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嬉しいと悔しい、どっちが正解か分からないが、とにかくダサい話。
男女3人ずつの飲み会があった。私は上座の正面に座っていて食べ物の取り分けやお皿を下げるなどのあれこれができなかった。会話を楽しもうとしていた左耳しか聞こえない私にとって、その場の話に参加しやすい状況を作るためにはそのポジションをとることが最優先事項であったわけではあるが。その会に参加していた友人の女の子による後日談では、私以外の2人の男の子が優しかったねと、男3人衆とはあまり関わりがない女の子が言っていたらしい。本来であれば、それはもの凄く不甲斐ない評価で、優しいと思われるだけの行動ができなかった自分に腹が立ち、悔しさを滲ませる寸前で拳を握ることで感じている悔しさを隠すような場面だったと思う。でも、私の心に生まれた感情として、悔しいより先に嬉しいがあった。その会に一緒に参加していた2人の男の子は、私が自信をもって誰にでも紹介できる2人だったからだ。その会で私が他の人から優しいと思われる立ち回りをしなかった・できなかったことで、彼らの優しい素敵な一面が伝わったのであればそれで良かったのだと思えたのである。2人のためならいくらでも引き立て役になりましょう。そこから誰かと誰かの素敵な何かが始まるのならいくらでもダサい男になりましょう。
なんてことを考えていたさっきを思い出して書いてみたが、正直なところあの場で特に何もできなかったただダサいだけの自分を正当化しようとしてるだけだなと思い始めてきた。加えて、そのダサい自分をあえて隠さずに言葉にして、自分を客観視できていますよという空気も含めて醸し出すことで、まだギリギリただダサいだけじゃない自分を演出しようとしているのかもしれない。かなりダサい。でも、こんな人間でも一緒にしょうもない話をして笑ってくれる友人がいる。みんなと同じように生きている。ダサい自分を認めてあげながらも生きていっても何も問題ないのかもな。そんなことを思いながら深夜のドライブを終えた今日だった。