輪郭から溢れ出るもの
「なぜ人を殺してはいけないか」ということが、大学のゼミで問われたことがあった。いつも真面目にゼミ発表をしていた女の先輩は、「それが法や道徳の規範で定められているから」と、自信なさげに答えた。静かに聴いていた先生は、「世俗的ですね」と、その答えが正しいのか間違っているのかを示すことなく、ただ一言そう述べた。他の人は、と問われても、恐らくその場にいた人は、私も含めて、「規範で定められているから」ということ以外の“答え”を持ち合わせていかなった。
そんなことを思い出したのは、最近テレビの仕事をしていて、自分の意思に反することをやる“痛み”に鈍くなったなと思う時があるからだ。本当にやるべきことなのかという疑問を持つ内容であっても、それが上層部からの意向を反映しているものであれば、否応無くその大きな波に飲み込まれてしまう。自分自身も、一緒に働く同僚も。
そこにあるのは、そう決められているから従うという、受け身の姿勢であり、何か決められた枠の線をなぞっているような感覚だけだ。楽であるし、何も考えなくてもいい。つまり、「私」と向き合う苦しみがない。
あの時、女の先輩が答えた「規範で定められているから」人を殺してはいけないという答えには、では規範で定められていなかったら、あるいは、人を殺すことが賞賛される状況だったら、という芯の部分が剥き出しになった問いに答えるものではなかった。考えれば考えるほど、堂々巡りを繰り返すだけで、いけないことだからという、子供みたいな答えに、説明を加えることができなかった。それはまるで、飼いならされた犬のように、理性的に論理的に考えることが染み付いた、頭でっかちな自分の姿だった。
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テレビ局の若い社員には、ある一定の傾向がある。それは、①いい大学を出ている、②実家がお金持ちの人が多い、③言われたことをきちっとやる、という点。彼ら彼女らは、仕事をきっちりとやるという意味では、優秀な人材であると思う。決められたことを決められた通りにやる。言われたことを忠実にこなす。
そこに違和感を感じるのは、「私」というものが不在だからだろうか。決められた線から逸れたり、変わったことをしたり、ということが、ない。そこには、“痛みを感じる私”がいない、あるいは押し殺されていて、輪郭だけがやけにはっきりしている印象を受ける時がある。
なぜ人を殺してはいけないか、という問いに対して、規範で定められているからと考えること以上に大事なのは、たぶん、“痛い”と感じられるかどうかなのではないかと思う。僕らは、論理的に考えることを優先し、そこに一切の私的な感情を排除しようとしていたことに今更ながら気づく。
痛いと感じること、そこから相手の痛みを想像すること、それこそが人を傷つけない根源的な理由ではないかと思う。
もしそうでなく、その時々の規範や道徳観に従うだけならば、「私」という人間は、輪郭だけがやけにはっきりとした、中身のない存在でしかないことになる。
何かの尺度や言説に従って生きることは、自分自身にも、そして他者に対しても残酷になりうる。
輪郭がありながらも、その中に詰まり溢れ出てくるものこそ、日常のなかで大切にしなければならないと、朝の通勤電車の中でぼんやりと考えていた。
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