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偏奇館炎上のとき-江藤淳『荷風散策-紅茶のあとさき』を読むⅢ

江藤淳『荷風散策-紅茶のあとさき』の感想も3回目。《「意外なる話」》はさほど意外ではなかった。というのも、まえに『来訪者』と『摘録 断腸亭日乗』(上・下)を読んで事の次第を知り、「余年六十三になりて猶人物を見るの明なし。歎すべく耻づべき事なり」とホゾをかむ荷風に、いささか哀れを催したせいもある。荷風を騙して「窃に偽書偽筆本をつくりて不正の利を貪」った平井程一と猪場毅の二人をモデルに、小説『来訪者』を仕上げて一矢報いるのは痛快でもあった。

もう一つ、「冨山房書店不正の事」がある。「冨山房書店が其雇人猪場毅を余の許に遣し下谷叢話及葷斎漫筆を合冊して之を刊行せんことを請ひ」、それから1年近く経て発売になる。その冨山房版『改訂 下谷叢話』を見ると、巻頭には「此たび図らずも友人猪場毅、平井程一の二君が周旋により、書肆冨山房よりこの改訂本を刊行するを得るに至りしは、著者の深く喜んで措かざるところなり。こゝに識して以て書肆の主人坂本氏の好意と、二君が周旋の労とを感謝せんと欲す。」と記すが、のちに転じて怒り心頭に発することになる。とともに、荷風は巧みに嵌められた迂闊さに、内心忸怩たるものがあったにちがいない。

というのも、さらに半年を過ぎてから、「冨山房は突然出版契約書正副二通を猪場の手によりて」送ってくる。その「契約書の条文によれば下谷叢話は向後十五年間は他の書店より出板することを得ず又余が全集中にも編入する事を得ざるに至るなり。」というのである。つまり、「冨山房は始より其版権を横領する目的を以て」の企みであった。それにしても、現今の出版界の常識からいえば、そもそも著作権者本人の署名がない出版契約書に法的な効力などあり得ないのではないか。どうもその辺の経緯・事情がいまいち判然としない。

《戦時中の文筆所得》に明かす、昭和18年に荷風へ届いた所得金額通知書を見ると、「僅か二年のうちに文筆所得が六分の一に減る」という「眼を覆わんばかりの惨状」である。開戦後の昭和17年になると、「小説発表の舞台を奪われ」て、荷風は「所謂文壇より全く隠退」したかのごとく、「筆を絶ったまま日を送っていた」のである。そんな折しもご無沙汰の挨拶にと偏奇館を訪れた中央公論社の嶋中雄作に依頼されたらしく、荷風は早速、随筆「冬の夜がたり」、短篇小説「軍服」を起稿している。

たちまち「軍服」を脱稿して、昭和17年12月8日の「開戦記念日に中央公論社の嶋中雄作宛に郵送しているが、12日にいたって嶋中からの返書がもたらされた。即ち『小篇軍服は掲載中止となす』というのである。」から、時勢は如何ともしがたい。「この小説が日の目を見たのは、終戦後昭和二十一年(一九四六)」であった。「冬の夜がたり」は「同年九月に筑摩書房から刊行された単行本、『来訪者』にはじめて収録され」ている。

原稿依頼もなく執筆した小説『浮沈』(「昭和十七年三月春分節脱稿」とある)、『踊子』(昭和十九年正月稿)、『問はずがたり』(上巻 昭和十九年十二月脱稿、下巻 昭和二十年十一月脱稿)が活字になったのも、やはり戦後のことである。ちなみに、『浮沈』は「中央公論」昭和21年1〜6月、『踊子』は「展望」昭和21年1月、『問はずがたり』は「展望」昭和21年7月に掲載された。

こんにち「操觚者」と言われても、はてさて何のことやら、であるが、文筆に従事する著述家に連なるものとして、「原稿の注文がなければ本気で書く気になれない。注文があってはじめて気が乗り出すという機微」はよく目撃した。だから、荷風は嶋中の注文に応えて小篇「軍服」を一気に書き上げた。「注文もなしに『浮沈』を書き、また『踊子』や『問はずがたり』(初稿では『ひとりごと』)を書いたのは、やはりよくよくことといわなければならない」と江藤は指摘する。では、「よくよくのこと」とはいかなることか。

《「現代の女子」》の章で、江藤は昭和19年の『日乗』を引く。「九月廿一日。‥‥大門町の陋巷を過ぎ金富町を歩む。余の生れし家の門には永田甚之助といふ札かゝげられ、‥‥」とあるのは、言うまでもなく荷風が生をうけた場所である。荷風はそこを執筆中の小説『問はずがたり』の舞台に選ぼうとしていた。荷風は「自分の余命もいくばくか知れない。‥‥窃かにこの作品を最後の作品と決めていたのかも知れない。」と、江藤は推しはかるのである。

その推量は、最終章の《偏奇館炎上》に引く『日乗』からも首肯ける。昭和19年師走、荷風の誕生日に、「唯この二三年来書きつゞりし小説の草稾と大正六年以来の日誌二十余巻たげは世に残したし」と。そして、昭和20年3月9日夜半の東京大空襲である。「空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す」と『日乗』に書き留めたとき、荷風の「文学生活は事実上終った」と、江藤は断じてはばからない。とはいえ、「思えば偏奇館と万巻の蔵書こそは、荷風文学の象徴であった。‥‥その空間が消滅したとき、荷風の精神は死んだのである。荷風の精神は、敗戦によってではなく、空襲による罹災によって亡びた。」と憶断してよいものか、もう暫し熟考したい。

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