしょう。狭い狭い僕の価値観の中に。

 たぶん、そんな僕を解放してくれたのは、大学生の頃に出会った”お腹の出たおじさん達”だったり、会社のサッカー部で出会った”還暦になってもサッカーボールを追いかける先輩”だったりだと思います。彼らは、真剣に勝ちを目指してはいましたが、それよりも大切なことを知っていたように思います。人と話すこと、笑顔でいること、人を思いやること。例えばそういうことです。僕は彼らに影響を受けたのか、次第に勝ち負けに固執することがなくなっていったように思います。いや、今でも負けず嫌いの性格は持ち合わせているのだけど、それよりも何より、終わった時にみんなが笑顔であるかどうか。そういうところにこだわるようになってきたような気がします。

 そんな僕はやがてスポーツでもっと日本を幸せな国(社会)にしようと、総合型地域スポーツクラブの仕事を始めます。スポーツ界に実際に入ってみると、色々なスポーツの形があることを実感するとともに、”狭いスポーツ”に苦しんでいる人たちも多くいることが分かりました。”かつての僕”が苦しめてきた人たちです。

「走れ!」
「大きな声を出せ!」
「早く整列しろ!」
「揃えて挨拶をしろ!」
「努力をしろ!」
「ヘラヘラするな!」

 本来、『遊び』であるはずのスポーツに、ありとあらゆる強制や強要、禁止が持ち込まれ、「スポーツとはこういうものだ!」と押し付けられ、そこに”ハマらない”人たちをとても苦しめていたんです。そういう狭いスポーツにハマらなかった人たちは、「自分はスポーツに向いていないんだ」とか、「スポーツなんか嫌いだ」と思い込んでしまっていました。そのスポーツは、一部の人間が勝手に狭くしたもので、スポーツのごくごく一部でしかないのに、です。本来のスポーツはもっと寛大で、走らなくても、大きな声を出さなくても、整列なんかしなくても、挨拶なんか揃えなくても、努力なんかしなくてもできるものがたくさんあるのに。

 僕がやってきた総合型地域スポーツクラブが、そういう人たちに「こういうスポーツのやり方もあるんだ」「俺たちもスポーツをやっていいんだ」と思わせなければいけない。理由もなくユニフォームを揃えることはないし、定型の挨拶も基本的にはありません。(※コーチが独自にやっているパターンはあるかも) 大会への出場を強制することもありません。特に、他のクラブなどで挫折や酷い思いをさせられた人に対して、僕たちは絶対にスポーツの寛容さを見せつけなければならないのです。あなたはあなたのままでいい。絶対にスポーツは、あなたを受け入れる。


 総合型地域スポーツクラブは、多様なスポーツコンテンツを揃えるクラブです。それは、色々なニーズに応える為であり、色々なスポーツの形を体現する為です。しかし一方では、それぞれのスポーツを区切って区切って、狭く狭くしている行為でもあります。これをマーケティング用語でセグメントと言いますが、セグメントによってスポーツを狭めてしまっているのは間違いありません。狭めたスポーツではミスマッチが起きやすい為、絶対に他の選択肢をすぐに選べる(※そのスポーツをやめて、変えられる)環境が必要です。あるいは、実は理想形は、完全に解放されたスポーツ。セグメントなんてせず、自由にみんながスポーツで遊ぶ場が一つあるだけ。そういうことなのかもしれません。クラブハウスにその可能性を見出すことはできましたが、それはほんの一欠けらを拾えたかなというレベルの話で、具現化のアイデアすら僕にはありません。それが理想かどうかも分からないです。でも、本当に本当にスポーツを解放した先には、”セグメントゼロ”みたいな状態があるのかもしれないなという気はしています。分ける(セグメントする)という方向性もあるが、逆に分けないという方向性もある。そのどちらがスポーツを解放することになるのかは、今の僕にはまだ分かりません。まだまだ追究していかなければならないことなのでしょう。

 ただ、やることは明快です。僕はスポーツを連れ出す。僕たちが築き上げてきてしまった狭い価値観から、スポーツを連れ出す。また、狭いスポーツの中に閉じ込められた、あるいははじき出された人たちに、スポーツの寛容さを取り戻させる。スポーツのもっと多様な側面を社会に提示する。こういうのを丁寧にやっていった先に、たぶんまた何らかの答えが見えて来るのかもしれません。


 ということで今回は、『スポーツを連れ出す』というテーマでお話しました。とりあえず『蜜蜂と遠雷』の残り半分を読み切りたいと思います。おススメの本です。

今回もお読みいただきありがとうございました!
ではまた!

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総合型地域スポーツクラブや筆者の挑戦のリアルな実態を曝け出しています。自ら体を張って行ってきた挑戦のプロセスや結果です! 総合型地域スポーツクラブをはじめ、地域スポーツクラブの運営や指導をしているかた、これからクラブを設立しようとしているかた、特に、スポーツをより多くの人に楽しんでもらいたいと思っているかたにぜひお読みいただきたいです!

総合型地域スポーツクラブのマネジメントをしている著者が、東京から長野県喬木村(人口6000人)へ移住して悪戦苦闘した軌跡や、総合型地域スポ…

総合型地域スポーツのマネジメントを仕事としています。定期購読マガジンでは、総合型地域スポーツのマネジメントに関して突っ込んだ内容を毎日配信しています。ぜひご覧ください!https://note.com/kenta_manager/m/mf43d909efdb5