左袒せず―成島柳北『柳橋新誌』二編の語釈メモと寸感Ⅰ
一知半解と言うもおこがましいと自嘲しながら、成島柳北『柳橋新誌』二編(岩波文庫)を手にして、初編につづけて語釈をメモし、ときどきの寸感を書き留めた。柳北が二編を著したのは、初編から「既に十有二年」の後、35歳のときである。「世移り物換はり柳橋の遊趣一変して新誌も亦既に腐す矣」というほど、幕府は滅びて明治へ「王政一新して柳橋亦一新」したのである。この続編は永井荷風の「柳北仙史の柳橋新誌につきて」に記すごとく、「柳北が時勢に対する失意と中年の悲哀とを述べた感慨の文字」というには少し早すぎないか。
〈熟語・漢字(括弧内のカタカナは原文の左傍訓)[カタカナは音読み、ひらがなは訓読み]語釈〉
〔53p〕
潤屋[ジュンオク]家を立派にすること。富豪の立派な家。「富は屋を潤し、徳は身を潤す」(『大学』伝第六章)による。
擅[セン ほしいまま]ひとりじめにする。
きびしい残暑のなか、多少とも凌ぎやすい日をえらんで、柳橋界隈を歩いてみた。柳北は「割烹家独り潤屋の富を擅にするは何ぞや。」と書き起こし、「柳橋の酒樓皆勢を往日に殊にす。河長梅川盟を橋の南北に爭ひ、萬八亦將に衰頽の気を一振線とし、龜清柳屋新境を新柳街に拓きて旗幟色を添ふ。(以下略)」と書き連ねている。だが、いま目にするのは亀清楼の看板だけではないか。ぶらぶら柳橋一丁目を歩いていて、石塚稲荷神社の玉垣に柳橋芸妓組合と柳橋料亭組合の“夢のあと”を目にした。
〔54p〕
つづけて「四區(ヨカシ)の船宿亦沿革(カワリ)有り。」と、柳北が列記する船宿を、いま目にすることはない。神田川沿いに、「つり船 屋形船 花火船」を掲げる「田中屋」「船宿あみ新」「船宿あみ春」「屋形船井筒屋」が軒を並べるが、言うまでもなく曩昔とはまったく様相を異にする。柳橋の欄干から、川をゆっくり遡行する船を眺めているとなぜか心が和む。欄干には青と赤の「かんざし」が交互に据えられていた。
曩昔(ムカシ)[ノウセキ]さきの日。さきごろ。以前。昔。曩時。
濫悪[ランアク]乱暴で悪いこと。でたらめで悪いこと。
〔55p〕
罷弊(オトロヘ)[ひへい]経済状態などが悪化して、活力をなくしてしまうこと。
閭巷[リョコウ]民間。
數無し(タクサン)数限りがない。無数である。
沈湎[チンメン]酒におぼれること。飲酒にふけり、荒れすさんだ生活をすること。
耽溺[タンデキ]一つのことに夢中になって、他を顧みないこと。多く不健全な遊びにおぼれることにいう。
痴頑[チガン]愚かでかたくななこと。
〔56p〕
名公鉅卿(ミガラノヒト)堂上華族と大名華族をさす。 名公[メイコウ]すぐれた君主。また、高名な公卿。身分の高い貴人。 鉅卿[キョケイ]公卿。身分の高い人。
甞[ショウ な(める) こころ(みる)]男が女を、もてあそぶ。手をつける。
駟馬高蓋[シバコウガイ]馬車を引く四頭の馬とおおいの高い馬車。貴人の乗り物。
頤[おとがい]を朶[だ]して 「朶」は「うごかす。『朶頤(だい)』」であり、「物ほしげなさま。」の意。
搢紳(ヤクニン)[シンシン]〈笏(しゃく)を紳(おおおび)に搢(はさ)む意から〉官位が高く、身分のある人
柳北は、「頃歳、本邦日に舊弊を除き力めて政教を新にす、美事と謂はざる可けんや。」と明治政府を持ち上げつつも、「徒らに酒樓の遊び娼妓の楽を以て文明開化の道と爲す者は、余肯んじて其の祖を左にせざる也。」とある。はてさて「祖を左にせざる」とはいかなる意か、どうにも見当がつかない。そこで、国会図書館のデジタルコレクションを検索して、本文庫が底本とした山城屋本『柳橋新誌』(明治7年版)を確認すると、なんと「祖」ではなく「袒」とあるではないか。さっそく座右の『新字源』を引くと「袒」は「ひとはだぬぐ。支援する意を示す。『左袒』」とある。その「左袒」を引くと、「一方を助ける。味方する。」とあり、「袒」であるのはまちがいない。ジャーナリスト柳北は明治政府の文明開化策に左袒することはなかった。
〔57p〕
眷戀[ケンレン]思い切れないさま。
竊[セツ ひそ(かに)]ひそかに。
孤(ワレ)[コ]王や諸侯が自分を謙遜していうことば。
至囑[シショク]手紙文で相手に頼みこむ意を表わす語。
雲雨[ウンウ]男女のちぎり。
熊蛇或は夢に入らん 妊娠する。
潜 山城屋本で確認すると、澘[サン]である。涙の流れるさま。涙を流すさま。
〔58p〕
悽惋[セイワン]悲しみ悼むこと。
愀然[シュウゼン]ものに感じて悲しむさま。
薄醨(ウスク)[ハクリ]「醨」は薄い酒。水くさいさま。
狡黠(ワルズレ)[コウカツ]ずるく悪がしこい。
宛然[エンゼン]そっくりそのままであるさま。よく似ているさま。よく当てはまるさま。
休沐(ヤスム)[キュウモク]官吏の休暇。
酣暢[カンチョウ]気持よく酒を飲んで、愉快になること。
鞅掌(ツトメホネヲル)[オウショウ]忙しく働いて暇のないこと。
大牢[タイロウ]中国で、天子が社稷を祭るときの、牛・羊・豚などの供え物。りっぱな料理。ごちそう。
脅肩諛笑 「脅肩」(きゆうけん)は「肩をすぼめる。」とあるが、「諛笑」は手持ちの辞書にみつからない。そこで山城屋本を見ると「諛」ではなく「諂」とある。「脅肩諂笑(キユウケンテンショウ)」は肩をすぼめて、へつらい笑いをすること。卑屈な態度をたとえていう言葉。
〔59p〕
挙止倨傲(スルコトガオウヘイ) 「挙止(キョシ)」は立ち居振る舞い。 「倨傲(キョゴウ)」はおごり高ぶること。
擒(イケドル)[キン とら(える)]とらえる。
吾曹(ワチキタチ)[ゴソウ]自称。われら。わが輩。
奴輩[ドハイ]人々を卑しめていう語。やつばら。あいつら。
〔60p〕
纒頭(ハナ)[テントウ]祝儀。はな。心づけ。
鴇母(カカヘオヤ)妓館を経営する妓女の母。
雛妓[スウギ]半玉。
竊[セツ ぬす(む) ひそ(かに)]ひそかに。
〔61p〕
錯愕(ビツクリ)[サクガク]驚きあわてること。
殽核[コウカク]さかな。「殽」は塩辛の類、「核」は果物の類。
怫然(ムツトシテ)[フツゼン]ムッとするさま。
鏘然(チン)[ソウゼン]玉・金属などが鳴り響くさま。
〔62p〕
碗碟(ワンサラ)[ワンセツ]わんと皿。
憤悶(シヤクニサワル)[ふんもん]怒りが発散できずいらいらすること。腹が立ってどうにもがまんできない気持ち。
項荘項伯[コウソウコウハク]は何者か。愛用の『新字源』を引くと、「項」の熟語欄に「項荘」があり、「項羽のいとこ。鴻門の会に、剣舞によって沛公(劉邦)を討とうとして失敗した。」とある。また、「項伯」は「項羽のおじ。‥‥鴻門の会で沛公(劉邦)をかばい、漢の建国後に射陽侯に封じられた。」とある。横山光輝の大作『項羽と劉邦』を読んで、ボンヤリと記憶する鴻門の会のクライマックスではないか。項羽に信任された軍師范増は「亜父」と称された。「時に怒つて玉斗を砕く」とは、劉邦の遁走に憤った范増は、劉邦から項羽に献じられた玉杯を、剣をふるって打ち砕いたのである。
青樓[セイロウ]遊女のいる所。妓楼。遊女屋。江戸では岡場所などに対して、官許の吉原遊郭をさす。
羽觴[ウショウ]を飛ばす 杯のやりとりを盛んに行なう。酒盛りをする。
凞凞[キキ]やわらぎ楽しむさま。
乞丐[キッカイ]物乞い。乞食。こつがい。
不経(フスヂ)[ふけい]筋が通らぬこと。常軌を逸すること。
〔63p〕
淫奔[インポン]性関係のだらしないこと。みだらなさま。淫乱。女性についていうことが多い。
雅頌[ガショウ]『詩経』の中の、雅と頌との詩。雅は宮廷の儀式・饗宴に用いられる正楽の歌、頌は祖先の功徳をたたえる歌。
いきなり「溱洧桑中」と言われても、何のことやらさっぱり見当もつかない。『新字源』をみて「雅頌」が「『詩経』の中の、雅と頌との詩」と判明。であれば、「溱洧桑中は民間淫奔の詩也、聖人採つて之を雅頌の前に列す。」とは、聖人(孔子)が『詩経』の三百余の詩を配列するにあたって、「雅頌」の前に「溱洧」や「桑中」など「民間淫奔」の詩を置いたことと承知した。では、「淫奔」の詩とはいかなるものか、中島みどり『詩経』(中国詩文選2、筑摩書房)から、まず「溱洧」という詩の読み下しを引く。
溱と洧と
方(まさ)に渙渙(かんかん)たり
士(おとこ)と女と
方に蕑(かん)を秉(と)る
女は曰(い)う 観しやと
士は曰う 既にせりと
且(まさ)に往きて観ん
洧(い)の外(そと)
洵(まこと)に訏(おお)いにして且つ楽し
維(こ)れ士と女と
伊(こ)れ其れ相い謔(たわむ)れ
之(これ)に贈るに勺薬(しゃくやく)を以てす
溱と洧と
瀏(りゅう)として其れ清し
士と女と
殷(いん)として其れ盈(み)つ
(リフレーン省略)
「溱」と「洧」は鄭を流れる黄河の支流。「渙渙」は水の豊かに満ちるさま。「秉」は執る、手に持つ。「観」は一説に、祭りを見ること。「士」は男。「洵」は信。「謔」はたわむれる。鄭箋によれば性的交渉。
つづいて、「桑中」という詩の一節の読み下しを引く。
爰(いずく)にか唐を采(と)る
沬(まい)の郷に
云(ここ)に誰をか思う
美しき孟姜(もうきょう)
我を桑中に期(ま)ち
我を上宮(じょうぐう)に要(むか)え
我を淇(き)の上(ほとり)に送る
爰にか麦を采る
沬の北に
云に誰をか思う
美しき孟弋(もうよく)
(リフレーン省略)
「唐」はねなしかずら。「沬」は衛の邑。「孟」は兄弟姉妹の最年長者。「要」は迎える。「桑中」は一説に桑林・桑畑の中の意。「淇」は衛を流れる黄河の支流。
赧然[タンゼン]恥じて顔の赤くなるさま。赤面するさま。
婀娜[アダ]女性の色っぽくなまめかしいさま。
眷戀[ケンレン]恋い焦がれること。
混堂[コンドウ]浴場。ふろ場。
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