人となり。〜第1章〜
ギター漫談。今俺が在住している関西には、ギターを抱えて舞台に立つ芸人は少数居るけど、ジャンルの括りを『ギター漫談』と謳ってる芸人は2023年現在俺1人だ。
かつては、たくさんの諸先輩方でギター漫談というジャンルを名乗っていた時代もあった。
また寄席小屋では、漫才、落語、マジック、講談等々ある中で、香盤表のトリは決まって音楽ショーが務めていた。
コンビやトリオが三味線、ギター、アコーディオンを奏でて、笑いを取る。
そして賑やかに大団円を迎える。
これが寄席小屋では当たり前みたいになってた。
関西で産声上げた俺は、物心ついた時からテレビ📺、ラジオ📻でお笑いに触れてきた。
そんな俺が今日、ギター漫談に辿り着いた経緯を数回に分けて話していきたいと思います。
時は昭和43年1月16日。
戦後23年経ち、日本も平和になり何かと便利になりつつある世の中。
雪の散らつく寒い朝4時に、俺はこの世に生を受けた。
生まれた時の体重は3200g。
赤子にしては大きめなのかな?(笑)
当時の話を亡き母親からよく聞かされたもんだ。
数ヶ月経ち、首も座り、自力で起き上がる事が出来るようになり、伝い歩きが出来る位迄成長した頃、ガーゼのハンカチを渡しておけば、頭の上に乗せたり振り回したり、ずっとそれで遊んでる親からすれば世話のない子だったとの事。
俺は幼稚園や保育園には行っていない。
何故行かなかったのかは、知らない。と言うか知る由もない。
家庭事情なのか何なのか。。
そして小学校に入学して、初めて大人数で勉強、運動を共有していく訳だけど、とにかく俺は今の俺からは想像もつかない程、大人しく学校で先生に当てられても、赤面して声も小さい。
周りから揶揄われたりして、またそこで萎縮してしまう。。
人前になんて立つなんてとんでもない事で、人の影に隠れてる子だった。
いつも父親から、「男は声が大きくなかったらあかん!自分の主張も出来んのはダメ🙅♀️」、「ケンカして負けたら勝つ迄行け!」こんな事ばかり教えられてたような気がする(笑)
父親は昭和7年生まれ。母親は昭和9年生まれと共に戦争経験者。
第二次世界大戦では、本来なら親父は赤紙が届き、兵役に行くべきところをたまたま患った病気で兵隊には行かず済んだらしい。親父は小学校卒業後すぐに父の稼業である漁師になったそうで、中学へは行ってないと聞いた。
言うだけあって、豪快な親父で声はデカい、態度もデカい。酒タバコ博打何でもやる(笑)
反面母親は、5人兄弟の末っ子で兄が戦死している。
物静かで、大人しい性格。
毎日黙々と家事をこなしていた。
俺は3人兄弟の3番目で、姉、兄が居る。だけどこの姉と兄とは半分しか血が繋がっていない。俗に言う「腹違いの兄弟」だ。
すなわち、姉と兄は親父の前妻との子で、俺は親父の後妻との子。
昔の事だ。兄はまだヨチヨチ歩きの頃に養子に出ている。
どうやら、親父の前妻が俺の兄貴を産んですぐに絶命したみたい。。
昭和40年代初頭、まだ医学があまり発達していない頃の出来事で今の医学なら死ぬような事は滅多とないはず。。
この話は俺もだいぶ大きくなってから聞いた事だ。。
話は逸れたが、他愛もない小学生を6年過ごし、そして俺は中学生となる。
〜つづく〜