出版文化の転換点にて-磯田光一編『摘録 断腸亭日乗』(上)を読むⅡ
昭和期の出版界の基本的な枠組みをつくったと言われる、いわゆる円本ブームの波は当然荷風のもとにもやって来た。円本と聞いて、いま連想するのはコンビニコミック(廉価版コミック)である。かりに一店舗三冊配本でも発行部数はゆうに十数万部を超え、実売率も高いから出版社にはありがたい。あるいは、電子書籍、なかんずくデジタルコミックが、出版文化の新しい枠組みを創出するカギなのかも知れない。
磯田光一編『摘録 断腸亭日乗』(上)によると、昭和二年には春陽堂主人が円本企画を携えて荷風のもとにあらわれる。
「三月三十日。‥‥春陽堂主人来訪、当代小説叢書刊行のことを談ず。近年予約叢書の刊行流行を極む。この頃電車内の広告にも大衆文芸全集一冊千頁価一円、紙質は善良などいへるを見るなり。」
国立国会図書館のミニ電子展示「本の万華鏡/ベストセラーの歩み-つくる側の視点から-」は、つくる側に身をおいた者として興味深いが、最初の円本は、その頃苦境にあった改造社が乾坤一擲の大企画として捻り出した『現代日本文学全集』である。大正十五年十一月に企画発表・予約募集開始、その年の十二月に発売した。第一回配本は『尾崎紅葉集』である。当時の単行本約五冊が入る分量であり、一円とは思えない充実ぶりであった。不況下に安価で多くの作品を読めるとあって、第一次予約は二十三万部を突破、最終部数は四十万を超える大ヒットとなった。この成功を見て、老舗の春陽堂も追っかけ『明治大正文学全集』を企画、改造社版には入っていないベストセラー「金色夜叉」も収載した『尾崎紅葉集』を第一回配本として、半年遅れの昭和二年六月に発刊したのである。
荷風は改造社から請われながらも、それを承諾しなかった。にもかかわらず、改造社の全集の新聞広告に、永井荷風は「交渉中」とあるのを知るに及んで、その退けるわけを「現代文學全集につきて」と題し、「時事新報」(大正十五年十二月二・三・四日)に投書したのである。そこで荷風は断る諸々の理由を挙げたうえで、「改造社の廣告文にはわたくしの姓名の下に『交渉中』なる文字を附載してゐるさうであるが、わたくしと改造社との間には最初より直接には何等の交渉もない。わたくしは最初より手紙を以て再三再四改造社の請ひを退けてゐた。今日に至つて廣告文中に斯くの如き奇怪なる文字を記載するは其の意を得ない」と述べ、「改造社が目下世に流布した廣告文中わたくしに関する部分は誤謬にあらざれば虚妄である」(『荷風全集』第二十六巻、岩波書店)と指弾してはばからない。
だが、その荷風も邦枝完二の斡旋にあって、なぜかは判然としないが、承諾することになる。
「六月廿一日。晴天。午下邦枝君来訪。偶然改造社々長山本氏に逢ひたりとて全集本の事につきて語るところあり。山本は余に契約手附金として壱万五千円を支払ひ、周旋礼金として金五百円を邦枝子に与ふべき旨言ひをれば、枉(ま)げて承諾ありたしといふ。余邦枝子の言ふ処に従ふべき旨返答す。邦枝子直に自働車にて改造社に赴き、住友銀行小切手を持参せり。」
「七月朔(ついたち)。‥‥全集刊行の件につき改造社々長山本氏と電話にて談話す。山本氏午後に至り来訪。款語(かんご)すること半時間ばかりなり。」
改造社の『永井荷風集』は九月に刊行されるのだが、すぐさま「博文館突然配達証明の郵書を以て次の如き抗議を申出せり」というトラブルに逢着する。その抗議内容は、改造社の全集に収められた「貴著『あめりか物語』ハ先年博文館ニオイテ発行、カツソノ著作権ヲ有スル貴著『あめりか物語』ニ少許ノ修飾ヲ加ヘラレタルニ過ギズシテ明ニ弊館専有ノ著作権ヲ侵害スルモノニ御座候。就テハ速カニ同書ノ頒布ヲ止メ適当ノ御所置御執下タクコノ段得貴意候。」というのである。博文館とのトラブルは、荷風にはこれが初めてではない。かつて『あめりか物語』を出版したえにしで、請われるままに『ふらんす物語』も博文館から出版した。ところが、これがたちまち発売禁止の憂き目に遭い、博文館は荷風に損害賠償を要求するばかりか、脅迫まがいの談判にも及んだ。その談判が落着するまで八年も要したが、その掛け合いの顛末を荷風は「書かでもの記」に明かしたのである。
その博文館からの抗議文書である。早速、改造社の社長・山本実彦と荷風は協議して、博文館に対応する。
「十月初三。‥‥正午山本氏と共に博文館に赴き店員星野某に面す。星野の申条を聞くに次の如し。改造社全集の中に余の作れる『書かでもの記』あり、『ふらんす物語』の件につき博文館を悪しざまに書きなしたり。この事あるのみならず『あめりか物語』の版権を侵害せるあり、それ故黙止するに忍びず書面を発したる次第なり。然れども博文館にては決して損害賠償の訴訟を起す意向にてはなし。第一に希望する所は著者の博文館に対して抱かるる悪感情を一掃せられたき事なりと。」
ここに「版権ヲ侵害」と言うのは、木版印刷の時代において、その版木自体を保有する版元が出版物の権利を持つという古い版権意識を、金属活字の導入された時代にあっても、博文館はなお引きずっていたということだろうか。
「然れども星野某が言ふ処を聞きてつらつら思ふに、博文館にては明治四十年小波先生の手より原稿『あめりか物語』を五十円ばかりにて買受けたるを口実にして、二十年後の今日に到りても版権を所有するものと思へるが如し。これ不正の第一なり。余が『書かでもの記』は博文館の信用を傷ること少からず営業上に及ぼす損害甚しといふ。これ自業自得のことなり。『ふらんす物語』発売禁止の折余に対して穏便なる処置を取りたらんには人より怨を買ふべきはずもなし。余が『書かでもの記』は誹謗の文にあらず。簡単に事の次第を記したるものに過ぎざるなり。今回博文館の言ふ所は己れの非なるを問はずして漫(みだり)に人を責むるもの。これ彼が不正の第二なり。」
したがって、荷風は意気軒昂にして、まったく退く気はない。
「余はもともと改造社の一円本に加入することを好まず。一時新聞に投書して同社を攻撃したる事もありしが、本年六月に到り邦枝完二氏の周旋もあり、同社の希望を入れし次第なれば、今回同社より受取りたる金員(きんいん)はその額莫大なれども始よりなきものと思へばそれまでのことなり。因(よ)つてこの金のつかひ処に博文館と訴訟をかまへ、彼が曲事を天下に知らしむるもまた一興なるべし。」
ところが、翌日には、博文館から妥結案が提示され、それを受けて悶着は収束する。
「十月初四。‥‥午後山本氏来訪す。今朝博文館取締役星野氏改造社に来り、余の詫状一通並に金五千余円を請求したき趣を陳(の)べて去りしといふ。山本氏の手にはいまだ余の方に支払はざる金残りたればそれを以て博文館に送るべき事に取きめたり。博文館の強慾なるには山本氏もつくづくあきれたりといふ。」
一方、明けて昭和五年、春陽堂の円本を手にして慨嘆しきりである。
「二月初六。‥‥昼餉(ひるげ)の後たまたま机辺に春陽堂より郵送し来りし明治大正文学全集一冊あるを見、これを繙(ひもと)くに四迷(しめい)美妙(びみょう)嵯峨(さが)の家(や)三子の作を収載したり。巻尾に馬場氏の解説なるものを添へたれど、各作家の伝を載せざるを以てその行状年歯墓所の如き、一として窺(うかがい)知るべきものなし。編輯の粗笨(そほん)甚しといふべし。」
ちなみに、宮武外骨なども『一円本流行の害毒と其裏面談』(有限社)に「害毒の十六ヶ条」を列挙して論難するところである。
とはいえ、円本ブームがもたらした出版事情の変革は無視できない。「小型輪転機等、大量生産が可能な印刷機が輸入されたことなど」もあり、「現在に通じる出版制度と、本を商品として売る出版社主導のベストセラー戦略」が生まれ、「過去の作品を全集に入れる経緯で、印税制度が確立」(「本の万華鏡」)した。なるほど『改造社印税率の記録』によると、昭和十三年から六年余ではあるが、平均すると10%という印税率が記録されている。
ただ、浅岡邦雄『〈著者〉の出版史-権利と報酬をめぐる近代』に紹介されている「籾山書店と作家の印税領収書および契約書」をみると、すでに大正三年に籾山書店発行の永井荷風『散柳窓夕栄(ちるやなぎまどのゆうばえ)』の印税領収書に「印税率 定価の一割二分」とあり、明治四十四年に初版を発行の『すみだ川』第五版を初め、『珊瑚集』『夏すがた』『新橋夜話』『日和下駄』もすべて同じ印税率である。すなわち、荷風は籾山書店とともに時代に先行する一人であったということか。
ちなみに、昭和三年正月二十五日の『日乗』に、「午後三菱銀行に赴き、去秋改造社及び春陽堂の両書肆(しょし)より受取りたる一円全集本印税金総額五万円ばかりになりたるを定期預金となす」とある。現在でいえば二億円ほどに相当するであろうか。まぎれもなく荷風も「円本成金」の恩恵に浴したのである。