芥川龍之介「酒虫」とコロナ禍

芥川竜之介『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇』つづきⅡ、「酒虫」をめぐって。「酒虫」は中国の古典『聊斎志異』を典拠とする作品である。

長山でも屈指の素封家の一人・劉大成は、「独酌するごとに輒(すなわち)、一甕(いちおう)を尽す」というほどの大酒飲みであった。その日、西域から来た蛮僧から、酒をいくら飲んでも酔わないという「珍しい病に罹って御出になる」と告げられ、「腹中に酒虫(しゅちゅう)がいる。それを除かないと、この病は癒りません」と治療を促される。

劉は好奇心もあって、治療を受けるのだが、じつは「酒虫という物が、どんな物だか、それが腹の中にいなくなると、どうなるのだか、枕もとにある酒の瓶は、何をするつもりなのだか、それを知っているのは、蛮僧の外に一人もいない」のである。それは「甚(はなはだ)、迂闊なように思われる」とし、続けて「普通の人間が、学校の教育などをうけるのも、実は大抵、これと同じような事をしているのである」とする比喩を持ち出すのである。いささか唐突に持ち出された、大酒飲みの治療と学校教育を同列に扱う論法にはちょっとした違和感を覚えた。

「莫迦げた苦しみ」のあげくとはいえ、「蛮僧の治療の効は、覿面(てきめん)に現れた」のだが、「不思議な事に、劉の健康が、それから少しずつ、衰え」、そればかりか「劉の家産もまた、とんとん拍子に傾いて」零落し、「余儀なく、馴れない手に鋤を執って」、侘しい日々を送っている。酒虫を吐いたあと、劉はなぜ健康が衰え、家産が傾き、零落したのか。長山の人々の間にさまざまに囁かれるのだが、その代表的なものに「三つの答」があった。

「第一の答。酒虫は、劉の福であって、劉の病ではない」。「暗愚な蛮僧」によって「天与の福を失う」ことになったのである。
「第二の答。酒虫は、劉の病であって、劉の福ではない」。「もし酒虫を除かなかったなら、劉は必久しからずして、死んだのに相違ない」というのである。
「第三の答。酒虫は、劉の病でもなければ、劉の福でもない」。すなわち「劉は即酒虫、酒虫は即劉である。だから、劉が酒虫を去ったのは、自ら己を殺したのも同然」であり、「劉は、劉にして、劉ではない」から、「昔日の劉の健康なり家産なりが、失われたのも、至極、当然な話」である。

芥川はこの「三つの答」のうち、「どれが、最もよく、当を得ているか、それは自分にもわからない」と判定を留保しているが、その本意はどこにあったのか。芥川から見れば、没個性的な人間教育をめざす「学校の教育などをうける」のは、人間の自由を縛り個性を殺すことであるように、酒虫の治療も「自ら己を殺したのも同然である」と述べたかったのではないか。

ところで、「酒虫」を「新型コロナウイルス」に置き換えるとすれば、私たちはいかなる「答」を選択すべきだろうか。

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