心飛魂馳の人―富士川英郎『日本詩人選30菅茶山』抄Ⅱ
新幹線の福山駅を降りると、目の前に福山城がそびえていて、不意を突かれた。福塩線に乗り換えて三つ目が神辺駅である。三年ほど前に廉塾跡を訪ねたのだが、宿場町の往時の賑わいはとどめない。廉塾跡はむかし山陽道だった往来沿いにあった。富士川英郎『日本詩人選30菅茶山』に言うとおり、伊沢蘭軒が長崎への旅の途中、菅茶山を訪ねたときの日記が、森鷗外『伊沢蘭軒』に引かれている。
「茶山の廬駅(ろえき)に面して柴門(さいもん)あり。門に入(いつ)て數歩流渠(りうきよ)あり。圯橋(いけう)を架(かけ)て柳樹茂密(もみつ)その上を蔽ふ。茅屋(ぼうをく)瀟灑(せうしや)夕陽(せきやう)黄葉(くわうえふ)村舎(そんしや)の横額あり。‥‥屋傍(をくばう)に池あり。荷花盛に開く。渠(きよ)を隔て塾あり。槐寮(くわいれう)といふ。學生十數人案に對して書を讀む」
この佇まいをほぼそのままに、特別史跡として保存されていた。「その小さい、中国風の、風雅な表門をくぐると、そこから中門まで約二十メートルばかり、南北にまっすぐな道がついていて、その両側はいまは野菜畑になっている」のは、中門が見当たらないほかは、そのままである。「向って左手に『養魚池』の跡があり、右側にはむかし塾生たちが起居していた槐寮の跡だという建物が一棟残っている」のも変わらない。土橋の架かった渠(細長い溝)の跡も残っていて、音もなく清流が流れていた。「読書に倦きた塾生がこの流渠で硯を洗っている光景」をうたった茶山の詩「卽事」の読み下し文を引く。
垂楊(すいよう) 影を交(まじ)えて 前楹(ぜんえい)を掩う
下に鳴渠(めいきょ)の徹底清らかなる有り
童子 倦(う)み来って 閑(しず)かに硯を洗う
奔流 手に触れて 別に声を成す
しだれ柳の影が交錯しながら、玄関前の柱をおおっている。下の溝を音を立てて流れる清流は、底が見えるまでに澄みきっている。塾童が手習いに疲れて、徐ろに硯を洗っていると、奔流が手に触れて、流れの音が変わった――というのである。
頼山陽は、廉塾の都講であった満一年間、『論語』や『日記故事大全』などを講じた。山陽のあと茶山に見込まれて都講になった北条霞亭は『書經集傳』『左傳』や『易經』『古文眞實』『詩經朱傳』『莊子』などを隔日に講じている。また、「茶山自身も、いまわれわれに分っているところによれば、文政二年四月に『中庸』と『唐詩選』を、十月には『近思録』と『孟子』を、同じく隔日に講じ」るなど、晩年に至るまで講義を熱心に続けていた。
「廉塾は豊後国日田にあった広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん)とともに、江戸後期の関西以西において、最も有名な私塾」であり、その塾のある黄葉夕陽村舎は「山陽道を往来するさまざまの文人墨客たちがその道すがら、必ずと言ってよいほど、立ちよって、そこの詩名高い主人と清談や閑談を交わす所となっていた」。伊沢蘭軒はもとより頼春水、頼杏坪、大田南畝、伊能忠敬、田能村竹田、梁川星巌、広瀬旭荘等々、その名をあげればキリがないほどである。
最晩年の茶山を訪うた文人の一人に、九州から訪れた田能村竹田がいる。竹田四十七歳の時である。七十六歳の「茶山は病後の静養中であったが、この遠来の客を大いに歓待して、対坐の席上、次のような詩を作って、竹田に贈った」ので、その第五句から後の読み下し文を引く。
画を看て 嘗て知る 騒思(そうし)の富めるを
牀に対して 今見る 徳容の温なるを
生前一晤(いちご)すれば吾が心足れり
況んや乃(すなわ)ち清談の病根を浄むるをや
著者の解説によると、「嘗て竹田の絵を見て、その詩情に富んでいることを知ったが、いま、初めて対坐して、そのすぐれた容貌の温雅なのを見ることができた」というのである。生前に一度でも会えて心は満足し、竹田との清談に病根も洗い清められるようだ、と悦んでいる。また、竹田も混沌社の「片山北海や葛子琴や六如上人についての逸話を語ってくれた茶山の座談の面白さに感動し」、「是非もういちど黄葉夕陽村舎を訪ねて、茶山の談話をゆっくり筆記したいと思った」と言う。
竹田は村舎を辞したのち、しばしば茶山と音信を交わしていて、弟子に宛てた手紙に、「茶山先生之書、病中御慰ニ指送り申候。又々茶山手書参り申候。極々心切之事、一讀一涙仕候。最早七十七歳之老人、達者とハ申ながら、難頼候。早ク參度、心飛魂馳候。」と書き記している。
すなわち、茶山からの書状を弟子の病中の慰みにもと思って送ったが、「やがてまた茶山の手紙が届いた。披いて見ると、言々句々に誠があふれ、『一讀一涙』した次第である。茶山はもはや七十七歳(数え歳では七十八歳)で、達者ではあるが、あてにはならない。早く神辺へ行って、もういちど会いたいものだと、『心飛魂馳』している」と心情を吐露しているのである。竹田は三年余り後、茶山を再訪して、数日逗留した。
茶山が沒する三か月ほど前には、咸宜園の広瀬淡窓の弟で、若い詩人広瀬旭荘が黄葉夕陽村舎を訪ね、約二か月留まって、茶山の病床に侍した。青年期から晩年に至るまで菅茶山は、頼春水、頼杏坪から江戸の伊沢蘭軒、混沌社の葛子琴、そして九州の田能村竹田や広瀬旭荘などを初めとして、遠近や老若を問わず、じつに多くの文人墨客と、深い交友をもっていることに感嘆おくあたわず、というほかない。