師弟の絆ー中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感(その7)
「晩年の弟子たち」の「首位」に、著者は門田朴斎(もんでんぼくさい)をあげる。菅茶山の甥で、「養嗣子として、山陽以来の三代目の塾主」を務めたが、「やがて籍を抜いて上京し、山陽の塾に身を投じた」人物である。「朴斎は田舎儒者として朽ちる気はなかった。中央において自分の可能性を試して」みたかった。師を求める心やみ難く、背水の陣で上洛すると、肝心の山陽は西遊中である。留守に訪ねて、「倦鳥、始メテ還リ、天已ニ暮ル。誰カ籃[よ](ランヨ)ヲ留メテ、新醅(シンバイ)ヲ進ムルナラン。」と嘆息するほかない。
この[よ]は《籅》の下部に《手》のつく漢字だが、手もとの漢字辞典では出てこず、言うまでもなく漢字変換もできない。ただ、《籃》の漢字の説明文に「『籃輿(らんよ)』は、あじろごし。あじろのかご」とある。諸橋轍次の大漢和辞典にも当たってみたが、結果はほぼ同じだった。こんな滅多にお目にかからない表現を用いるところなぞ、「朴斎は勉強熱心の青年らしく、ペダントリーの癖がある」という著者の評もムベなるかなである。
ようやく入門できた朴斎は妻を田舎に残していたが、男の子が生まれたと郷里から知らせがきた。ところが、子供は一か月ほどで亡くなり、「朦朧タル涙眼、残更ニ坐ス。想見ス、牀辺ニ小绷(セウハウ)ノ遺(ノコ)ルヲ。」「小綳はむつき」と注されているが、この《綳》もまた漢字変換できない。漢字辞典オンラインを検索して、ようやく《繃》の異体字と判明し、そこからコピペしたのだが、ここでも朴斎の「ペダントリー」に手を焼いたということかも。
牧百峯は「晩年の弟子たち」の最古参、最年長である。「山陽は自分の子供のようにして可愛がって狎れ親しんでいて、卒業して一本立ちになった三十歳の百峯を、何かといえば呼びつけて私用を命じた」ようである。「歳暮無事」から「浄カニ筆硯ヲ収メテ、吾ガ盧ヲ掃キ、字ヲ問フ人ナク、閑、余リアリ、婢ハ春盤ヲ弁ジ、婦ハ債ヲ償フ。小窓、静カニ作ル、梅ヲ乞フ書。」を引いて、「穏やかで平淡な詩風である。恐らく人柄もまた、そうであったろう」と、著者は評している。百峯と同年の児玉旗山(きざん)も「最も晩年の山陽に愛された忠実な弟子」であったが夭折した。
江木鰐水(がくすい)は、晩年の弟子たちのなかでも「最年少であり、山陽に親炙するところも、最も薄かった」にもかかわらず、山陽歿後十三年に刊行された『山陽遺稿』に、弟子を代表して「山陽先生行状」を記した。そのことに腹を立てた梗概派の森田節斎は、大論文「江木晋戈(シンクワ)ニ与ヘテ、ソノ撰スル所ノ先師頼先生行状ヲ論ズル書」を公開して、その「奇妙な論争」は世間を賑わした。
その鰐水をはじめ、大八木静斎、宮原節庵、関藤藤陰などが、師亡き後、昌平黌入りすることに着眼し、著者は「これは山陽塾の晩年の学風が、自由な反体制的なものから、次第にアカデミックな穏健なものに変って来ていたということを示していようし、又、晩年の弟子たちは官学に学ぶことで、将来、それぞれ官界に進出して行こうという、体制内での自己実現を目指す、現実的な考え方を持つようになっていた」と見ている。「時勢も、その可能性を開く方向に動いていたし、権力の側もそうした知的エリートを積極的に吸収しようという柔軟な姿勢を示しはじめていた」のである。ちなみに、老中主席となった阿部正弘は、開国説をとる「鰐水や藤陰を外交ブレインとして開国に踏み切った」のである。
山陽が主要著作である『日本政記』の補修を委嘱し、共著としての出版まで言い残したのは、時にわずか二十六歳の若き関藤藤陰(せきふじ・とういん)である。山陽の三十七回忌に、村瀬太乙(たいいつ)は「三十七年前、是レ今日、手ニ政記ヲ翻シテ、幽然トシテ逝ケリ。」、すなわち「山陽は弟子関藤藤陰の筆写したばかりの『日本政記』の原稿を読み返しながら、いつか息が絶えていた」と懐古している。
「一時、山陽の門を敲いたけれども、それは彼らの生涯においては必ずしも決定的な経験とはならず、世間もまた彼らを山陽の弟子とは見ていない人たち」がいて、その「先生からいわば独立した弟子たち」のグループからは、中島米華(べいか)、塩谷宕陰(とういん)、岩下桜園(おうえん)の三人を取り上げている。
宕陰は、時を同じくして山陽塾にあって交友した岡田鴨里(おうり、周輔)の送詩巻への跋に、次のように記している。
「回憶倏忽(シユツコツ)二十年、先生、既ニ館ヲ損(ス)テ、子玉(中島米華)、亦タ早ク亡ス。而シテ周輔(岡田鴨里)、外史ヲ増補シ、以テ遺託ヲ終フ。予、則チ礫碌(レキロク)、成ス所ナシ。今、諸子ノ周輔ヲ送ル詩ヲ読ミ、今昔ヲ俯仰シ、慨然タル者、之ヲ久シウス。知ラズ、周輔、尚ホ先生ノ白川山上ノ語ヲ記スルヤ否ヤ。言フ所、織豊諸英雄ノ登覧ノ想、必ズヤ吾輩ノ山ヲ品シ水ヲ評スルノ情ト異ルガ若(ゴト)カラント。周輔ト雖モ、豈ニ感慨ナカランヤ。書シテ以テ之ヲ問フ。」
山陽塾の「師弟の熱い繋がりから疎外されている」と感じ、その「師弟の絆」から外れていた宕陰も、退塾以来二十年近く経ち、「この文ではっきりと、山陽を先生と呼んで、師礼を執っている」のである。しかも、「鴨里は山陽の『遺託』に従って、『日本外史補十四巻』を著した」のだが、山陽が「琵琶湖を見下しながら、この三人(宕陰、鴨里、米華)に、同じ場所に立った時の信長や秀吉の心境についての小説的空想を語った」ことは、「後年に至るまで宕陰のこころに、強い感銘となって焼きついていた」ことが窺えるのである。してみると、「師弟の絆」もさまざまということか。