愁を掃う帚-成島柳北『柳橋新誌』二編の語釈と寸感Ⅲ
五里霧中はなかなか晴れない。一つ一つ語釈を明らかにして、ようやく周りがほのかに見えてくるが、その先はなお霧中である。おまけに手元が見えた悦びにうかれて、全体の論旨を見失うお粗末を如何ともしがたい。成島柳北『柳橋新誌』二篇の語釈メモと寸感を記す営みもようやく終局だが、未知の表現・語彙との遭遇は絶えることなく、五里霧中の終わりは見えない。
〔78p〕
夙に興き夜はに寝ね 「夙に起き夜半に寝ぬ」は勤勉なことのたとえ。また、日夜、政務に励むことのたとえ。
蟻聚(アツマリ)[ギシュウ]ありのように集まる。
歌吹海(かすゐかい)歌舞、または遊興のさかんなこと。または、その場所。遊里。
孺人(オクサマ)[ジュジン]一般に、妻をいう。
纒頭(クレタモノ)[テントウ]もらった衣服を頭にまとったところから、歌舞・演芸などをした者に、褒美として衣服・金銭などを与えること。
螫[セキ さ(す)]害虫が刺す。
鄙吝(ケチ)[ヒリン]いやしくてけちなこと。
〔79p〕
黠[カツ さか(しい) わるがしこ(い)]悪がしこい。ずるがしこい。
尤物(エラモノ)[ユウブツ]すぐれて美しい女性。美女。
一笑百媚[イッショウヒャクビ]一度笑うと、百の愛嬌がこぼれること。非常に愛嬌のあることをいう。
粉黛[フンタイ]おしろいとまゆずみ。転じて、化粧。
瑩然[エイゼン]光り輝いているさま。明るくはっきりしているさま。
〔80p〕
扃[ケイ]かんぬき。門戸。
劉郞[リュウロウ]遊女におぼれて夢中になっている男。
丹唇[タンシン]あかいくちびる。朱唇。
教坊[キョウボウ]劇場や遊里など、遊芸を見せる所。
國色[コクショク]国内第一の容色。絶世の美人。
孤墳[コフン]ただ一つある墓。
嫦娥[ジョウガ]月の世界に住むといわれる仙女。転じて、月の異称。
〔81p〕
輓近(チカゴロ)[バンキン]ちかごろ。最近。近来。
故さらに この「故さらに」は、山城屋本では「故」に「サラニ」と送り仮名が付されている。「ことさらに」と読むのだろうか。
抑損(ヘリクダリ)[ヨクソン]おさえてひかえめにすること。慢心をおさえてへりくだること。
客臘[カクロウ]昨年の一二月。去年の師走。旧臘。
竹西坡 蘭方医・竹内玄洞。
嬌歌[キョウカ]なまめかしい歌。また、その歌声。
郤つて 「郤」はどう読むのか。『新字源』で「郤」を引くと、参考欄に「卻キャク(しりぞく)は別字」とある。その「卻」欄を見ると「かえって」の意味もある。山城屋本を確認すると、やはり「卻テ」とあり、とすれば「かえって」と読むのではないか。
蕭踈[ショウソ]まばらでもの寂しいさま。
追感[ツイカン]往事のことに感じる。
晨星(アケガタノホシ)[シンセイ]明け方の空に残る星。(まばらであるところから)物事のまばらなこと、少ししかないことのたとえ。
〔82p〕
いきなり「桓氏金城の嘆」と言われても、故事成語ではないようで、まったく見当がつかない。とも言っていられないので、ためしに『新字源』で「桓」を引いてみた。熟語欄を見ると「桓温」があり、「東晉の武将。字は元子。大司馬となって権力をふるい、ときの皇帝を廃して簡文帝を立て、ひそかに帝位をうばおうとしたが果たさず、病死した。」とある。桓氏とはこの人物のことか。「桓温の金城」をネット探索すると、第二次北伐の際、洛陽を奪還、金墉城を通過したとき、若い頃に見た柳が生い茂って大きく成長しているのを目にした。桓温は「木ですらこのように栄えているのに、どうして人間は堪えられないというのか!」と、枝を手にとって嘆き涙を流したというのである。この金城の柳に攀じた桓温の故事を引いて、柳北は余生の悲哀を嘆くのである。また、「折花攀柳」は花柳界で遊ぶ意があり、掛詞的効果を見込んでいるのかも。
更闌(ヨフケ)[コウラン]夜更け。
風塵[フウジン]わずらわしくきたないこと。また、そのようなもの。特に、わずらわしい世の中。汚れたうき世。俗世間。また、世上の雑事。
金龍[キンリョウ]金色の龍。また、月光を反射してきらめく川面などをたとえていう。
羽客[ウカク]一定の場所に落ち着かないで、諸方を遊びまわる遊客をしゃれていう語。
緑莎洲 中洲は、明和8年(1771)隅田川と箱崎川の分かれる三股とよばれた所を埋め立ててつくられた。茶屋が立ち並び繁栄。寛政元年(1789)取り払われ、明治19年(1886)再び埋め立てられて大正期までにぎわった。
一穂[イッスイ]炎・煙などを穂に見立てていう語。
畫樓[ガロウ]美しく彩色した高殿。美しく装飾した楼閣。
簾内[レンナイ]すだれのうち。みすの中。
黯淡[アンタン]薄暗いさま。
飄颻[ヒョウヨウ]ひるがえり動くこと。ひるがえりあがること。
宛轉[エンテン]音楽、言葉、声、また、話などが調子よく、すらすらとよどみないさま。
気暢(ノビ) 気暢ばし[きのばし]気晴らし。
襟懐(ムネノウチ)[キンカイ]心の中。胸のうち。思い。胸懐。
萬縷[バンル]いろいろのこまかいこと。もつれにもつれた。
香山樊川 白居易と杜牧。白居易には「琵琶行」「長恨歌」、杜牧には「杜秋娘詩」「張好好詩」の長編の詩がある。
曖々[アイアイ]うす暗いさま。ぼうっとかすんでいるさま。
〔83p〕
粼々[リンリン]せせらぎ。水が澄みきって川底の石がかがやくさま。
羅袖[ラシュウ]うすものの袖。
嫵媚[ブビ]なまめかしくこびること。
李湘眞 明末金陵の名妓。字は雪衣。清潔好きで、鼓琴清歌をよくし、文学のたしなみもあったので、江南の文人たちに愛された。
秦淮[シンワイ]南京を通り揚子江に注ぐ運河。その両岸は遊覧の地が多い。
輸(まくるなる)[ユ うつ(す) ま(ける)]負ける。
銀漢[ギンカン]天の川。銀河。天漢。
凉衫[リョウサン]夏衣。
坡老 宋の文人蘇軾のこと。蘇軾といえば、唐宋八大家のひとり。東坡居士と号した。その作「前・後赤壁賦」は有名。
では、「坡老の帚を呼んで」とは如何なることか。あちこち蘇軾の詩を渉猟して、やっと見つけたのが「洞庭の春色」である。以下、書き下し文を引く。
二年 洞庭の秋
香霧 長く手に噀(は)く
今年 洞庭の春
玉色(ぎょくしょく) 酒に非ざるかと疑う
賢王 文字の飲(いん)
酔筆 蛟蛇(こうだ)走る
既に酔いて君が醒めたるを念い
遠く餉(おく)れるを我が為に寿ぐ
瓶(へい)を開けば 香 座に浮かぶ
盞(さかずき)に 凸(なかだか)にして 光 牖(まど)を照らす
方(まさ)に安仁(あんじん)が醽(れい)を傾けて
公遠(こうえん)をして嗅がしむる莫かれ
当に名字(めいじ)を立つべきを要す
未だ升斗(しょうと)を問うを用いず
応(まさ)に詩を釣る鉤(はり)と呼ぶべし
亦た愁(うれ)いを掃う帚(ほうき)とも号せん
君知るや 蒲萄(ぶどう)の悪しきは
正に是れ嫫母(ばぼ)の黝(くろ)きがごとくなるを
君が灎海(えんかい)の杯を須(ま)ちて
我が談天(だんてん)の口に澆(そそ)がん
(山本和義ほか「蘇軾詩注解」十九、
『アカデミア』文学・語学編第100号)
「坡老の帚を呼んで」と詠う柳北の胸奥には、「玉色 酒にあらざるかと疑う」ほどの美酒は、「応に詩を釣る鉤と呼ぶべし/亦た愁いを掃う帚とも号せん」という蘇軾の詩句がこだましていた。あるいは、筆禍事件によって流罪となり、にもかかわらず「赤壁の賦」など優れた作品を生み出して東坡居士を号するに至る蘇軾の波乱に満ちた生涯に、わが身を重ねていたのだろうか。
〔84p〕
晴蓑[セイサイ]桂川甫周の号。江戸後期の蘭医。『解体新書』を前野良沢・杉田玄白らと翻訳。
蛾眉[ガビ]蛾の触角のように細く弧を描いた美しいまゆ。転じて、美人。
蠢然[シュンゼン]虫がうごめくさま。転じて卑小な物や人間がうごめき騒ぐさま。
紅裳[コウショウ]緋の袴。
徳澤[トクタク]徳のめぐみ。おかげ。恩恵。恩沢。
庸劣(ボンクラ)[ヨウレツ]凡庸で劣っていること。
昇平[ショウヘイ]世の中が平和に治まっていること。
澤[タク]人に施す恵み。
偸[チュウ ぬす(む)]ぬすむ。こっそり抜き取る。
郤つて 前出81p参照。 正しくは「却」。
季世[キセイ]力の衰えた時代。末期。
儁才[シュンサイ]俊才。
中唐の文豪・韓愈こと昌黎は千年も昔に、『進学解』において「夫れ業は勤(つと)むるに精(くわ)しく嬉(たのし)むに荒(すさ)む」と説いた。柳北が『柳橋新誌』初編を書いた十年前、鼻水を垂らし人形を抱いて騒ぎ遊んでいた十歳前後の女児たちは、今では「紅裳を褰(かか)げ金絃を按ず」ばかりか、勉励を怠らず「其の態度見るべく其の歌曲聴くべし」と成ったのである。それに比して、「凄然として感ずる」のは、「国の大政を執る者」は「治を為すに勤めずして放擲風を為す」がゆえに「政教頽廃」して振わない。ゆえに「在位の君子其れ諸(これ)を戒めよ」そして「力行」せよと、柳北は『柳橋新誌』二編を結ぶのである。
〔85p〕
蹙[シュク しか(める)]しかめる。
攅[サン あつ(める)]あつめる。
世教[セイキョウ]世の中に行なわれる教え。世の風教。儒教、儒学を指すことが多い。せきょう。
罪過[ザイカ]罪とあやまち。罪。あやまち。
孰[ジュク たれ]二つの事物のうち、一方を選んでいう。どちら。
輅[ロ みくるま]天子の乗る車。
冕[ベン かんむり]天子・天皇や皇太子が大礼の時に着用した礼冠。
誾々[ギンギン]穏やかに議論するさま。
虞[グ おそれ]心配する。おそれる。
不侫(セツシヤ)[フネイ]一人称の人代名詞。男性が自分をへりくだっていう語。
妄誕[ボウタン]言説に根拠のないこと。また、その話。とりとめのない虚言。偽り。
局量偏隘(キリヤウノセマキ) 局量[キョクリョウ]心の広さ。度量。 偏隘[ヘンアイ]せまくふさがっている意か。
〔87p〕
跌蕩[テットウ]細かいことにこだわらないこと。のびのびとして大きいこと。
奇絶[キゼツ]風景や詩歌などが普通とは違っていてすばらしいこと。きわめて珍しいこと。
解頤[カイイ]あごがはずれるくらいに大笑いすること。大口をあけて笑うこと。
潘岳 中国、西晋の詩人。滎陽(河南省)の人。字は安仁。美男として有名。人の死を悼む哀や誄(るい)の文、詩では妻の死を悼んだ「悼亡詩」3首に才を発揮した。
瞠若[ドウジャク]驚いて目を見はること。あっけにとられるさま。
蕩子[トウシ]正業を忘れて、酒色にふける者。放蕩むすこ。遊蕩児。
沈湎[チンメン]酒におぼれること。飲酒にふけり、荒れすさんだ生活をすること。
冶郎[ヤロウ]やさ男。遊客。
韓柳歐蘇 中国、唐代の韓愈、柳宗元、宋代の欧陽脩、蘇軾の総称。いわゆる唐宋古文の作家の代表。
鸑鷟[ガクサク]想像上の鳥の名。鳳凰の一種。
賦性[フセイ]天賦の性質。うまれつき。生得。天性。
尫弱[オウジャク]体、体力、気力などが弱いこと。かよわいこと。ひよわいこと。弱々しいこと。
翰[カン]羽毛でつくった筆。書いたもの。文章。手紙。
遊觀[ユウカン]遊び楽しんで見ること。歩き回って見物すること。
忼慨[コウガイ]世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと。
孫臏[ソンピン]中国、戦国時代の斉の兵法家。同学の龐涓(ほうけん)に才能をねたまれ、両足を切断されたが、のち、斉の威王に軍師として仕え、龐涓の率いる魏軍を破った。
刖[ゲツ あしき(る)]古代中国の五刑の一。足を切断する刑。
〔88p〕
莠言[ユウゲン]「はぐさ」と読み、悪いもののたとえ。有害なことば。醜いことば。
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