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アクアリウム

無駄に長い歩道の幅に対して
申し訳ないくらいに、はじっこを歩いていた。
梶裕一は カシミアのセーターの二の腕をさすりながら
広い土地から 吹きぬける風をたどるように
瞬きをしている。

枯葉が乾いた音を立てて横切った。
秋の気配に、憂鬱になってくる。

目標は明確なのだが
生産性のない毎日に、ふと寂しくなる
(浪人生と名付けたのは一体誰だよ まったく。
もっと、ポジティブな名前にしてくれれば、もう少し気は晴れたのに
キャンパス予備軍とか プレアカデミリアンとかさ)

誰かに文句をつけるような、口調で
独りごちながら、裕一は駅前の柏木予備校へ
足を運んだ。 学生証を係員に見せて
授業のある教室へと赴く。

教室の生徒たちは、どういう訳かトーンダウンした色調に見える
皆一様に、受験戦争での敗者として屈辱を味わったからなのか
あるいは、努力せずして、なんとなく予備校に来てしまったからなのか?

そしてきっと僕も冴えないんだろうな。と伏目がちになった頃

「おはよう おはよう ドイツ語ではグーテンモルゲンだっけ?
いやいや朝から、イッヒディーベディッヒだよ梶君 あっはっはっはぁ!」
他人の目を全く意に介さない、大声で話し掛けてくる奴がいる。
高校時代のクラスメートで、めでたく同じ敗北者
西上力亜である。この男に『リキア』なんて洒落た名前をつける
両親のセンスを疑いたくなる。もっとも力亜の性格は
完全に後天的なものではあるが。

「坊主頭の男に、アイラブユーなんて言われたって嬉しくないよ。」
僕は力亜の頭を小突いた
「ほう。流石はお医者様のご子息、ドイツ語のたしなみはおありで?」
とワザとらしく目を丸くしていた。
秋深しというのに、半袖の黒いTシャツ。
背中には Grateful Dead と銀色の装飾文字で書かれ
その下には写実的なドクロの目から、薔薇が咲いている
よく分からないが、趣味がいいとは言えない。

医者の息子。僕にとって今まさに、その立場が重くのしかかって来ていた。
父はこの街の開業医で、いずれは僕も医者にという
全くもって前時代的な
古臭い、カビの生えた・・・とにかく堅い考えの持ち主で
とうの僕はといえば、医者になる気などはさらさら無く
いっそ平凡なサラリーマンか、魚屋さんにでも
なりたいくらいだった。

そんな心境を見透かしてからだろうか
からかっているのだろうか?ヅケヅケと人の心に土足で
侵入してくる隣の友人は、まったくもって
一番優しい言葉で表現するのであれば

変人

なのである。

生徒に媚びるような笑顔をたたえた講師の
恭しい挨拶で、教室の空気が一変した。
生徒達は教科書を開き「臨戦体制」になっている。

代数幾何
数学のくせに、四文字熟語の偉そうな教科書が
威圧的だ。もっとも数学は得意な方だから
名前なんて、関係ないけど。

数字よりも圧倒的に、アルファベットの方が多い数式を
講師がカツカツとリズミカルに板書している。
それを目で追いながら、ノートに書き写して
目の前の問題を解く
教えられる側のプロとしては、もうルーティーンワークと言って良い
毎日の作業だ。 高度な問題に差しかかると
計算用紙は白から黒の幾何学模様へ、変容して
僕の脳回路もだんだんと停滞気味になっていく。
いらだち紛れに
横目で、力亜の様子を伺うと

ニヤニヤしながら計算用紙に、オリジナルのキャラクターを書いていた。
全体的に、まん丸い形の奇妙なキャラクターだ。
「好きで生まれたわけじゃないやい!」という吹き出し付き。

「なんだよそれ?」僕は小声で尋ねると

「ん?これね、アンパンマンとドキンちゃんの間にできた子供
『ドキパンマン』 これってさ最も倫理的に
不潔なプロセスで生まれたって感じしない?あはははは。」

聞くまでもないが一応聞いてみた
「問2は解けた?」

「ん。」
力亜は、無造作に解答用紙を僕の机に差し出す
美しい解法式と、論理的に揺るぎない解答がそこに記されていた。

「なぁ、みんな地球に優しくないんだよね。」
力亜は、周りをくるりと見渡して言った。

「何がだよ?」予備校の数学の授業で、エコロジーを語るつもりなのか?

「シャープペンを無駄な思考に費やして、紙と炭素を無駄にしてるんだよ。
どうして最短距離で答えにたどり着けないのか不思議でしょうがない。
無駄なエネルギーを使ってるとしか思えないよ。
渋滞が好きな都会人みたいだ。」

「そう言う力亜の、ドキパンマンの方がもっと無駄のような気がするけど。」

「裕ちゃん甘いよ。俺は暗算で解いてるんだ。紙は使わないの
これは効率の良いプロセスが生産した、非常に価値のある
時間てやつの賜物なんだ。哲学と芸術は最も贅沢品
なんだ。それを手にできるのは、無駄を省いた者のみなんだよ。」
片目をつぶる力亜。

「はぁ。何しに予備校なんか来てるの?」

「決まってるじゃん。裕ちゃんに会えるから。」
まったくどうしてそんな可愛らしい笑顔ができるんだよ。
ちょっと、見とれてしまったら

隙をついて、問3の解法式と解答を僕の教科書に書いていた。

「なあ、裕ちゃん」

「どうしました?博士。」

「ドキパンマンの必殺技考えてよ。」


力亜は子供だか大人だか良く分からない。
もっとも僕はといえば、分かろうとも思っていないけど。
彼を最も優しい言葉で表現するのであれば

変人

である。 それで 悔しいかな

天才

でもあるんだ。

午前中の二限目
僕は日本史の授業、力亜は世界史の授業に
それぞれ赴いた。廊下で別れる時

「じゃ、いつものラウンジで」とお互い右手を挙げた。
力亜はまだ、ドキパンマンをヒラヒラさせている始末だ。

柏木予備校はテレビCMを打つような
大手予備校らしく、学生に対するホスピタリティが
整っている。「充実の環境で、第一志望をゲット!」なんて謳い文句は
あながち嘘ではない。ラウンジと呼ばれる、休憩室は広く
教室のそれよりもやや柔らかい座面の椅子が
丸テーブルを囲うように放射状に備え付けられている。

入り口入って左側には、自動販売機がいくつも備え付けられている
飲み物はもちろん、菓子類、パン、カップラーメンまで揃えられた
充実ぶりだ。まるでドライブインのような佇まいである。

カタンと音を立てて
僕はまたボールペンをテーブルの上に落としてしまった。

カタン カタン
勢いがつきすぎて、テーブルから床にペンが落ちてしまった。

隣では例の天才が、高らかに笑ってる。
「あっははははははははは。気づかなかったよ。
裕ちゃんできないんだ。」

「できなくたって、成績には関係ないだろ?」

「いやあるね。」そう言いながら、力亜の左手では
万年筆が踊るように、クルクルと回転していた。
ペン回しというやつだ。滑るような動きを目で追うのが疲れるくらいだ。

カタン 僕は真似しようとするが、反回転もしないうちに
落としてしまう。

「外科医は、このくらいの芸当できないと
満足にオペだってできないよ、裕ちゃん。」

「だから僕は、医者になるつもりはないんだって。」
ボールペンを振りながら、かぶりを振った

「いや、裕ちゃんは医者になる。そして俺は・・・
何がいいかな?特に決めようとも思っていないんだけど。」
唐突な人生相談だ。話のチェンジサイドをされても
うまく対応できるわけがない。

「僕は医者になどならない。力亜は自分の出来ない事を考えて
それに該当しない物なら、何にでもなれるんじゃないか?」

「俺にできない事って何だろう?」
そんな悩み、全知全能の神だって口にしないだろうな。と思っていると

「とぉ。」と突然、力亜のつむじに繰り出される手刀

「西上ぃー」と、わざと意地悪な声を出している彼女を見上げ

「人が自分の謎に立ち向かってるときになんだよ。このエニグマ泥棒!
サンスクリット語ではブラフマン泥棒、そんでドイツ語では・・・」

「はいはいわかった、謎を頂戴してごめんなさいね。」

お手上げの仕草をしてるのが、平田知香子
トーンダウンした予備校生の雰囲気の中で
ひときわ異彩を放つ彼女の容姿は、春のように華やかだ。
もちろん暗喩としての春も含む訳で。

鎖骨から胸元にかけて、ぐるりと空いた柔らかそうな
毛糸の半袖セーターに、同系色のカーディガンを羽織っている。
その肉感的なプロポーションは、男性には憧れ
女性には嫉妬の対象になっているにちがいない。

「ね?ここ空いてる?」ショートカットの前髪を揺らして
僕の隣に坐った。僕は少し彼女の胸元が気になってくる。

むず痒い気持ちになったので、助けを求めるように
力亜に視線を送ると、無遠慮に知香子の胸を凝視している。

そんな視線は慣れっこといった具合に
知香子はその大きな胸をテーブルの上に乗せて
「肩凝った」という風な溜息をついた。

「あ、その万年筆。パイロットの蒔絵シリーズじゃない?」
知香子は力亜の左手から、万年筆をひったくると
しげしげと眺めた。僕はこっそり知香子の横顔を眺める。

「これってさ相当高価な代物だよ。百貨店の文房具屋さんのさ
一番偉そうなスペースにディスプレイされているような・・・・綺麗。」
マスカラが上手に乗ったまつ毛をしばたいた。

「あ。」の声に僕はあわてて視線をそらす
「貰ってきた?模試の結果。」

「う うん。貰ったよ。」二限目が終わってから窓口で受け取って
結果を斜め読みしただけだった。

「西上は?」知香子の言葉にやっと凝視をやめた
力亜はコンビニの袋から、くしゃくしゃのそれを取り出した。

「どうせ書いてあることなんて、いつも通りさ。
初詣で引いた、おみくじみたいなもんだよ。『大吉ですけど
浮かれ過ぎると、痛い目みますよ。』てな具合さ。」
分かってはいるが、力亜の結果見る。

パーフェクト。

日本最難関の国立、私立大学の名前が
頭のいい順とばかりに、列挙されて軒並みA判定だ。

ただ選択している学部がめちゃくちゃだ
医学部 文学部 理工学部 芸術学部

「はぁーなんだか嫌なもの見ちゃった気がする。」知香子は
一層胸をテーブルに押し付ける格好になった。

「あんた 一体何になりたいわけ?」

「それをおまえのチョップが、破壊したんじゃないか!」

知香子は僕と目を合わせると、同時にプッと吹き出した。
「私のチョップは天才をも超越するか」

「知香子ちゃんは、どうだったの?模試。」僕は勇気を出して「ちゃん」付け
してみた。

「あーそうねぇ 微妙だわ。第一志望はC判定だったわ。」

「何を目指してるの?」

「そりゃもちろん。殿方を惑わす魔性の女よ。」と僕の顎をなぞった。

「今でも十分な気がするんだけど。」

「あら、お上手ね、梶君は。ちょっと西上ぃーいつまで見てるのよ。」
胸の谷間を隠す仕草

「ちょっと返せ 確かめるから。」万年筆を取り返すと
くしゃくしゃの模試結果を伸ばし
その裏に、すごい勢いで数式を書き始めた。

三角関数を応用した、物理で見たことある式が
すごいスピードで展開されていく・・・。

「おーい西上ぃ。力亜くーん。」知香子が坊主頭を撫でても
力亜は無反応だ。数式に取り憑かれたように集中している。

それを潮に、知香子は席を立った。
入り口近くの男子生徒たちが、しきりに知香子の方を伺っている
そのテーブルの前に差しかかると、知香子はわざとお尻を振るように
歩いた。 魔性だな と思わず呟いてしまった。

カタン

万年筆を置く音が聞こえた。
力亜は顔を上げると、こう言った。

「裕ちゃん、おっぱい揉みに行かないか?」

「え?何?」ポカンとしていると
力亜は僕の肩を叩いて、意味ありげな手の動きをした。

「自然とはよく出来てるもんだ。マザーネイチュア礼賛でございます。」

ますます分からない。この天才の頭の中身は
一体何が入ってるんだろう?もしかしたら
発砲スチロールなのかもしれないな。
自分の想像に苦笑しながら、英語の教室へ赴いた。

秋の日はつるべ落とし
午後の授業を終え、予備校を出るころには
夜へのグラデーションが色濃くなっていた。
昼の気配は、踏み切り越しに見える、遥かむこうの空の端に
往生際の悪いコバルト色が張り付いている程度だ。

線路を越え、ロータリー両脇に立ち並ぶ
明るく連なる店先を過ぎると、その名残を一切忘れさせる
平らな土地が広がって、木々の間からは
直方体の建物達から放たれた、蛍光灯の光がちらついている。
風が吹くと、シルエットは揺れ、光が点滅するように見えるのが
妙に寂しい。

研究学園都市
もともと政府の通信基地だった、広大な土地を
第三セクターの資本で買い上げ、国立大学を中心に
研究施設や公園などが整備された、閑静で緑あふれる街。

最近東京から乗り入れた、快速特急の開通により
人口も大分増えつつあり、にわかに駅前が活気づいてきた。
僕が住む松野市は、ざっとこんな街だ。

半袖のTシャツを着た、季節外れの
天才は、先ほどの発言などもう忘れたかのように
歩いている。 平坦で広い土地には似つかわしくない。

家路はいつも、寂しいものだ。

力亜も僕もそれとなく無言で歩いて帰るのが
最近の常だ。秋はそういう季節なんだ。

大きな塀が、視界をさえぎり始める頃に
力亜は右に曲がる。そう、その塀こそが
力亜の家を囲む物なのだ。

豪邸
漫画やテレビの中でしか聞かない言葉。
触れたことのない世界の物は、無いことに等しいが
彼にとっては日常なのである。なぜなら自分の家だから。

力亜の両親は、葬儀社を経営している。
伝統産業というのは、暗黙の了解があり
古い縄張り意識とでも言うのだろうか、他府県に参入しづらいもの
らしい。地場の互助界という組織が、力を握り
外部からの、新規参入から葬儀会社の組合を守っている格好になっている。

しかしながら、西上家一族はそれを、戦略的経営で
突破して、なんと隣県の互助界ごと買収するという
豪奢なことをやってのけた。
今や全国でも、片手の指に収まるほど、大きな会社になっている。

噛み砕いて言えば、大金持ちなのである。

力亜は、そんな自分の境遇を鼻にかけるでもなく
瓢瓢と暮らしている。彼の興味はお金ではないらしい。
もっとも、うなるほどお金のある家だから、当然かもしれないけれど。
僕が力亜と友達として付き合えるのも
彼の性格に起因していることが多いし
力亜は何故か、僕をやたらと好いてくれているのだ。

天才で変人の金持ちに好かれるのも悪くない。

繊細なカーブを描く力亜の顎を
横から眺めていると、急にこちらを向いた。
少しドキリとした僕の目を見て、力亜は相好を崩した。

「じゃ、来週の日曜日ね。」とまた意味不明の手の動き

「え?何?」

「だからこれだよこれ。おっぱい揉みたいだろ?」

「本気で言ってるの?」

「本気だよ。神が我々に与えた、すばらしい感触だよ。
それがさっき、俺の手の中で美しく表現されたんだ。
それを確かめるんだよ。」

「わかった、わかった。」と言いながらまったく分からない僕は
不安になるばかりだ。

「よし。じゃ、日曜日。裕ちゃん家に迎えに行くからさ。」

「う、うん」

「じゃあね。また明日。」

「じゃ、じゃあね。」

金持ちだからなあ・・・。お金で雇った女の子でも呼んで
よからぬ事でもするのだろうか?僕も興味がないといえば嘘になるけど。

不意に知香子の、胸の谷間を思い出して
いやらしい気持ちになってしまった。

いかんいかん。

頭を振りながら家路を急いだ。

すっかりと日が暮れ
肩を窄めて帰る勤め人が、増えるころ
湯気の立ちこめる温かい屋台は、その色合いを
優しく映し出す。常連達の笑い声が響いて
そこだけ、繭のように柔らかく感じる。

右から左に流れるような字体で「おでん」の文字。
店の主人、牧村は今日もニコニコしながら
おでん達を、大事に大事に扱う。

「それじゃ、あたしはねぇ。がんもとこんにゃく。あとこれお代わりね」
と空のコップ酒を差し出す女性。

「はいよ。」素早くおでんを用意する、牧村。

がんもどきはガッツポーズをして、みんなに向かって手を振った。
こんにゃくは牧村に「お世話になりました。」と何度も頭を下げている。

おでん達は、お客に食べられ美味しいと言われることが
何よりの生き甲斐だ。そんな彼らのシンプルさが
牧村にとっては、うらやましい限りだ。

おでん達の声は、牧村にしか聞こえない。
そう、ここはちょっとした魔法がかかった、おでん屋なのだ。

「まだ飲むんですか?佐藤先生?」連れの男性が心配そうに言った。

「当たり前じゃない。こんなに美味しいおでんがつまみなのよ。
ねぇ?牧さん。」

「あははは、こりゃどうも。ありがとうございます。」おでん達に
今の聞こえたかい?と目で示した。

「それにね。今日はいい事あったんだもん!」

「そりゃそうですけど。それにしても飲みすぎですって。」

「いいの、いいの長坂先生だって、飲みなさいよ。男なんだし。
私の祝杯に、付き合いなさいよ。」

「知ってるくせに。僕は下戸なんですよ!」

「ほーう。こんなに美味しいおでんで酒も飲めないなんて。
長坂先生、いい論文かけないですよ。そんなんじゃ。」

「根拠がまるでない言いがかりはやめてくださいよぅ。あ、牧さん
僕、白滝と昆布とやっぱり大根ね。」

「はいよぅ。」
この街のお客さんは、互いに先生と呼び合う人が多い
たぶん、研究施設や、大学が多いからなんだろう。
緑も多いし、子供達を遊ばせる公園や空き地があるのが気に入っている。
来てよかったな。 牧村は目を細めた。

「当ててみましょうか?」とウィンク

「へ?」

「だから、どんな嬉しい事があったのか、当ててみましょうか?」

二人の男女は身を乗り出した。
それから佐藤先生と呼ばれた女性の方は、小首を傾げて言った。

「また始まった。牧さんのお告げ。嫌だな、びっくりするくらい当たっちゃうんだもん
でもあれよ。『素敵な男性に言いよられた。』とかそういうのは無しよ。
私のいい事ってそういうことじゃないからね。」

「あはは。分かってますって。」と言いつつ、厚揚げの声に耳を傾けた。

いたずらっぽい笑顔を急におさめて
厚揚げの声を拾う。

おでん種の中で 厚揚げは特別な存在。なぜなら
彼女はどういうわけか、お客の過去や未来が見えてしまう。
女性客の姿を、朧げに見つめた厚揚げは
そっと息を吸うと、牧村に告げる。

その声を拾って、牧村は客である「佐藤先生」に
反応を楽しむかのようにゆっくりと話し始める。

「佐藤先生は、難しい研究をされているそうですが
まぁ、私のような素人はよく分からないですけど。
その研究成果をまとめた論文が、研究者の間で購読されている
学術書に掲載されるんですね?」

「そうそう。そうなのよ。やっぱり牧さんすごいわ。
あれかな?私の表情読んで、当てちゃうわけ?読心術?」

「いやぁ、そんなんじゃないですけど。」とバンダナを巻いた頭を掻く。

「うーむ。凄いなあ。」長坂も感心している。

「それで」

「それで何?」身を乗り出す佐藤

「そのう、論文のタイトルなんですけど・・・」

「えっ?えっ?」何が起こるのか、期待と少しの恐ろしさを先に察知した
長坂が落ち着きをなくしてゆく。

「有機的・・・アル、アルコールじゃなくて 何だ難しいな。」

「アルゴリズム」と佐藤が語気を強くした後に
やはり戸惑いを見せる。

「そうだ、それ。『有機的アルゴリズム応用による量子力学的数式の展開』
かな。私にはさっぱり何のことだか分かりませんけどね。あはははははは」
と笑って、肩をすくめてみせた。

先生と呼び合っている二人は固まっていた。
パチャン

長坂がお皿の上に白滝を落とした音が聞こえた。
佐藤は二度瞬きをして、アングリと口を空けている。

「えっと、何かまずいこと言いました?私。」牧村は申し訳なく
ヒラヒラと左手の手のひらを振った。手首の金のブレスレットが揺れる。

その光でようやく我に帰った佐藤が言った。
「牧さん、そのタイトル。あってる事はあってるんだけどね。
掲載された、論文のタイトルとは違うのよ。」

長坂は、上司である佐藤と、牧村を交互に見ている
テニスの観客のようだ。

あれ?厚揚げの預言は絶対なんだけどな。と心の中で首を傾げる
牧村。

「その論文はね、今私達が取り組み始めたばかりの論文なのよ!
まだ仮説を立証する段階なんだけど。それにしても・・・牧さんの口から
アルゴリズムなんて言葉・・・当てられちゃったことが凄過ぎて
なんだか。突き抜けちゃって、可笑しくなっちゃた。あははははははは。」

「佐藤先生と牧さんてどういう関係なんですか??」自分の知らないところで
上司と牧さんが繋がっていると思った長坂は、嫉妬に似た声を挙げている。

「おでん屋とお客さん以上の何でもないよ。」牧村はフフフと笑った。
厚揚げめ、読んだのは過去じゃなくて、未来だったんだ。

「牧さんは凄いのが分かったし。その牧さんのお告げで
今の研究が、良い方向に向かいそうだってことも分かったわ。
なんかそういうの嬉しいじゃない? えっとこれお代わりね。
あと卵とゴボウ巻き。」祝い酒に拍車がかかる。

「まだ飲むんですかぁ?
まぁ僕も嬉しいんで、一杯付き合いますよ。」モヤモヤした気持ちを
一掃したそうな声だ。

「それでこそ、チーム佐藤だよ、長坂先生。
では、次の研究の成功を祈って 乾杯!」

「乾杯!」

長坂を見る、佐藤の目に少し色気が出てきたことに
気づいたのは、まだ厚揚げと牧村だけだった。

秋風が木々を揺らし、冬の気配をちらつかせた頃
牧村は景気よく飲む、二人の客の相手をしながら
ふと 何の気なしに振り返った。

公園のフェンス越しに見えた影。
いや光だろうか?スズカケの木の下に何かがいる。
内側から光るような白い影が・・・人?だろうか
しゃがんでいるようにも見える。
木の根元をしきりにさすっているようだ。

(誰だろう?若い女性のようだが・・・。何をしているんだ。)

「ちょっとちょっと牧さん、牧さーんてばぁ」
すでに呂律のあやしい佐藤が、手を招く

「今度はあたしの結婚相手を教えてよぅ。もう三十路超えそうなんだから
焦ってないって言えば嘘になるわけよ。たまには数式とプログラム以外に
恋愛に打ち込みたくもなるわけなんだけどさぁ。」

厚揚げと牧村は苦笑した。

もう一度振り返ると
先ほどの影は、あとかたもなく消えていた。

休診日は少し憂鬱だ。
梶診療所は、土曜日の午後からと日曜日
木曜日の午後が休診だ。

休診ということは、当然父の休日ということになるわけで
父の休日とはそれ即ち、父が一日家にいるということで
それ即ち、顔を合わせることになる。

実直というか勤勉というか、父の生活スタイルは
休日でも平日でも、同じ時間に目を醒まし、同じ時間に
食卓で新聞を広げていた。

「おはよう。」母に聞こえて父に聞こえるかどうかの声で
遅めの朝ご飯にありつこうと、リビングに降りてきた僕は
やっぱりどことなく、部屋の空気が重たい。

顎を、少し上げ
新聞の上辺、延長線上に僕を認めた父は
あぁ とも うぅ ともつかない息を漏らしただけだ。

分かってる。
大学受験に失敗して以来。
父との齟齬を感じる。
いや 失敗そのものは瑣末な問題だ。

医学部を受験しなかったことが
将来僕に病院を継がせようと考えている
父との確執を生んだ。

僕は子供の頃から、父の鷹揚な態度が威圧的で嫌いだった。
製薬会社の営業マンを相手にする時
医療器具の業者を相手にする時
父は尊大な態度で望んでいた。その目が、子供心に怖かったんだ。

確かに社会的地位の高い職業かもしれない。
誰も周りの人が諌めない、一国の主たる
開業医。ただそれゆえの高圧的、威圧的態度が
僕にはどうも解せない。テレビでは小さい島でかいがいしく
島民を診る優しい先生を主人公とした
ドラマが流行っているけど、あんなのは嘘だと思う。

いつしか、父の様にはなりたくない。

そう思うようになった。

「裕ちゃん、調子どう?」部屋の空気を入れ替えるように
母は絶妙のタイミングで、話題を振る。

「うん。前の模試では、大方B判定だったよ。」

「それっていいの?悪いの?」お嬢様大学を
中学からエスカレーターで卒業した母には、受験の厳しさなど分からない。

「確実って訳じゃないけど、このままのペースでやれば
なんとか大丈夫ってことだよ。」
ここで臍を曲げるほど僕は子供じゃないんだ。

「そう。毎日頑張ってるもんね。」

バサリ
父が新聞をめくる音。


牛乳を飲み終えた僕は、テレビの音に逃げた。
最近露出が目立つ、お笑い芸人が
東京の有名な洋菓子店を、得意のギャグを交えながら
紹介していた。目を伏せ、溜息を噛み殺す。

「どこの大学行きたいのよ?ねえ。」
母が僕の後頭部に話し掛けてきた。

「いやぁ。どうしようかなって、さ。」軽い調子がうまく出せたかな。

バサリ
父が新聞を置いた。

コーヒーに手を伸ばして、詰まるような声で

「まず、何をやりたいか だ。」と言った。

芸人のおどけたギャグで笑おうとした。うまく笑えない。

バサリ
もう一度新聞を広げる音

「医学部以外は認めないからな。」強い語気だ。
父はまた、あの目をして言ったに違いないんだ。

テレビを消して、自分の部屋に戻った。

ドアを占めるとき、母の困ったような
「お父さん」という声が聞こえた。


部屋に入ると、携帯電話がメールの着信を知らせるランプを
点滅させていた。力亜からだ。
やっぱりあいつはいつも欲しいタイミングで
メールをくれるな。

メールを開くと

「グーテンモルゲン!裕ちゃん。素敵な休日には
素敵なおっぱいを。もうすぐ梶邸に到着にて。」

携帯電話を閉じると同時に
上品なクラクションの音と
「裕ちゃーーーん。遊びましょう。いろんな意味でぇぇぇ。」
という力亜の声が聞こえた。

急いで、着替えて
家のドアから出ると

真っ赤な アウディから
真っ黒の服を着た力亜が、満面の笑みで手を振っていた。
「おぉー早く早く!美しい自然科学日よりだよ。」

「おはよう。」玄関に向かって出かけてくるー。と言うと
バスケットシューズを突っかけて、力亜の乗るアウディへ向かった。

空は高く、刷毛で一筋書いたような雲が見えた。

つられて空を見ながら アウディの右シートに
体を滑りこませると、革張りのシートがお腹が鳴る音に
そっくりの音を立てた。

力亜はまだ、左シートの運転席から空を見上げて
「いい天気。」とニコニコしている。
「どこ行くの?」というありきたりな質問をする自分が
ちょっと子供に思えた。でも相手が力亜ならしかたないか。

ハンドルに手をかけながら彼は
「もう目的地には着いているんだ。」と頷いた。
まったく訳の分からない返事に。車の中が僕の頭から出た
クエスチョンマークで埋まっていく気がする。
首をひねると、同時にエンジン音。
力亜はキーをひねり、スムースなアクセルワークをみせた。

「着いてるって何?どういうこと?」どうして僕はいつも
力亜を質問攻めにするんだろう。

前を向いたまま、力亜はスマイル顔で
「裕ちゃん」とつぶやいた。おもむろに電動ウィンドウを
4枚同時に開け放つと、エンジン音よりも大きく
こう叫んだ。

「オール・オブ・ザ・ワールド!!」

車内は瞬く間に、秋の風で満たされ
心地の良い涼しさと、爽快さのフォルテッシモを奏で始めた。

暴れる前髪をなだめるように、髪をかき上げていると
力亜はくしゃくしゃの紙を右手で差し出してきた。
予備校のラウンジで見た、模試の結果だ。

例のパーフェクトな結果が記されている。
モヤモヤとしたうらやましさを感じずにはいられない。
頬をそれとなく膨らませていると

「そっちじゃないってば、裏 裏。」と力亜に促されて裏面を見た。
すると
古い西洋建築の美しい模様かと見紛う数式が
びっしりと整列していた。
重力 力 ベクトル 弾性 面積 質量 それら全ての因子が
矛盾なく行儀よくおさまっている。
数式の末尾には A 60km/h と記されていた。

「これって何を求めた数式なの?」口をついて出るのは質問ばかりで
本当にクエスチョンマークに埋没してゆく自分が見えるような気がしてきた。

ニコニコしながらハンドルを切っているコイツは
僕が一生のうちで最も質問した男になるだろう。

人差し指と親指を広げて、力亜は答え始める。
「万年筆ってさ、このくらいの長さでしょ?この間さラウンジで
知香子が何気なく、自分の胸の近くに置いたんだよ。」
また話のチェンジサイドだ。でも最後はいつも本筋
(真実と言っていいのか)に戻されることに
いい加減気づいている僕は、黙って相槌を打った。

「万年筆の長さで知香子のおっぱいが、どのくらいの大きさだか
分かったんだ。さらに、おっぱいが置かれたテーブルの円周と
細胞の質量。諸々を検証したらさ・・・分かっちゃったんだよね!」
力亜は、僕の手元にある紙の60km/hをつんつんと指さした。

「つまり、時速60キロで走る車の窓から手を出したときに感じる
空気抵抗は、知香子のおっぱいを揉んだ時に等しいってさ!!」
不意に力亜はオーディオのスイッチをONにして
ボリュームを最大にした。
耳元で逆巻く、秋風を破って聞こえてきたのは

アイネ クライネ ナハト ムジーク

僕達は、大笑いしながら アウディの窓から手を出して
思う存分にバーチャルおっぱいを楽しんだ。

こんなに笑ったのは久しぶりだ。
使わなかった顔の筋肉を感じて、ほっぺをほぐした。
腹筋が痛い。左を見ると、力亜が音楽のリズムに合わせて
いやらしい手つきをまだ繰り返していた。
信号待ちの老人が、いぶかしげな顔でアウディを目で追ったが
もう僕は気にならなかった。

窓を閉め、音楽のボリュームを下げて一息ついた。
笑いの余韻に浸りながら、力亜は

「いい顔で笑うじゃん。」と照れ臭いことを言ってきたので

窓に顔を向けながら「力亜が無駄な方向に頭を使うからだよ。」

「いや、無駄なんかじゃない。俺は無駄なことは一切しない主義なんだ。」
とハンドルを二回叩く。

再びウィンドウを、少しだけあけると
心地の良い風が入ってくる。秋の匂いが満ちてきた。
やがて風と音楽が交差する。

「この状況でモーツァルトか。」と笑いながら呟くと

「ぴったりだろ?」と力亜がウィンカーを出した。
「アマデウスの楽譜なんか見てるとさ、あいつ、割と楽天家なんだなって
思えるよ。実際そうだったけどね。 本当に多いんだよ休符が。
ハイ演ってぇ ハイ休んでぇ ハイ頑張ってぇ やっぱ休んでぇ
みたいな感じでさ。遊びが好きなんだなぁ。」

「そんなもんなのかなぁ?」

「そうだよ。あいつの気持ち分かるもん。ベートーベンなんて酷いよ。
あいつの楽譜はこれっぽっちも、休ませてくれないんだ。
根暗で、真面目過ぎなんだよ。アーリア人の固い部分の
エッセンス純粋培養だよ。アマデウスみたいな天才は
遊んでるくらいが丁度いいんだ。」

「力亜が言うと、ものすごい説得力。」

「あははははは。ありがたき幸せ。」

何か目的があるような、車の走り方に
予想を立てようとするも、予期した目的地の
可能性が高まるほど、力亜に自分が見透かされているような気がして。
悔しいやら。ちょっと 恐ろしい気分になるやらだった。

「裕ちゃん。熱力学第二法則よりも強固な真実を告げようか?」

「熱力学第二法則って。あぁエントロピーの法則か。」

「そう。宇宙の大原則。『エントロピーは増大する。故に我々に死きたり』
ってね。」

「後半は力亜が作ったでしょ?」

「ばれた?」芝居がかった表情で舌を出した。

「で、その壊すことのできない強固な真実とやらって何?」

「俺、免許持ってない。」

「えっ!?持ってないの?」

「イグザクトリー・サー」

「馬鹿!なんでそんな大事なこと今言うの?」

「今だから意味があるんじゃないか。だいたいね、免許持ってる人間は
国が太鼓判を押した人達だよ。この人なら、道路を運転しても大丈夫ってさ
でも、免許持ってるいわゆる運転のプロ達が
毎日のように事故起こしてるじゃん。国に見る目がないんだよ。
俺は免許持っていない。ということは運転の素人だよ?
プロじゃないんだ。アマチュアなんだ。
だから事故を起こしても攻められるべきではないんだよ。
分かる?裕ちゃん。
素人だからしょうがないって、おおらかに笑ってくれなくちゃ」

「屁理屈もそこまでいくと、国宝級だと思う。問題点のすり替えも
職人技だよ。」

「いやはや、ありがたき幸せ。」

スムースなブレーキワークで、心地よくアウディは停車した。
「ハイ到着。」ニコニコ顔の無免許ドライバーが肩を叩いた。

水族館正門前

「やっぱり・・・ なんで分かったんだよ?」
完全に見透かされたことに、恥ずかしさと悔しさをにじませて呟いた。

松野研究水族館
研究学園都市の名に相応しく、規模の大きな水族館
研究目的の施設が大半を占める為、一般客が見学できるスペースは
全体の4割ほど。それでも十分に見ごたえがある水族館だ。

遠くで風が鳴る音が聞こえる
巨大な直方体の建物は、視界から空を隠している。
ぼんやりと眺めていると

バタム

アウディの扉が閉まる音
我に帰るといつの間にか力亜が横に並んでいた。
両の手をブラックデニムのバックポケットに突っ込んで

「重心が左寄りだったんだよ。」と話し始めた。
裕一は力亜の横顔を、声も出さずに眺めた。

「人は身体の左に真実、右に虚構を置くんだ。
家から出てきた裕ちゃんの左肩が心持ち下がっていたんだ。
何か言いたくない事とか、嫌な事があったんじゃない?」

「うん。」図星だけに反論も不毛に感じて、首肯した。

「顔もさ、なんだか無理な笑みだったし。お父さんとまた喧嘩したとか?」

「そう。またいつもの調子さ。」父が新聞をめくる音が聞こえた気がした。

「やっぱりそうか。」

「うん。」力亜にはかなわない。

「前に、こういう日は水族館に行くって言っていたじゃん。
時々癒されに来るってさ。」

そうなのだ、小さい頃、当時まだ元気だった祖母に
原色魚類図鑑という本格的な図鑑をプレゼントされた。
幼稚園生になるかならないかの僕は、その色彩豊かで
少しグロテスクな生き物たちにすっかり魅了され
飽くことなくいつまでも眺めていた。
傍らにはいつも祖母の姿があって
優しい声で魚の名前を教えてくれた。
優しい声と魚の姿は、幼い僕の中で強く結び付けられている。

そして今でも、魚を見ていると落ち着く。
水の色 青の世界。いつまでもここにいたい気がする。

「まぁ、でもさ、さっきのおっぱいでも十分癒されたよ。」
笑顔をつくって言ってみた。

「あはははははは。でもダメ押しの癒しはこれからだよ
さぁ行ってらっしゃい。」力亜はニコニコして手を振りだした。

「なんで?来ないの?」そういえば力亜と中へ入ったことはなかった。

「ん?帰りも無免許運転の助手席に座るの?
分かっていて乗るのは犯罪ですよ?」

「あ・・・。」右手でかぶりを振った。

「でしょ?」小首を傾げた力亜は
まるで黒い柴犬のようだ。
「いってらっしゃいな。」

「力亜にはかなわないなぁ。」と自然に呟くと

「一体何年友達やってると思っているんだよ。」と胸を張り出した。

「バーカ。」この天才にこの言葉を吐けるのは
多分僕だけだ。

(たったの二年じゃないか。)

そういえば、力亜は高2のかなり中途半端な時期に
僕の母校私立松野高校へ編入してきたんだっけ。

気がつくと小さく手を振って、アウディを発進させる
力亜の姿が あっという間に見えなくなっていった。

地下にある入り口の横で入館チケットを買い
館内へ入ると、まず、大きなサメ達が出迎えてくれる。
サメの大きさや、優雅な動きよりも
青に包まれてゆく感覚に、魅了されてゆく。
水槽は無音の世界。心なしか毛足の短いカーペットを
踏みしめる音も遠慮がちに聞こえてくる。

日曜日ということもあってか、家族連れが目立つ
しかし、特に長期休暇のシーズンでもないため
自分のペースが保てるほどの人出だ。

角を曲がると現れる、ひときわ華やいだ水槽。
色とりどりの魚やサンゴが、みごとにライトアップされ
目にまぶしい。ここはさすがにカップルが多い。
彼らは皆一様に、水槽に顔を付け合いツンツンとアクリルを叩いている。
にこやかな風景だ。

僕は少し離れて、色彩豊かな水槽を眺めるのが好きだ。
全体像を捉えて、どちらかというと魚の動きを楽しむ。
原色の赤 青 黄 が右へ左へと流れている。
水底ではサンゴや海草類が揺らめき
その上で半透明のエビが、振り落とされまいとつかまっている。

肩の力が抜けてきた。ふと、受験や将来への不安が
青の中に溶けてしまいそうな気がしてきた。

アクリルに顔を付け合っていたカップル達が移動したので
僕は水槽へ近づくことにした。
お気に入りのアケボノハゼが、少し進んでは止まり
また進んでは止まる泳ぎ方をしている。
止まるたびに美しい朱色の背びれをピンと立てている。
己の通った道をいちいち振り返っているようで可愛らしい。

水底ではホウボウが優雅に歩いている。
きっと彼も、同じように何か思索に耽っているに違いない。
胸ビレがいつ見ても綺麗だ。

不意に、無邪気な笑い声が聞こえてきたので
声のする方向を向くと、母親に抱かれた赤ちゃんが
もみじまんじゅうみたいな手で、アクリルをペチペチと叩いている。
陽気なハリセンボンが、赤ちゃんをあやすように
その周りをクルクルと泳いでいた。赤ちゃんは最高級の
笑い声を上げている。

(憎めない奴だなあ。)

こちらも笑顔になると、気配に気づいたのか
母親が僕をちらりと見たので、笑顔のまま会釈をした。

アケボノハゼ、ホウボウ、ハリセンボン
頭の中で呟くと、優しい祖母の声と重なる
みぞおちに溜まった澱が溶解してゆくようだ。

アケボノハゼ、ホウボウ、ハリセンボン
アケボノハゼ・・・・。

無音、無臭、青の世界のもっと深いところへ行きたい。

この水族館の呼び物といえば、最後のゾーンで
剛健に備え付けてある白イルカの水槽だ。
しかしながら、僕が一番気に入っているのは、白イルカではない。
研究目的も担ってあるだろう、マグロの回遊を間近で見られる
ドーナツ型の水槽だ。
上から見ると、巨大なドーナツ型をしたその穴の部分に
人が入ると、360°その周りをマグロの魚群が回遊する。
壮大な眺めは圧巻である。

自分の身長ほどもあるマグロが、間近をグルグルと何周もする様は
すごい迫力だ。

マグロは、銀色に光りながら迷いのない直線で泳ぎ
すごいスピードで通り過ぎる。
その魚影は、魚というより金属でできたミサイルのようだ。

彼らは大きな目の角度を時々変えながら
回転する風景を どう見ているのだろう?

360°青の世界
深い青の世界
僕はしばらくここにいたい。雛壇上になった床に
そっと腰かけ、しばらく目の焦点もあいまいに浸っていた。

判官びいきの僕は、体が小さくて
尾びれの付け根が曲がってしまい、不格好に泳ぐ
マグロに小さなエールを送りながら 頭の中を青く浸していった。

白イルカに比べれば、ずっと地味な水槽だということもあり
他の客は比較的すぐに飽きて、順路へと移動してゆく。
あっという間に僕はドーナツ型水槽の
最古参になってしまった。

無音と青の世界
銀色の魚群

時間を忘れぼんやりとしていると、気のせいかふと
視線を感じた。射抜くような視線ではない
包むような視線だ。

(なんだろう?)

視線だけその方向へ向けると、何のことはない
アクリルに薄く映った人影だった。
きっと後から入ってきた客だろう。

(あれ?)

かすかな違和感。

もう一度今度は顔を向けてみる。
すると、アクリルに反射した人影ではなかった。
確かにそこには人が立っていた。
透けるようなその姿は、若い女性だった。

髪は長く、毛先がほんの少しカールしている。
ほっそりとした体つき。華奢な肩にワンピースの襟から覗く
鎖骨が絶妙なバランスで、美しいカーブを描いていた。

知香子とは違う種類の美しさだ。
無意識に比べてしまう自分にちょっとした自己嫌悪を覚えた。

人影だと勘違いしたのは
おそらくそのはかなげな雰囲気のせいだろう。
なぜか内側から光りを放っている様にさえ見えた。

見とれてしまう。回転する魚影が一瞬止まった気がした。

なぜかいけない気がして、目が合う前に
慌てて逸らした。

誰なんだろう?もう一度隠れるようにして彼女を見た。
彼女は青をまとって、微かに微笑んでいた。

僕のこと・・・・知ってるの か?

臆病な僕は、動揺して記憶をたどってみたものの
彼女のように美しい女性は、やはり初めて見る。

少女のようでもあり、分別のある大人のようにも見える。
底知れぬ不思議な魅力に、僕はゆっくりと瞬きを一回した。

すると
彼女は跡形もなく消えていた、魚影が再び回転を始める。
ここで恐怖を憶えるのが、いつもの僕だけど
なぜかそんな気がしていたので

「あぁ、やっぱりな。」と口だけ動かした。

鮮やかな姿が、瞼の裏に張り付いて離れない。
恥ずかしいくらいに上気したであろう僕の顔
なるべくアクリルの反射に注視しないように歩いた。
ここへ来るたび、挨拶するような気持ちで眺めていた
フェアリーペンギンの尾羽の震えも
白イルカの頷きも
大きなエイの宇宙人のような裏側も
今日に限っては、上の空だった。気がついたら市バスに揺られ
家路についていたという有様だ。

母親の「お帰り」という言葉を耳の裏側で聞きながら
自分の部屋で、ごろんと寝転がった。
目を閉じ落ち着こうとするも、彼女の姿に捕えられっぱなしだ。

どうしよう

認めたくないが、どうやら僕は
一目惚れしてしまったらしい。
相手は人じゃないかもしれないのに

なぁ、力亜 お前ならどうするよ?
そう呟くなり、光が頭をかすめた気がした。

「なのてくのろじぃ?先生、なんだいそれ?」
おでん鍋から立ち上る湯気をかき分けて、牧村は訝しげな声を上げた。

「そうそう、ナノテクノロジーなのよ私の専門は。」

聞き慣れない言葉に首をかしげていると
佐藤は歌うように、説明を始めた。

「例えばね、分子レベルで物体の配列を変えることができたら
凄い事ができるのよ。」

「凄いこと、かい。」

「そう。ナノ・ロボットを作るわけよ。ウィルスよりも小さいロボットをね。で、その子たちに一定のプログラムをするの
この物質をこんな風に並べ替えて頂戴って。」

「うーん。」さすがにイメージできない。

「そうするとね、例えば、このはんぺんを鉄板に変えることができたりね。」

「ほぅ~。その逆もできるのかい?」

「理論上はできるわよ。」

「そりゃ凄いな。でも、そんなことできたらさ、商売上がったりだな。」

「それもそうね。あはは。」

「医療などに応用すればね、悪くなった細胞を正常に並べ替えることができるから、難病もぐっと簡単に治すことができるの。
それに、老化した部分を、若返らせることも可能なわけなの。」
こういう話をしている時の佐藤は、眼がキラキラしている。

「先生ももっと若返るわけかぁ。そりゃあいい。」

「私はまだ若いの!あははははは。ちくわぶ頂戴。」

「あいよぅ。長坂先生追加はいいの?」ニコニコして佐藤の
隣に座る、眼鏡をかけた男性を見た。

「あ、じゃ僕は白滝とボール3つ」

「相変わらず、地味な注文ね、あなた。」

「いいじゃないですか、僕は好きなんですから。」眼鏡の曇りを
ハンカチで拭きながら、何気なく足元を見た。


「ニィニィニィ」いつの間にか、黒い子猫が三匹
長坂の足元に集まっていた。

「うわぁ~」最高級の感嘆符を放って
長坂の顔がくしゃくしゃに崩れた。

「可愛いなぁ。」すぐに抱き上げる。

「あぁ、すいません。お客さん所行っちゃダメ
だって言ってるんですが。」

「いえいえ、僕、猫大好きですから。これこれ。」
耳の裏を掻いてやる。

「牧さんが飼ってる猫なの?」佐藤がちくわぶを頬張りながら言った。

「いや、飼ってるわけじゃないんだけどねぇ。」

「野良なんですか?三匹兄弟っぽいですけど。」

「いやいや、野良じゃないよ。」

「ん?どういうこと?」二人とも首を傾げた。

「それは私が育てている猫だよ。飼っているわけじゃないんだな。」

「愛猫家は、言葉にもこだわるって訳ねぇ。」佐藤が納得したようだ。

「分かるなぁ、そういう気持ち。」猫を愛しく撫でながら
長坂が言った。

牧村の真意は、二人に到底分かりっこない。

「この子もおでん食べるんですか?」

「いやぁ。この子達におでんは食べさせないよ。」

「やっぱり人間の食べ物は良くないんだ。」

「そんなことないけどね。主食はパン。喜んで食べるんだ。」

「パン食べてんのかぁ。お前。グルメだなぁ。」
長坂の目じりは、ずっと垂れっぱなしだ。

「子供の猫は、おでん食べたって『美味しい』なんて言わないからねぇ。」


また二人は、首を傾げたが
牧村の笑顔を見ていたら、疑問も霧散してしまった。
納得しているのは、鍋の中のおでん一同だけだ。


微笑ましい風景に風が通り過ぎた。
サワリと木々が揺れ始めている。

(今夜もあの娘は、現れるのだろうか?)

ここのところ毎日のように、スズカケの木の下で
目にする娘のことだ
誰と待ち合わせしているようでもないし
探し物をしているようでもなさそうだ。
何故か木の根元にしゃがみこんで、しきりに地面を撫でる

いったいどこの娘なんだろうな。綺麗な娘だから
きっと女優さんかモデルさんなのだろうか?

「牧さん、後ろ後ろ。」唐突に鍋の中から
声が聞こえた。

佐藤と長坂に気づかれぬよう、牧村はそっと声のする方向に
目を向けた。

厚揚げが、興奮した様子でこちらに手招きしている。

「牧さん、ほら、またあの娘だよ。また来てる。」

ゆっくりと振り返ると
驚くほど白い肌をした、若い娘が、しゃがんでいた。

「本当だ。今日もしゃがんでるねぇ。」

「ちょっと理由を、読んでみるわ。」厚揚げが予言を
しようと彼女の姿をとらえ、それから遠い目になった。

「どうだい?やっぱり女優さんとか、モデルさんなんだろ?
綺麗だもんなぁ。」牧村は鼻歌を歌い始めた。

「あれ、牧さんご機嫌ね。」佐藤が鼻歌に気づいた

ニコニコしながら、鼻歌を奏でる牧村

「あれ?・・・・あ・・・・あれ?」
激しく 狼狽する厚揚げの声

「何これ?どうしてかしら?」

鼻歌を止めて、牧村が鍋に目を向ける。

大きく目を見開いて、これ以上ないという驚きの表情をした
厚揚げが、震えるように牧村に告げた。


「あの娘、全く読めないのよ。過去も未来も・・・・。」

牧村は、放り投げた鼻歌をどうしようと目をしばたいた。

「ニィニィニィ」
長坂と子猫達はすっかり打ち解けて
長坂は3匹とも抱き上げ、すっかり上機嫌で満面の笑みだ。

その姿を、佐藤が眩しげに見ていた。


牧村と厚揚げだけが取り残された
微笑ましい空気。

いつものようにラウンジで、バームクーヘンを頬張りながら
力亜を待っていると、知香子が僕に気づいたらしく
手を振って近づいてきた。
黒いカットソーの胸元から覗く、淡いピンクが
なんともセクシーだ。相変わらずここの空気と馴染まない
孤高の花だ。

牛乳を一口飲んで会話に備えると同時に
知香子が僕の隣に座った。

「あぁお腹すいたぁ。」ふわりと漂うシャンプーの匂い
男なら誰だって、食事を奢ってしまうだろう。

「バームクーヘンは売り切れだよ。僕のお腹の中。」

「なーんだ。あれぇ梶君、ちょっと垢抜けてきたじゃない?」

「そうかなぁ。」

「だってさ、いつもなら私とあんまり目を合わせてくれないし
そんな気の利いたセリフ、言ってくれなかったもん。」
こんな風にいつだって思わせぶりな、言い回しの彼女。
さすが魔性の女だ。

「力亜見なかった?」

「ううん。あの嫌味な坊主をまだ見ていないだけ
今日はちょっとましかもね。占い当たってるかも。」

「さそり座でしょ?」

「よく言われるんだけどさ、それ。漫画みたいにビンゴなのよねぇ。
癪だわ。私、さそり座なのよ。」

「あははははは。ぴったりだよ。」

「このぅ。」魅力的な目尻の曲線を見せながら
知香子は僕の肩を小突いた。

「とりゃ」
知香子のつむじに、手刀が下された。

「時速60キロのオナゴよ、よく聞きなさい。
そんな風に裕ちゃんと戯れてると、裕ちゃんは周りの
チンチクリンな男どもに、嫉妬の炎で燃やされてしまう。
俺の裕ちゃんに放火しないでくれたまえ。」

黒尽くめの格好に牧師のような表情をした力亜が
知香子の背後に立っていた。

「何よ?時速60キロって。」

「わが主の名において、それは説明できない。
アキャンタビリティは永遠に放棄する所存だ。」

僕はクスリと笑った。

「あーぁ。西上の顔見たら、さそり座絶好調に翳りが見え始めたわ。」

今度は知香子と目を合わせて、ほほ笑んだ。

「梶君笑うと、可愛い。」

「かどわかされるな、裕ちゃん。」

「西上は黙ってなさいよ。本当にいつも訳わかんないことばっかり
言ってるんだから。」

「まぁまぁ。」天才と魔性を宥めるなんて経験は
そうそうないだろう。

グッチのトートバックから流れる
携帯電話のバイブ音を潮に
知香子は「ごめんね。」と中座した。
付き合っている何人かの男のうちの一人からだとは
容易に察することはできる。


力亜はニコニコしながら、知香子が座っていた席に着いた。

「あのさ、力亜。頼みがあるんだけど。」

「珍しいね。俺にできることなら、なんでも。」

「一緒に水族館行ってほしいんだけど。」

「時速60キロで?」

「いや、そっちがメインじゃなくて。
実はさ、物凄い美人に会ったんだ。水族館で。」

「ほぅ。どんな塩梅の。」

「儚げというか、華奢というか。繊細な美しさなんだ。
あの人はもしかして、人じゃないかもしれない。」

「何言ってるんだよ。」

「なんとなくね、もう一度水族館へ行ったら会える気がするんだ。
見たいだろ?絶世の美女を。」

「うーん。美女ねぇ。」

この手の話題に、すぐ食いつくはずだったのに
今日の力亜はなんだか、乗り気じゃない。どうしてだろう。

眠れない夜に考えた、彼女に近づく方法はこうだ。
力亜と二人で水族館へ行って
運良く、彼女に再会できたら、もうしめたものだ
誰とも垣根なく話しかけられる力亜の事だ
美しさに好奇心を刺激され、挨拶せずにはいられないはず。
僕は力亜が打ち解けたところで、彼女に話しかける
という寸法だ。

我ながら、酷い。親友を利用している気がして
なんだか自己嫌悪になるも。それでも やっぱり
彼女を知りたい。

それが今、力亜の逡巡によって崩れようとしている。
僕はあわてて拝み倒す形になった。

「頼むよ、力亜。一緒に行ってくれよ。一生のお願い。」

「裕ちゃんの一生のお願いをそんな所で使っていいの?」

「どうしてもね、その娘のことが知りたいんだよ。」

「うーん。」

「お願いだよ。ね、力亜。」

「仕方がないなぁ。裕ちゃんの頼みだからなぁ。」

「…ありがとう。」心から感謝した。

「デトマソパンテーラがいい?ランボルギーニカウンタックがいい?」

「何の話?」

「水族館へ行く車の話だよ。両方ともスーパーカーだよ。」
後で調べたら両方とも都内のマンションが軽く買える値段だった。
無免許なのに、そんな車を何台も所有している力亜の家庭環境は
おそらく想像を絶する裕福さなのであろう。

「バスで行こうよ。」

つまらなそうな、力亜を宥めるのに苦労したが
とにかく、僕の願いは受け入れられたわけだ。

知香子が戻ってきたので
また、賑やかになった。
僕は安心した表情で、天才 対 魔性を眺めていたに違いない

せっかく時間をかけてセットをしたのに
淑やかに降る雨のせいで、緩い天然パーマの髪の毛は
いつもよりカールしている。

父と顔を合わせないようにして、家を出ると
屋根付きバス停のベンチに座り
力亜を待った。早目に家を出たので、時間まで
だいぶ余裕がある。

アイポッド操作して、この気分と風景に合う
音楽を探した。音もなく降る雨。

ミディアムテンポのドラムに
慎ましいギターサウンドが和音を醸し出す。
静かなハイトーンボイスで歌い出すボーカル。


“昨日見た夢の話でもしようか
なげやりに目をそらす
悪夢と呼ぶにはいささか地味なんだ
冗談はやめてくれ

窓の外ではせめぎ合ってる大人達
ビートゴーズオン 今もざわついてる胸の奥

この話が終わる頃 雨に紛れ込んで夜が来る
この話が終わる頃
街はいつも通り傘をさして歩き出す

ガラスに映った透き通った君は
いつか見た夢みたい
考えてみたら誤解がすべての
始まりだった訳だ

虹の彼方へ飛び去ってく子供達
ライフゴーズオン 今も乾いた手でサヨナラする

雨が風に混じる頃 グラスの氷ただ渦をまく
この雨が上がればきっと
街はいつも通り傘を忘れ歩き出す”


これから、僕は自分でも驚くほど拙い可能性を頼りに
気になる女の子に会いに行こうとしている。
こんな音楽なんか聞いて、どうかしているのかな。
それでも、なんとなく落ち着くのはどうしてだろう。
やっぱり、隣に力亜がいてくれるからかな。

あいつは どうして 僕みたいなつまらない奴と
友達でいてくれるんだろう?

取り留めのない泡の様な思いを反芻しながら
雨を眺めていた。大型車が水を撥ね上げて横切ると同時に

突然、視界に見知らぬ男が現れたので
驚いた。 長髪に髭を生やして、なんだか怪しい。
こちらに向かって何か言っている。
無視しようと、アイポッドを聞いて気付かない振りをしていたが

しつこく話しかけてきている様子なので
渋々イヤフォンを取った。

「グランギニョールについてどう思う?」
男はそんな事を口走っていた。

「グラ・・?」

「グランギニョールだよ。」

「残酷劇のことでしょうか?」初対面でこんな会話のとっかかりなんて
一生お目にかかれなそうだ。

「そう。どちらかと言えば、現実は残酷の部類に入ると思うのだが。」
と言いながら、男は特徴的な口角の上げ方をした。

あれ?
もしかして・・・

「力亜??」

「あははははは。もう、遅いよ裕ちゃん。どう?似合う?」
両の手を腰の辺りに広げて言った。

「似合うも何も、どうしてそんな恰好なんだよ!?」

いつもは全身黒ずくめの力亜が、今日はすごい恰好で現れた。
これじゃ、まるで変装だ。坊主頭は肩まで伸びる
長髪にすっぽりと隠されている。黄色いスエットシャツの上に
紫色のインバーアランのカーディガンを羽織っている。
ダメージジーンズに、チェリーレッドのドクターマーチンブーツ。
スエットの胸にはPOSITIVE!!と緑のレタリングで
書かれている。顔には口髭。
どの角度から見てもあやしい。

これから僕は、胸を捕えて離さない美女と会うというのに。
どうしよう。こんな男を連れて歩いていたら
嫌われてしまうかもしれない。

「ちょっと、力亜。いつも通りの格好のほうがいいんだけどな。」

「たまには気分変えたくなるんだよ。黒も良いんだけどね。
今日は補色をチョイス。」

「何も、今日でなくてもいいじゃないか。」

「裕ちゃん注文が多いよ。
ランボルギーニだって黄色の予定だったんだぜ。
気に入らないなら帰るけど。」

「分かった。分かったよ。」
天気同様暗雲が立ち込めてきた、僕の気分など
どこ吹く風の力亜は、雨に歌えばをハミングしている。

冗談はやめてくれ。心の中で、さっきの歌がリフレインを始めた。

吐息のような音と共に、バスが到着した。
湿気のせいか、湿っぽい排ガスの匂いが鼻腔をついた。

バスの中に乗客は少なく、僕と力亜はバスの後方
二人掛けの座席に座った。曇りガラスに早速何かの数式を
書く隣の変装男を見ていると、気持ちのやり場に困ってしまう。

水族館までは、このバスに揺られること15分。
お尻に感じる振動に、ぼんやりしていた。
力亜は数式が解き終わると、バスの天井近くに貼ってある
水族館の広告を眺めていた。

白イルカが、可愛い顔でこちらに笑いかけているようにも見える
写真。人気者はいつだって、主役だ。

「なぁ、人類が犯した一番の過ちって何だと思う?」

「戦争とかかなぁ?」

「短絡的だなぁ。もうちょっと深く考えてみなって。
人類が殺しあうことは、数が減るってことだから
必ずしも悪いことではないと思うよ。」

「どの角度で物を見てるんだよ?力亜は。」

「まぁまぁ。もちょっと前の話だと思うよ。」

「うーん。経済かな。経済的理由なくして、戦争は生まれないって
日本史の先生が言ってたんだけど。」

「そうだな。さすがに、金銭流通の発明は自殺行為だ。」

「力亜が考える過ちはなんなの?」

「・・・・陸に上がったことだと思う。」

「それって、人類になる前の話じゃないか。」

「人類には、フロンティアスピリットがあり過ぎるんだ。
今度は宇宙まで行こうとしているじゃないか。愚かな。
いいかい?このイルカみたいに、海にとどまっていれば
地球をめちゃめちゃにしないで済んだのかもしれないんだよ。」

「イルカやクジラは一度地上に出てから、戻ったって説が有力だけど。」

「尚の事、彼らは賢い。本能的に陸で進化をしたら
地球の害になってしまうことを悟ったんだ。
人類はそれに気がつかなかった。生物的な子孫繁栄の原理にのっとって
さまざまな環境を生き抜くために開拓していったんだ。」

「それって、過ちなのかな?」

「そうとも。過ぎたるは及ばざるが如し。
釈迦も中庸が肝要って言ってる。
人類は実に単純ゆえに、恐ろしい。あのイルカの顔、見てみなよ。
平和の象徴の様じゃないか。すべてを悟った神はきっとあんな顔してるんだ。」

「イルカの顔見て、そこまで考える奴なんていないと思う。」

「イルカの顔みて何も感じない、方がどうかしてるよ。」

力亜と話していると、いろんな角度が反転してりして
実に新鮮な気持ちになると同時に
ほんのちょっぴり怖くなる時がくる。力亜の底知れなさを覗くと
どこか深い所に、飲み込まれそうな気分になる。

「それにしても、イルカっていうのは…か 可愛いなぁ。」
ニッコリしている横顔を見て、先刻の不安は薄らいだ。

停留所にバスが止まった。
機械的に開く扉から、数人の乗客が乗車してくる。

(あ。)

僕は、一瞬目を疑った。

何と、彼女が、乗ってきたのだ。

初めて会った時の印象が
あまりにも幻想的であったせいか
こうした何の変哲もない日常の中で、彼女を目にすることに
齟齬を感じる。なんとも不思議な感覚だ。

相変わらず線の細い美しさは、周りから際立ち
彼女の周りの空気だけ、静かに歪んでいく様な
錯覚に陥りそうになる。

胸打つ鼓動は、速度を増す。

あぁ。どうしよう。

臆病な僕はどうしてこうなのか?
今のこの状況をちょっとだけ後悔するという
矛盾する感情に揺さぶられる。

彼女が3つ前の席に座った。
雲間から光が差す。小雨はお天気雨に変わりだしていた。
優しく彼女の背中をなでる光を眺めていると

紫色の後ろ姿が、すでに彼女の横に立っていた。
目ざとい力亜は、吊革につかまって、彼女の横顔を
無遠慮に見つめていた。

腰を浮かせようと思った時
力亜は何がしかの言葉を、彼女にかけていた。
バスの音で聞き取れない。

髭を生やした力亜の顔は、僕を一度見ると
小首を傾げた。
どういう意味なんだろう?

力亜の隣に、やっとの思いで来た。
こんなに近くで彼女を見るのは、初めてだ。
儚げな美しさだが、幽霊でないことに安心した。
それから大急ぎで、弁解を始めた。

「あ、あの。はじめまして。あ、いや。本当は一度
この先の水族館で、お見受けしました。あのコイツは僕の友達で
こんな格好ですけど、決して怪しい者ではないです。
ナンパとかそんなんでもないです。えっと、急に声をかけてしまって
ごめんなさい。」

言葉を並べるたびに、なんだか怪しさを助長しているようで
不毛な気がする。僕はなんて口下手なんだろう。

「どうしても、聞きたいことがありまして。えっと
以前、どこかでお会いしたことありませんでした?
あ、僕は梶っていいます。梶裕一です。」

ここまで一息に話した僕は、尚も緊張していた。
バスの振動で体が揺れているのか
緊張で体が震えているのか分からない。

その震えを手で確かめるように
力亜は僕の肩に手を置いた。

彼女は僕の顔を見ると、困ったように曖昧に笑うだけだった。
その笑顔が僕の心を捕えて離さない。

「あの、勧誘とかそんなんでもないです・・・えっと、えっと。」

力亜は手に力をこめて、揺さぶった。

「この娘、日本人なのかな?」力亜は僕の宥めるように言った。

(え?)

「俺が話しかけた時も、同じ反応だったけど。」

「あ・・・。あの・・・。」どう見ても日本人にしか見えない。

もしかしたら耳が不自由な人なのかもしれない。

「すいません。僕の話していること分かりますか?」
僕はできるだけゆっくりと、彼女が唇を読みやすいように
だけど、声は小声で聞いてみた。
すると
彼女はやっぱり困ったように 頷くだけだった。

「いこう。裕ちゃん。」力亜は方を引っ張る

僕は尚も食い下がろうとして、彼女に「あの、あの。」と
繰り返していたが、力亜は無理に引っ張った。

「裕ちゃん。諦めたほうがいいよ。」

「どうして?」僕は半ば意固地になっていた。

「彼女、音は聞こえるけど、たぶん何らかの理由で
声が出せないんだと思う。」

「・・・・・そうなのかな。」

「無視するような、人には見えないだろ?
あの顔はたぶん『コミュニケーションが取れなくてごめんなさい
って詫びてる顔だよ。』外国人も同じような表情をする。
ただ、裕ちゃんの言葉は理解しているようだから、やはり
失語症とか、声が出ないとか、そういう事情がある人なんだよ。」

「あぁ。」

たぶん力亜は優しい。
僕が傷つかないように、早々に手を打ってくれたのだろう。
でも、諦めたくはない。

僕は、やっぱり悲しかった。
残念で遣り切れなかった。

停車するバス
彼女の横を通り過ぎる時
最後かもしれないと、眼を合わせて
詫びるような会釈をして、バスを降りた。

魅力的な、困ったような笑顔も見納めかもしれない。

気持ちとは裏腹に、空は晴れて
秋を留めようと必死でもがく太陽が、放射状に光線を放っていた。

眩しさに目を細めた力亜が、いつもの笑顔で言った。

「しっかし『ナンパとかそんなんでもない』ってさ。」

よく考えたら、僕は彼女と仲良くなりたくて
会いに行こうとした訳だから、立派なナンパだ。
今気づいた。自分でもそんなことやろうとしていたなんて驚いた。

「あ…そうだ。僕、嘘ついてた。」

力亜は僕の肩をポンポンと叩いた。
「嘘つき。」

「僕たちの顔、覚えてくれたよね?」

「覚えたのは、裕ちゃんの顔だけだと思うよ。」と言って
力亜は口髭を剥がし始めた。

示し合わせたように、二人で笑ったけど。
僕は切ない気持を拭い切れていなかった。
またどこかで会えたらいいな。
今回の僕は、ちょっと勇敢だ。

揺れる尻尾を3本も見ていると、心が和む。
「ニィニィニィ。」陽気な黒い子猫達は、体を寄せ合って
冷える夜の中、足元ではしゃいでいた。
牧村は目を細め、今日も出汁の調整に余念がない。

「皆、美味しいって言って貰えるようにしてあげるからな。」
おでん鍋に声をかけると

「牧さんに味付けしてもらって、ホンマにワシらは幸せや、なぁみんな。」
とたこの長老が、しみじみと言った。
皆一様に頷いている。

立ち上る湯気に、温度を感じながら
牧村は今日も客待ちをしている。
最近、一つだけ習慣ができた。
スズカケの木の下を気にするようになったのだ。

厚揚げが「読めない。」と言った娘が、妙に気がかりで
何かのタイミングで何気なく、振り返ることが多くなった。
若い女が、いつ来るかどうか厚揚げも、やはり読めない。

「今日はまだ来ていないね。」それとなく厚揚げに言うと

「そうねぇ。私スランプなのかしら?」とため息交じりに言った。

「いや、それは違う。世の中には自分の常識で括れない
ことの方が多いんだよ。中には読めない人だっているよ。」
牧村は厚揚げに出汁をかけた。

「牧さんて、私よりよっぽど予言者っぽいじゃない。」

「あはは。俺はただのおでん親父さ。」

ボールがキョトンとして可愛い声で言った。
「牧さんて、タダなの?ボクはいくらだっけ?」

おでん達は声をあげて笑った。

牧村の笑顔が、突然真顔になったのは
不穏な音が聞こえたからだ。鈍い大きな音だった。
大型書店を挟んだ向こう側の通りで、事故かもしれない。

(なんだろう?事故か?誰も怪我していないといいが。)

しばらく経っても、人が慌てる音や
救急車の音が聞こえなかったので
牧村は少し、ほっとした。気のせいかな。

黒い子猫達が、また騒ぎ出した。
牧村の足の間を8の字に、グルグルと回りだす。
どうやらお腹が空いているらしい。
屋台の柱に吊るしてあった、青いパン屋の袋を取ると
その中から、バターの薫るロールパンを千切って
分け与えた。嬉しそうな声をあげて、三匹はハグハグと
食べている。

このパンは最近見つけた、子猫達お気に入りのパン屋の物だ。
天然酵母というのを使っていて、体に優しいらしい。

よいしょ。
腰を摩りながら、立ち上がる。
「あぁ。今日はお客さんまだ来ないなぁ。」独りごちて
振り返った。

すると
いつもと違う人間が、スズカケの木の下で
しゃがんでいるではないか。
今度は男のようだ。若い男が、あの娘と同じような姿勢で
何かをしている。

牧村はますます、興味が湧いたので
近づいて、声をかけようと歩き出した。
よく見ると、男の横に何かが落ちている。なんだろう?
青い袋・・・・パン屋の袋だ。

バスの一件から数日経って
未だに彼女の姿を心のどこかで探す日々を送っていた。
ただ、水族館へはもう行く気がしなかった。

なんだか、恥ずかしい出会いになってしまった上に
逃げるようにその場を去ったからなぁ。

今度、彼女を見かけたら
筆談でもいい。一人で声をかけよう。
あれから、一つ習慣ができた。
ポケットに小さい鉛筆のついたメモ帳を忍ばせている。
いつか、このメモ帳に彼女の言葉が書かれればいいな。
淡い想いに、ちょっとセンチメンタルになりかけている。

予備校の帰り道、力亜は用があると言って
早々に帰って行ってしまった。きっとまた要人を招いての
ホームパーティなのだろう。

すっかり日の暮れた晩秋の、大通りを
ポケットに手を突っ込んで歩く。今夜の受験勉強の夜食にしようと
新しくできたパン屋に入った。こじんまりとした店だが
とても雰囲気がいい。それにここのパンは天然酵母を使っていて
時間が経っても、美味しいのだ。

トングをカチカチと鳴らしながら、鼻歌交じりに
美味しそうなパンを3つ選んで、袋に詰めてもらった。
左手でちょっと袋をブラブラさせながら
いつもより少しゆっくり歩いて帰った。


何故か急に呼ばれた気がして振り返った。
すると

ブレーキ音と
鈍い大きな衝撃

「あ!」

路肩に斜めに乗り上げたスクーター
ドライバーは慌てて、体勢を立て直して
凄いスピードで去っていった。

ドライバーが怪我をしてないらしくてよかった。と思った矢先
音がした所に何か落ちていた。
「なんだろう?雑巾かな。」

目を凝らしてみるとそれは雑巾ではなかった。
怪我をした子犬だ
気づいたのは僕だけだった。慌てて駆け寄って
恐る恐る子犬を触った。
子犬は既に、異常なタイミングで呼吸をして
信じられない動き方で、体を痙攣させていた。
毛の色で分かりにくかったが、頭と胸からかなりの出血があるみたいだ。

誰の目から見ても、もう駄目なことは明らかだ。
(あぁ、どうしよう。)狼狽していると
周りの視線が集まり始めていた。
彼らの視線から隠すようにして、両の手でそっと
子犬を掬うようにして抱き上げた
(あぁ、なんて酷い。)
胴体の骨が折れてしまって、ひしゃげた体になってしまっていた。

僕はとっさに袋のパンを、鞄に詰め換えて
袋の中に、子犬を入れてあげた。
こんな所で息絶えるよりか、どこか静かなところで…。
そうだ。近くに公園がある。そこに連れて行ってあげよう。

子犬が亡くなる前に僕は駆け足で、公園へ向かった。

サワリ
と葉擦れの音がする公園は
大通りの喧騒が嘘のようにとても静かだった。
ソフトフォーカスの電灯の下を歩くと、ベンチを見つけた。

ハンカチの上に子犬を乗せ、両の手で包んであげた
まだ、息がある。ここならば、静かでいいだろう?
僕は子犬の最期を見届ける、神聖な気持ちになっていた。
命の重さを感じて、どうすることもできない自分が
とても情けなかった。

刻一刻と色を失ってゆく命。
どのくらいの時間が経ったろう
子犬はその生涯を閉じた。僕は再びハンカチで子犬を包みなおして
袋に入れた。埋葬場所を探すためだ。

あの木の下がいい。
帰り道とは一本はずれていたたため、気づかなかったが
この公園には大きなスズカケの木があったのだ。
散歩道を歩いて、スズカケの木の根元に行くと
穴を掘った。この木の一部になって、帰ってきてくれるといいな。

埋葬が終わると、その上を撫でて、合掌した。
今度花でも持ってくるからね。


「偉い!」
声が聞こえたので振り返った。すると
頭にバンダナを巻いた、おじさんが僕を見下ろして
感心した様に、腕を組んでいた。

「偉いよ、兄ちゃん。お墓の犬は、兄ちゃんの犬かい?」
どうやら悪い人ではなさそうだ。

「いえ、違います。さっき大通りでスクーターに轢かれてしまったみたいで。」

「あぁ、そうだったのかい。可哀想に。それで、お墓作ってあげた
ってことかい。」本当に残念な顔をしている。

「そんなに大層なことじゃないですけど。」

「だって、こんなに立派な墓標があるじゃないか。」とおじさんが
顎でスズカケの木を差した。
見上げてみると本当に立派だ。これなら子犬をいつまでも
守ってくれそうだ。

「俺は牧村って言うんだ。この辺じゃ牧さんて呼ばれてる。」

「僕は、梶です。梶裕一です。」

「お、裕一かぁ。いい名前だ。どうだい。あっちにおしぼりあるから
手を拭きなよ。」牧村と名乗るおじさんの親指の先を見ると
湯気の立つ屋台が見えた。

「屋台の人なんですか?」

「そそ。ウェルカムトゥマイショップ。」牧さんは手を擦り始めた。

屋台には左から右に流れそうな 字体で「おでん」と書いてある。
どうやら牧さんは、おでん屋台のご主人らしい。

「ほら、座りなよ。はい、おしぼり。」

「失礼します。」 温かい湯気にほっとした。

牧村は思った、裕一と名乗ったこの子は
10数年前に出会った学生に似ている。
同じように、何か悩みを抱えているようだった。

「何か食べるかい?折角だから、奢るよ。」

「いいんですか?」

「あぁ。犬を埋葬するなんて、裕一は人間ができてる。
今夜は精進落としだよ。」

「おでんの精進落としなんて、聞いたことないですけどね。」
やっと笑った裕一の顔に、牧村は少しほっとした。

「じゃ、大根とはんぺんと玉子ください。」

「お、いいねぇ。若いねぇ。はいよう。」

おでん種の三人は、すごく嬉しそうに皿に盛られた。
裕一は大根を箸で半分に割り、大きな口で頬張る
なんとも芳しい出汁の香りが鼻に抜け、何とも言われぬ美味さに
驚いた。

「お・・・美味しい。」自然と言葉が出る。
牧村はニコニコして、うなずいた。

「ところで裕一。あのスズカケの木の下にね、よく来る女の子が
いるんだけど、その子と何か関係があるのかい?」

「は?いえ。何も知らないですけど。」

「そうかい。知り合いだと思っていたんだけどなぁ。」

「その女の子って、どんな感じの人なんですか?」

「それがね、女の子にも見えるし、大人にも見えるんだけど
とにかく、すごく綺麗な人なんだ。」

「え?すごく綺麗って…。」

「髪の毛はこの位で、スマートな子だよ。」牧さんは
胸のあたりに手を当てながら、言った。

(ま、まさか…。)

その時、厚揚げがそっと声を上げた。
「牧さん、牧さん、この子あの女の子を知っているわ。
やっぱり関係があったわよ。惚れてるみたい。
この子は面白い様に簡単に読めるわ。」

「その顔は、やっぱり知っているんじゃないのか?」
牧村は動揺したような裕一の顔を、おたまで指しながら言った。

「いえ、もしかしたら、知ってるかもっていう程度ですけど。」

「またここに来れば、そのうち会えると思うんだが。」

裕一は牧さんにそう言われる前に、もう決めていた。
ここに通って確かめよう。

「やれやれ、なんだか因果なものね。」と厚揚げがつぶやいたので

「全くだ。」と牧村はウィンクした。

その日をきっかけに、僕は牧さんのおでん屋台に
通うようになった。半分は彼女にもう一度会うためだったけど
もう半分は、素敵に美味しいおでんを食べながら
牧さんに、将来や恋の悩みを相談するためでもあった。
恥ずかしい話も、牧さんの前だと自然と話せてしまうのが不思議だ。

何よりもっと不思議なのは、牧さんは僕に関して
いろんなことを言い当てる。占い師とか予言者みたいに。
医者の息子であるとか
友達にとんでもない変人がいるとか。

牧さんは底知れない人だ。
ただ、とても優しい心を持っていることだけは確実で
僕はそれだけで十分だと思った。

力亜を牧さんに紹介したくて、何度もおでん屋に誘うのだが
力亜は最近、忙しいらしくついて来てくれない。
何かにつけては「今日はちょっと。」と言って断る。
予備校が終わっても、すぐに帰ってしまうのだ。
なんだか、いつも一緒にいる奴がいないと
寂しいものだ。

もう一つ気がかりなことがある。
それは、僕が牧さんの屋台に通うようになってから
木の下に現れる女の子が、来なくなってしまったことだ。
僕は一刻も早く確かめたかったのに

牧さんは「なんだかタイミングが悪いみたいだねぇ。昨日はいたんだよ。」
と言ったりして、余計に僕を残念がらせた。
「彼女は僕を避けているのかなぁ?誰なんだろう?」
と思ったりもした。


その日は冷たい雨が、夕方から降っていた。
僕はいつものように、子猫達にお土産のパンを買って
「今日は雨だけど佐藤先生と、長坂先生はいるかなぁ。」と思いながら
屋台へと歩いて行った。

いつもように暖簾をくぐって、青い袋を渡すと
牧さんは「いらっしゃい、よく降るねぇ。ありがと。」と迎えてくれた。
近頃はおでんを肴に日本酒の味を憶え、大人の気分を味わっていた。
ほろ酔い気分になったころ、雨脚が強まってきた。
ちょっとした情緒を感じながら、夜の公園を見渡す。

バシャリ
誰かが水たまりを踏む音が聞こえた

バシャリ
バシャリ
バシャリ
一定の速度を保ちつつ、近づいてくる。

暖簾越しなのでよく顔が分からないが
屋台の前で、その足は止まった。

「ん?」牧さんが首を傾げた。どうやら客ではないらしい。

僕はちょこっと、暖簾を手であげて姿を確認した。

「力亜!」

「やぁこんばんは。」
いつもと感じが違うので、もう一度目をこすって、力亜の姿を見た。
前みたいに極端な変装はしていないものの。
なんだかフォーマルな格好をしていた。葬式帰りみたいだ。
足元は初めて見る革靴だし、頭にはジェントルマンみたいな
帽子をかぶっている。大きな傘が闇を深めていた。

「牧さん、紹介するよ。こいつが僕の親友の力亜。ずっと
会わせたかった奴なんだ。」僕が力亜に席を勧めると
力亜はいつにない神妙な様子で手をあげて、それを辞した。

それから、牧さんに黙礼すると
牧さんの後ろをそっと指差した。
人差し指を辿っていくとそこには、スズカケの木
そして 間違いない 彼女がしゃがんでいた。

この時、牧村は片耳で厚揚げが取り乱している声を聞いていた。

「あれ?あれ?どういう事これ!」

視線だけ、厚揚げに合わせた。
(どうした?)

「牧さん、牧さん。この力亜って子も同じように読めないのよ。
過去も未来も、全く読めないわ。それにこの子…何者?」

ザーーー
限りなく直線で雨が降り始めていた。
傘の先端から滴る雫は、もう糸のようになっている。

僕は導かれるように、スズカケの木へと近づいて行った。
近づかなくても分かった。やっぱり彼女だ。
彼女がまた、僕の目の前にいる。

いつも饒舌な力亜は、何も言ってくれない。
無言で二人は、彼女の後ろに立っていた。

かすかな違和感。あれ?
彼女は傘をさしていないのに、全く濡れていない。
湿った風が、吹き抜けると、髪の毛が動きに合わせてしなっている。
先に動いたのは、力亜だった。彼女の肩にそっと左手を乗せた。

彼女は立ちながら、ゆっくりと振り向くと
両の眼をこれ以上ない大きさに見開き、吸い込んだ息と
反比例するような、ごく小さな声を上げた

「神様…。」
それから、気絶するように膝を折ったので
力亜が抱きとめて言った。

「変装していないと、こうなっちゃうんだよ。」

僕は混乱しっぱなしだった。
声が出ないはずの彼女から、言葉が聞こえ
力亜と彼女の間に何らかの関係があったようだし
なにより「神様」と聞こえたからだ。

力亜を見た。
彼は見たことないような、神妙な顔をしている。

「ど、どういうこ・・?」言い切らないうちに
力亜は言葉の先を手で制し、申し訳なさそうな顔で
話し始めた。

「アナグラムなんだ。」

「アナグラム?どういうことだよ。」

「そうさ、裕ちゃん。俺の名前を言ってみなよ。」

「は?何言ってるんだよ。力亜だろ。」

「違う。フルネームで言ってみな。」

「何言ってるの?」

「いいから、言ってみなよ。」

「西上力亜」

「そうさ。アナグラムなんだ。並べ替えるとわかってしまう。」
もう力亜は諦めたように、眉間に皺を寄せて言った。
僕はその意味がまだ分からない。混乱する頭で考えた。

 ニシガミ リキア 
 
 ニシガミ アリキ

 シニガミ アリキ

 死神 ありき


僕はますます混乱した。「死神ありき」冗談だろ?
どういう意味なんだ。


「そのままの意味なんだ。」力亜は僕の心を読んだように
そう言った。

抱きかかえている彼女を横目で見ると
「彼女には時間がなかったんだ。」と言った。

すっと、自分の足で立ち始めた彼女から美しい声が聞こえたのは
それからしばらくしてからだ。

「梶先生。驚かせてごめんなさい。どうしてもこういう形じゃないと
私、会えなかったみたいなの。今日の日をどんなに待ったことか。」

「先生って…。僕は親父じゃないんだけど。」

「まだ先の話なんだけど、私、事故にあってしまってね。
頭を強く打って、酷い大けがをしたの。病院に担ぎ込まれたんだけど
間もなく植物状態になってしまって。」

「まだ先の話?」何を言っているのか分からない。

力亜が口を開く
「彼女は未来から来たんだ。正確に言うと魂だけだけど。」

「そう。酷い状態でね意識不明だったんだけど、私。本当は魂だけは貴方の声が聞こえていたの。」

僕は間が抜けて顔で、自分に指をさした。

「毎日、病室に来てくれてね。きっと目が覚める。と励ましてくれたの。それから、先生の青春時代の話とか、昔の話をたくさん話してもらったわ。」彼女の顔はやや上気して、色味が増したように見えた。

「私ね、最後にほんの短い恋をしたの。そう、貴方に。だから
最後の願いを神様に伝えたのよ。」

「残念ながら、俺は神様じゃない。死神だ。」

「同じ事よ。神様のおかげで私。梶先生の生まれ育った場所。
よく行っていた水族館、それから子犬を埋めてあげたこの公園を
見ることができたわ。なにより、若い時の先生にこうやって逢えた。
すごく幸せよ。」彼女は見ている者が吸い込まれるような笑顔で
胸の前に両の手を置いた。

「俺は正体がばれないように、彼女の声を奪った。最後に解除したが。」

「そんな…。僕は医者になんて…。」

「なるんだよ。裕ちゃん。多くの人の命を救う名医に。
おかげで俺達は仕事の量が減って、感謝するくらいにな。フフフ。」

「私の名前は井上千鶴、どうか 憶えておいてね。」

「時間だよ。」力亜は空を指差していた。
気付かなかった。雨はすっかり止んでいて、そればかりか
星空がキラキラと光っていた。

「裕ちゃん。残酷なんだ死神は。でも、裕ちゃんと過ごした
2年間は、凄くよかったよ。今までの人間の中でもトップクラスだ。」

「今までの人間て、おい。どういう意味だよ。」

「そのままの意味さ。裕ちゃんが死ぬ時に担当になれたら、嬉しい。」

「力亜。」

「先生、どうかお元気で。」彼女の美しい声が聞こえた。

「あの、あの…。」うっすらと消えてゆく二人。


「リキアーーーー!!!」

すっかり消えていなくなってしまった。
ザーーーーー
すべてを打ち消してしまうような雨が、目の前を遮断する。
(さっきの星空は幻だったのか?)
そんな他愛もないことを考えている僕は、涙だか雨だか
分からない水を頬に流すままにしていた。

肩を叩かれた。

「不思議なことってあるもんだね。」牧さんが慰めるように言ってくれた。

「風邪ひくよ。店行こうか。」

僕は何も考えられなくなっていた。
僕は何も喋れなくなっていた。

「餅巾着食べる?」牧村はなるべく明るい声で
裕一に言った。


白衣を翻し、リノリウムの床を足に馴染んだサンダルで
速足で歩く。看護婦の詰め所を通る時、照れ笑いで会釈した。
若い看護婦が、ニコリと笑う。

404号室
無機質な、直線で構成された病院の風景は
いつも冷たく感じて、よそよそしいが
今日は違う。

数日前、脳外科手術を行った患者はギリギリのところで
一命を取り留めた。だが、まだ意識は戻らない。

部屋番号の隣に記された
患者の名前を右手で一撫でして呼吸を整えた。

ノックして、引き戸を静かに開ける。
燃えるようなオレンジ色。
誰かが窓を閉め忘れたようだ。

夏の夕暮れは特に眩しい。
ヒグラシがカナカナと鳴いていた。
白衣の裾が膨らむ。
キャスター付きの丸い椅子をベットサイドに置いて
座った。

しばらく、機械的な呼吸音を聞いていたが
夕焼けに照らされた、横顔は照れたように口を開いた

「久しぶりだね、さぁ、昔の話でもしようか。」

窓の外で、雨でもないのに黒い傘を差した影が
揺れた気がした。

終わり

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