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彼の生き方: とある過激派左翼活動家へのインタビュー

無機質な鉄の扉には、警察が強制捜査のためにつけた、生々しい電動カッターの跡が残っていた。

数ヶ月前、仕事の一環で過激派と言われる左翼組織で活動している、とある若者にインタビューをした。右翼や左翼で活動する若者を一部のメディアが取り上げているのと同じように、彼らを取材して何か企画にならないかという先輩に同行し、彼らが活動拠点とする建物を訪れたのだ。私はそこで二人の青年から話を聞いた。

トタン板のようなもので囲われ、入り口には仰々しい鉄扉を設け、異様な雰囲気を放つ建物とは似つかわしくない、普通の青年だった。過激派と言われるくらいだから、高圧的に思想を主張する、そんなイメージを勝手に抱いていた。しかし、少なくとも高圧的ではなかった。むしろ、こちらの取材を好意的に受け入れていたとすら思う。

私はこのうちの一人が気になった。というのも、彼は、こちらがぶつけた批判的な疑問に対して、言い返すのではなく困ったように気弱に笑っていたからだ。その姿を見て、どこか人間らしいものを感じ、親近感を覚えたのだ。

後日、改めて彼のパーソナルな部分が聞きたいと思い、再び取材を申し込んだところ、快く応じてくれた。仕事といえば響きはいいが、2回目の取材に関して言えば、その動機は極めて私的なものであった。私が知りたかったことは、一人の若者として、彼が何を考え、今の「生きづらい」「未来がない」と言われる社会を生きて行こうとしているのか、ということだった。とりわけ、左翼活動家として生きる彼に興味が湧いたのは、生き方が一般的な軌道から大きく逸れているからだった。つまり、同世代の1人として、社会から逸脱するような生き方を選択することに対する“恐れ”や“不安”、何を考え決断をしたのかということに漠とした興味が湧いたのだ。それらは総じて、自分自身の現状に対して突きつけられている問題でもあるため、内面への問いを、一人の特殊な人生を歩む若者にぶつけることで、“何か”を見出そうとした、というのが正直なところだった。

彼が活動を始めたのは大学生の時だった。他の大学のキャンパスは綺麗すぎて居心地が悪く、むしろ掲示板にビラが無造作に貼られ、壁が薄汚れているところにどこか落ち着きを感じたという理由から選択した、東京のとある大学。彼はそこで、1年生の初めから、立て看板やビラ配りをキャンパス内で規制するのはおかしいのではないかと、抗議活動をするようになった。

しかし、初めから彼が左翼学生だったかと言えばそうではなく、抗議活動を共にするにつれて、左に転換していったという。もともと大学に進学することに対してそれほど意欲はなく、そのためか大学での勉強は「暗記でつまらなかった」と、受け身で教わる勉強以上の主体的な学問にまで昇華させることはなかった。

次第に、校内での学生運動を規制する「大学当局」に目をつけられるようになった彼は、2年生の時に無期停学処分を食らう。その結果、テストを受けられなくなったために進学できず、そのまま大学を中退した。

退学後、半年間引越しのアルバイトなどをしながら悩んだ末に、本格的に「活動家」として生きていく決断をする。それはすなわち、組織が所有する建物で生活をし、組織を支援する者のカンパによって生きていくということを意味した。当時、活動を始めて最初の1〜2年、22〜23歳の頃までは、専門学校に入り直し、手に職をつけて、自分のスキルが活かせる仕事を見つけるということも考え、悩んでいたという。今は、「人生として選んだっていう感覚はあります」と言うように、現状を肯定しているようだった。しかしその一方で、普通に大学を出て就職をしていたら、「一人暮らしで、30ぐらいになってて、猫飼っちゃってるみたいな。結局、猫の世話をひたすらしてる人生っていう風になってる未来しか見えない」と笑いながら答える姿を見ていると、社会や人生に対してどこか悲観的な思いを抱えて生きているのではないかと感じざるを得なかった。

なぜ彼は左翼活動を始めたのだろうか。話を聞いているうちに、彼が左翼的ではない考えを同時に内包する人物であることが次第に明らかになっていった。

彼は、大学で政治思想などを勉強していた。しかし、当時はいわゆるマルクス主義ではなく、「新しい歴史教科書を作る会」に惹かれていたという。そのおよそ左翼的ではない思想のあり方に、かなりの違和感を覚えた。

彼の主張を聞くと、その根底にあるのは、人権は誰しもが与えられているものではなく、特定の力によって勝ち取るものだという考え方だった。「作る会」の考えが好きと言う理由も、当時の状況では、人権を守るために外に軍事力を拡大しないといけなかったという説明に「筋が通っている」と感じたからだった。「作る会」への認識の仕方は置いておくとして、“人権は勝ち取るもの”という彼の考え方は、インタビューの端々に表れている。それは、“クラスカースト”という別の言葉でも表現された。

彼は、中学・高校まで私立の一貫校で、全寮制の学校に通っていた。両親は自営業で、それなりにお金があったため、荒れていた公立よりも私立に通わせたかったようだ。しかし、そこでの生活は、起床時間や自習など1日のスケジュールが細かく決められていることに加え、携帯などの持ち込みが禁止される「管理教育が厳しい」ものだった。彼は当時について、禁止されているものをいかに抜け道を使って持ち込むかということを、寮の友達とやることが楽しかったと回顧する。その一方で、彼は“クラスカースト”という言葉をしばしば強調した。

「その学校のコミュニティの中で一定のなにがしかの、この、力ですよね。それはコミュ力であるか、勉強ができるかスポーツができるか、なんでもいいんですけども、力がないと、まぁクラスカーストの中で人権はないわけで」
「例えばクラスカーストみたいな言葉が最初の世代ってちょうど私ぐらいの世代ですから、人権ていうのは保障されているものじゃないし、声をあげればそれが届くなんてものでもないし、なんつーのかな、何かやったら社会が変わるとは思えないっていうのが基本だった世代。人権が欲しければ能力をつけろっていうのは当たり前みたいな世代」

彼がなぜこれほどまでに、“クラスカースト”という言葉、そしてそこにある“人権は勝ち取るもの”という考えを強調するのか、それは単に世代だったということ以上の何かがあるはずなのだが、具体的な経験について聞き出すことができなかった。

インタビューを始める前に、私は改めてパーソナルな部分が聞きたいと説明をした。しかし、インタビューを始めると、組織に属する活動家としての彼と、そうではない一個人としての彼という、2つの言葉が存在することに気づいた。「新しい歴史を作る会」や“人権を勝ち取らないといけない”という言葉は、明らかに後者に属するものであり、尚且つ、彼が活動をする動機となっている考えではないかと強く感じた。

彼がこの考え方についてしゃべる時、少し笑いながら「死ね」という言葉も同時に吐き出される。それは次のような場合だ。

「個人的な感覚からすれば、闘わなかった奴が後でボコボコにされて殺されるなんてのは、(会社の)奴隷でいいって言ったんだから、じゃあ奴隷のままでいろよっていう。どうなろうがなんの文句も言うなっていう、おとなしく死ねっていうのは、人としては思っちゃう。」


闘わないやつは死ねという言葉は、日本社会に暮らす不特定多数の個人に向けられた言葉であり、彼が投げかける社会への眼差しだった。「今の日本社会で変だと思うところは?」と訊くと、彼は政治を引き合いに出しながら、傍観者でなにも行動をしない市民を強く批判した。

しかしその一方で、組織に属する左翼活動家であることから、闘わないやつは死ねという考えとは矛盾するもう一つの主張を持つ。それは、自らが活動家として運動を担う主体である以上、市民に対して責任を求めるのは不誠実だという、彼の活動家としての意識だった。そのことは、彼が「活動家」の対義語として「民衆」(市民)という言葉を使い区別していることからも汲み取ることができた。

こうした矛盾する考えを内包しながら、なぜ彼は“左翼”活動に傾倒しているのだろうか。話を聞けば聞くほど、彼がなぜ“左翼”活動をしているのか、そして何と闘っているのか、敵は誰なのかということがわからなくなっていた。

あるいは彼にとって、右・左ということはそれほど大きな意味を持つものではないのかもしれない。彼は、とある週刊誌のインタビュー記事で、昔から政治に関心があり、15〜16歳ぐらいは“新右翼的”な考えを持っていたことを明らかにしている。

右・左という以前に、彼にとって変わらないことは、この社会はおかしいという思いなのかもしれない。

「この社会は自由だと言われてますけど、一本道を走る自由でしょっていう。それはそもそも自分が感じてたこと。自由に大学選べって言われても、偏差値とかそう選ぶでしょっていう。別に自由になんか選んでないでしょっていう。ずっと思ってましたから、それで自由の国とか民主主義の国とかちゃんちゃらおかしいなっていう。全員死ねばいいのにみたいなことを(笑)」
ーーそれはずっと前から?
「それはもう、16歳、17歳とかその頃くらいからですよ。で、政治について色々文句言って、誰が悪いあれが悪いって評論してるだけのくせに、こいつら何言ってるんだろうみたいな。評論して自由なつもりみたいな」


彼が言う「死ねばいいのに」というのは、冗談でつい厳しい言葉をその場のノリで言ってしまうようなものと何ら変わりはない。しかしだからこそ、それは冗談ではなく、彼が持つ社会に対する憎しみや嫌悪のような感情を、冷笑とともに吐き出している気がしてならない。そしてそれは同時に、彼が活動家として生きている理由にもなっているのではないかと感じる。例えばクラスカーストという言葉にしても、また、学内での立て看板やビラ配りの規制をおかしいと思う感覚にしても、彼の視線は常に表街道ではなく裏道に向けられていて、社会に対してシニカルな眼差しを向けてきた。そのシニカルな眼差しと繊細な感性をもって、中高生の頃から社会の欺瞞性に思慮をめぐらせていたのではないかと感じるのだ。「死ねばいいのに」という言葉は、社会だけでなく、市民にも向けられた彼の冷笑的な眼差しに他ならない。

だからこそ、彼にとって、左翼ということ以上に重要なのは、そうした社会そのものと「闘う」という事実なのかもしれない。それは同時に、彼にとって、この社会での「居場所」なのかもしれない。
 

私は最後に、自分の現状と照らし合せて、こんな質問をした。

ーー普通に生きられるなら、普通に生きたい?

「私は完全に、、、普通に大学出て働き始めて、その方がずっと結局一人暮らしで、30ぐらいになってて、猫買っちゃってるみたいな。猫好きなんで飼ってると思うんですけど。結局猫の世話をひたすらしてる人生っていう風になってる未来しか見えないので、別に」

ーーそういうのだったら今の方がいい?

「そうですね。年とったら年とったで仲間がいますし、助け合えるし。一人の時間が欲しいとか人間だからみんなあると思いますし、そういうのが強い方だと思ってますけど。だけど一人で生きられるとは全然思ってはいないですから。今の人生の方が結局色々助け合いながら生きていくことができるんじゃないかなと単純に思ってますけどね」

これが彼の選択した生き方だった。


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