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岡山疎開と罹災日録-永井荷風『摘録 断腸亭日乗』(下)を読むⅠ

瀬戸内の町の防空壕から遠望した岡山空襲から今年で77年になるが、火炎の帯は目に焼き付いている。疎開先の岡山で空襲に遭遇した永井荷風の様子をもう少し知りたくて、図書館の書架から東都書房版『永井荷風日記』第七巻(一九五九年五月二十五日発行)を手にした。そこには「六月二十八日」の罹災の状況が生々しく詳述されている。

「この夜二時頃岡山の市街は警戒警報の出るを待たずして猛火に包れたり。予は夢裏急雨の濺来るが如き怪音に驚き覚むるに、中庭の明るさ既に晝の如く、叫聲蛩音街路に起るを聞く。倉皇として洋服を着し枕元に用意したる行李と風呂敷包とを振分にして表梯子を駈け降りるより早く靴をはき、出入口の戸を排して出づ。火は既に裁判所の裏数丁の近きに在り。縣廳門前の坂を登りつゝ、逃走の男女を見るに、多くは寝間着一枚にて手にする荷物もなし。これ警報なくして直に火に襲はれしが故なるべし。旭橋に至るに対岸後楽園の林間に焰の上るを見しが、逃るべき道なきを以て橋をわたり西大寺町に通ずる田間の小逕を歩む。焼夷弾前方に落ち農家二三軒忽ち火焰となり牛馬の走り出でゝ水中に陥るものあり。予は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を觀望す。前方の農家焼け倒れて後火は麥畑を焼きつゝおのづから煙となるを見る。空中の爆音も亦次第に遠し。即ち立つて來路を歩み再び旭川の堤上に出づ。対岸市街の火は今正に熾(さかん)なり。徐に堤を下り河原の草に坐して疲労を休むるに、天漸く明し。」

後楽園近くの高校に通学するのに、毎日自転車で鶴見橋を渡った旭川は、今も脳裏にあざやかで、猛火を逃れて、その河原に坐す荷風を思い浮かべた。作家の日記は、資料としての意味はともかく、概ねふつうの読者が読んで面白いものではないと思っていた。だが、どうやら「荷風の日記」は違うようだ。何時の間にか惹き込まれる。とはいえ、全巻を読破するのはいささか難儀なので、磯田光一編『摘録 断腸亭日乗』(岩波文庫)を、まずは下巻から読むことにした。何よりも岡山空襲に罹災した「六月二十八日」を開いてみると、オヤオヤずいぶん違うではないか。以下のとおり、あまりにも簡略である。

「この夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひびかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。」

これはどうにも違いすぎないか。何時から、何故なのか、習い性なのか、すぐにあれこれ調べたくなる。すると、『摘録』昭和二十年十二月二十六日に、「新生社のために『罹災日録』を浄写す」とある。ということは、荷風は手もとの原本『断腸亭日乗』からしかるべき個所を筆写(あるいは加筆・修訂・削除)した原稿を、「罹災日録-昭和二十年の日記-」(「新生」に四回連載)として出版社に手渡しているのだ。岡山空襲の詳細も、おそらく「罹災日録」という主題に即して加筆したのではないか。修訂個所はほかにも幾つかあるのだが、それが中央公論社版『荷風全集』に収められた「断腸亭日乗」、つづいて東都書房版『永井荷風日記』の底本とされたのではなかろうか。

ところが、岩波書店版『荷風全集』に収録の「断腸亭日乗」は、何よりも荷風の遺した「原本の忠実な翻刻」を方針とした。したがって、生前の公刊に際して修訂された「断腸亭日乗」が荷風の決定稿であり、原本とは「異本関係」にあると弁えてトクシンした。

ならば、労を惜しまず「原本」にも当たってみようと、その岩波書店版『荷風全集』をひらき、岡山疎開中の個所をあらためて通読した。「県庁裁判所などの立てる坂道を登り行くにおのづから後楽園外の橋に出づ、‥‥橋を渡れば公園の入口なり」と言えば、往時に通い慣れた道である。「眼界豁然、岡山市を囲める四方の峰巒を望む、山の輪郭軟かにして険しからず、京都の丘陵を連想せしむ、渓流また徃時の鴨川に似て稍大なり、河原に馬を洗ふものあり、網を投げ糸を垂るゝ者あり、ボートを泛るものあり、宛然画中の光景人をして乱世の恐怖を忘れしむ」――岡山界隈の山はたしかに「険しからず」、あまりにも「軟か」であるが、戦時下になお長閑な「画中の光景」が遠近法的にスケッチされている。

「人家の門に石榴の花紅く咲き出でたり」とか、「軒裏に燕の巣ありて親鳥絶間なく飛去り飛来りて雛に餌を与ふ」とかは、少年の頃よく見かけた懐かしい光景である。「数日前初めて見たりし時にはまだ目のあかざりしが今は羽も生えそろひ目もあきたり」と、荷風の観察は細かい。だが、「こゝに於て余窃に思ふに山水も亦人物と同じく暱(したし)み易きものと然らざるものとの別あるが如し」とする荷風にとって、「今眼前に横はる岡山の山水は徒に寂寞の思をなさしむるのみ」であり、それは「故人に逢うて語るが如く」とはいかず、「路傍の人に対するが如し」とするのである。

一方、終戦後、身を寄せた熱海の家からの眺めは、「二階の窓より東方に海湾、北より西の方に熱海来の宮あたり停車場の設けられし峰巒(ほうらん)を望む。南の方にもまた近く山ありて朝夕秋雲の去来するを見る。海上に日の昇る光景頗(すこぶる)偉大にして、夜はまた山間に散在する人家の燈影劇場の背景に似たり」と、荷風の初めて見る勝景であった。だが、「何の故にや岡山市郊外の田園におけるが如くその印象優美ならずや。即ち余の詩情を動すべき力に乏しきが如し」とも感じている。つまり、岡山の優美な山水は「路傍の人」とはいえ、荷風の「旅愁」という「詩情を動す」というのである。

なお、空襲後に荷風が間借りした武南㓛氏方は、問うてみると高校同窓の友人の実家と知って正直驚いた。「寓居の主人武南氏は年五十余中風にて言語歩行共に自由ならず、八月初広嶋市火災の後老妻に扶けられ岡山より汽車一時間ばかり隔りたる福渡といふ邑に避難せるなり、三代前の主人は岡山の藩儒なりし由、其父は初め県の教育家後警察署長たりしと云」という家柄も知らなかった。㓛氏は友人の祖父にあたり、父君は戦地に出征中、その友人は母親に連れられ空襲後疎開していたので、荷風の謦咳に接することは叶わなかった。

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