大志と優柔不断の間
中村真一郎『頼山陽とその時代』〈上〉抜き書き(その3)は、山陽の朋友の一人、北条霞亭の人物像である。
徳富蘇峰に言わせると、山陽は「其の善に服し、才を愛し、恩に感じ、情に敦く、殊に其のインテレストの多角的にして、胸懐の温かなる、為めに幾多の朋友の中心点となりしもの偶然にあらず。」(森田思軒『頼山陽及其時代』)であった。その朋友たちのなかで、ひとり北条霞亭は森鴎外の史伝『北条霞亭』によって馴染みがあった。山陽と霞亭の「二人の間の友情は、特に春水と茶山という共通の師父を持ったためもあって、特別のものだった」と言うのである。
命旦夕に迫るなか山陽は、「喀血の身を態々嵯峨にまで運び、陰栖時代の霞亭の部屋を自分の眼で確かめ、そして彼の友人であった僧に逢って、色いろ聴いたりというような準備までして、墓碑銘を草した」のであった。そして、「霞亭の一生を、彼が唐の陽城を慕ったということを主題にして説明している。陽城ははじめ隠栖し、後に自ら学んだことを実験しようという済物の志によって、出でて高官となった。霞亭も陽城の事跡に学んで、はじめ退き、後、世に出た」と嘆美している。
だが、著者は、「この山陽の霞亭観は私のものとは正反対で、私には彼がそれほど自動的に進退を決したとは到底、信じられない。山陽は本気でそう信じていたのだろうか。山陽は案外優しい人で、口の悪いにもかかわらず、いたわりの気持ちが強いのである」と、山陽の霞亭観の背後に「死に至るまで霞亭に対して忠実」であった山陽の人間的優しさを見逃さない。
著者の見るところは、「霞亭は常に自分の人生がひとつの軌道に乗せられて、他の可能性が遮断されるようになることを、病的に恐れているように見える」と言う。すなわち、「霞亭は、優柔不断のうちに隠栖し、優柔不断のうちに田舎名士として一生を朽ちさせようとし、優柔不断のうちに高級官吏としての生涯を終った。殆んど他動的に人生の駒を進めていた人物に見える」と捉えるのである。
ところで、森鴎外『北条霞亭』に、霞亭を知るうえで重要と思える、母に宛てた手紙が引かれている。
「いづれ今暫三十ぢかくもなり候はゞ、ずいぶん出来候やうに相見え候。…‥‥御在所へかへり候てもよろしく候へども、御在所などにては所せん業わ出来不申、かつ又無用之物になりしまひ候。其段いか計かなげかわしくぞんじ為参(まいらせ)候。何分こゝろざし候事故、金石をちかひ修業こゝろがけ申候。」
霞亭二十四歳のときの、この書を引いて鴎外は、「霞亭は大志ある人物であった。この一書は次年の避聘(ひへい)北遊の上にも、八年後の嵯峨幽棲(ゆうせい)の上にも、一道の光明を投射する。禄を干(もと)むるには『つかみ付様』には出来ない。先ずこれを避くるは、後に一層大なるものを獲むと欲するが故である。先ず隠るるは、後に顕(あらわ)れむと欲するが故である」と見抜いている。
たしかに、藩主・阿部侯から江戸に召された霞亭は、「内々当役の者へも御辞退申上候儀願出候得共、已に公命なれば、何分にも一旦は出府いたし不申候わねば(申さずては)叶不申、‥‥先出府のつもりに決定仕候。」と、「優柔不断」とも見える胸中を弟碧山に報じている。つづく第二の書では「御用の儀は何事とも此方にてはしれ不申候。随分御手あて結構に被仰付候。」などとも報じている。
この二書から、森鴎外は「霞亭は多く望を東行に属せざるものの如くである。しかしもし霞亭に機に乗じて才を展(の)べむと欲する意がなかったものと看做したなら、それはこの人の心を識らざるものであろう。その筆に上して郷人に告ぐる所は、恐くは期待の最下限であろう。わたくしは字句の間に霞亭が用心の周密なることを窺(うかが)い得たるが如く感ずる」(『北条霞亭』)と解くのである。
霞亭は大志を抱いていた、あるいは、つねに出世栄達を心に秘めていた。そのチャンスが訪れそうな場所を探し求めたかに見える。それは「自動的」である。しかも、そのチャンスが訪れたとき身動きのつかない事態を避けるために、霞亭は人生の岐路に立つごとに迷うのである。それを鴎外は「用心の周密」と捉えた。
「用心の周密」といえば、的矢へ帰省を急に思い立った際、霞亭が父に寄せた書簡のなかに、その周密ぶりをうかがわせる一節がある。
「御宅一両日滞留、山田一宿、これもどれへも噂不仕(つかまつらざる)様にいたし候。山口氏、西村氏、東君、是は山口に而御目にかゝり候のみにいたし、外へはすこしもしれ不申候様いたし可申候。無左(さなく)候ては義理あしく候。御宅へも夜にいり、参り可申候間、何卒其前方に左様御心得可被下候。外御親類とても御噂被下間敷、……」
たしかほかにも同じような趣旨の記述の見える何通かの書簡が、『北条霞亭』に引かれていたと記憶する。気配りが行き届いているというか、用心深いというのか、あまりに周りの目を気にし過ぎというのか、ともあれ霞亭が「周密」であるのは確かである。周密ゆえに「優柔不断」「他動的」とも見える出処進退の軌跡を残したということか。
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