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永井荷風「秋の女」の実感的幸福論

ナス、カボチャ、トマト、芋などの類いは嫌いではないが、すすんで食べたいとは思わない。というのも、貧しかった子供の頃、戦後もしばらくは、自家菜園でナスやカボチャが採れると、朝昼晩の食卓はナスやカボチャばかり。その頃、一生分を食べたのでもう沢山という気分になるのだ。芋のツルが入った雑炊は忘れがたい。戦後すぐに「其日々々の糧を買わんとて筆とりしものを取集め」たと前置きした永井荷風『葛飾土産』(中公文庫)を繙きながら、そんなことを懐かしく思い返した。

市川の菅野に移り住んだ荷風は随想「葛飾土産」に、「若い時分、明治三十年頃にはわれわれはまだ林檎もバナナも桜の実も、口にしたことが稀であった。むかしから東京の人が口にし馴れた果物は、西瓜、真桑瓜、柿、桃、葡萄、梨、栗、枇杷、蜜柑のたぐいに過ぎなかった。」と回想する。そういえば、田家では戦後しばらくは、確かにバナナは高価であったが、幼い頃、スイカはわが家の菜園から採って食べ放題だった。柿やビワ、ザクロなどを庭の木からもぎとって口にした味わいも、いつからか追憶するばかりになった。

終戦間際のひと月ばかり「艦砲射撃と陸戦隊上陸の風聞に脅され」ながら、何処かへ避難することもままならず、病弱の妻と共に「日夜警報に脅かされながら」も熱海の家に踏みとどまった男の書簡形式で綴られる小品「秋の女」の一節に心打たれた。

「今になって思返すと不安と恐怖の最甚しかったこの一二ヶ月が、却て幸福の最絶頂に達した時であったようにも考えられるのです。それは死の影を目の前にして生命の力に取縋る悲壮なる感情に満たされていたからでしょう。それは曽て一度も経験したことのない神秘な、広大な、純潔な、感情でした。」

艱難にすなわち生命の歓びあり、と言うのだ。

荷風が「晏子の車を駆る御者」の嘲りをかえりみず、随筆「木犀の花」に列挙する同級生・友人には、寺内大将、男爵岩崎小弥太兄弟、文学博士深田康算、文学博士波多野精一、松本烝治など錚々たる面々がいる。また、永井家には呉服屋・小間物屋・菓子屋・貴金属屋などが、時節時節に品物を持って商いに来たと、「東京風俗ばなし」に回想する。まさに明治の「中流以上の屋敷」に育って苦労知らずの荷風は、あろうことか戦火に焼け出され、疎開先の空襲下を命からがら生き延びた。その艱難の中でつかんだ実感的幸福論・生命論がここにあると言えようか。

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