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おでん屋奇譚4

母は気丈に振舞っていた。
気丈であればあるほど
僕の胸は痛かった。

49日も過ぎないうちに
母は働く手立てを考えていた。
親族たちの静止を、軽くいなしながら
母は働くつもりでいた。

お金に困っていたわけではない
死亡保険、労災、云々
職業故の備えは怠りない 父の堅実さは
見事と言うしかなかった。

母は何かしていないと
悲しみに足を救われるのが怖かったんだ。
僕も同じ気持ちだった・・・。

母子家庭
重くのしかかるその言葉に
哀れみの一片も感じさせまい。
中学生故の反骨心がフツフツと芽生えた。

「おっはよう」

吃音を使った忌引明けの挨拶に
教師や友人達は度肝を抜いたにちがいない。

お悔やみ申し上げられるのは沢山だよね?
父さん。

憐憫など、靴底にはまってしまった
小石のようなものだ。
前に進むのにわずらわしく
早く取ってしまいたい。

それからの僕はなるべく普通に振舞った。
父をなくした哀れな中学生になりたくなかったし
母に要らぬ負い目を負わせたくなかった。
だから、母が働く旨を伝えてきた時は
心情を察して、賛成した。

すっかり
そう
すっかり
すごいスピードで大人になっていったのかもしれない。

大切な人のいなくなる悲しみを
知ってしまった。幸せ
いや 不幸なのかな。

高校に上がると、新しい環境の為
周りの人達に、何の気兼ねもなく
僕は普通でいられることができた。
それはとても楽なことで
安住の地に思えたほどだ。

ただ

好きな女の子と一緒にいるのが怖かった。
死別はないにしても
失う怖さを。痛みとともに知っていたからだ。

牧さんに出会ったあの日
「彼女いないでしょ?」と軽く言われたけど
別の意味で、僕の顔はこわばっていたのかもしれない。

親友を作るのが怖かった。
恋人を作るのが怖かった。

ただ 母を守って生きたかった。


父が加入していた、諸々の保険で
母子が暮らすには、苦労はしなかったけど
母の負担を大きくしたくなかった。

大学にもなると
僕は二つのアルバイトを掛け持ちして
微々たる額だが、生活費として
母に渡していた。決まって、母はかぶりを振りながら
受け取ろうとしなかったけど。

このやり取りをしている時
ちょっとだけ、ほんの少しだけ
誇りが持てる気がする。

無理やりねじ込む 押し問答が
給料日の常だった。
大学の友人が聞いたら、笑いそうなエピソードだろうか?
それとも感心して「偉いね」とか「超尊敬」とか
言って、手をたたくのか。
いずれにせよ、父は帰って来ない。

牧さんの審人眼(占いなのか?)は
いちいち当たっていて、なんだか気味が悪い
そう感じたのは、あの雨の日の
布団の中だった。

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