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恐竜図鑑、パレオアート。

 めっちゃ行きたかった兵庫県立美術館の特別展「恐竜図鑑 ― 失われた世界の想像/創造」へ。
 会期終了前にギリギリ間に合いました。

 「恐竜展」ではなく「恐竜のアート展」(科学に基づいて古生物を復元した芸術のことを”パレオアート”というらしい)。
 つまり、二世紀前に恐竜が発見されてからの人間の想像力の歴史を見る。

 恐竜研究が進み、新たな学説が出るたびに恐竜像は変わる。それに合わせて恐竜の復元画、恐竜を元にした芸術作品も変わってくる。
 「過去の復元画は間違っているので現在は価値がありません」とはならないところが面白い。
 かつて存在した過去は一つしかないはずなのに、「恐竜はこんな姿だっただろう」という科学的な実証に基づく予想や、「恐竜はこうあってほしい」という想像力からいくつもの世界が広がる。
 おそらく今後も新しい学説が生まれれば現在の復元図は変化し、パレオアートの世界は永遠に終わりや正解のない”過去に生み出された過去の世界を上書きし続ける”現在進行形のメイキング映像を体験できる世界かもしれない。

初期の恐竜パレオアート。ジョン・マーティンの《イグアノドンの国》(1837年)
可愛い。

 また、人間が想像/創造したイメージ、特に復元画のような視覚的なイメージは一度広がると、その根拠となった学説が覆されても、イメージ自体が覆ることは何かしら劇的な新しいイメージが生み出されないと難しいような気もする。突出した芸術力、創造力が要りそう。
 (視覚的ではなくても、例えば司馬遼太郎が作り上げた小説の中の信長や龍馬のキャラクターイメージなんかもそうだと思う)。

 「恐竜は活発な温血動物」という学説を取り入れ『ジュラシック・パーク』はまさに画期的な視覚効果でその後の恐竜のイメージを変えたにもかかわらず、その後のシリーズの恐竜像が進んでゆく学説を取り入れず『ジュラシック・パーク』に縛られてしまうのも”司馬遼太郎の龍馬”と同じだ。
 (ジュラシックシリーズは、『ジュラシック・パーク3』で申し訳程度に恐竜に羽毛を生やしたが、『ワールド』になるとファンに愛着のある羽毛なしの姿に戻している。一応、遺伝操作で生まれた”恐竜とは似て非なる生物”であって「恐竜はこうあってほしいから」という言い訳が劇中で成り立つ設定でもある)

 『恐竜図鑑』展から話がずれたが、特に見入ったのがこちらの絵。

チャールズ・R・ナイト《ドリプトサウルス(飛び跳ねるラエラプス)》 (1897年)
ポストカードを買って飾りました。

 野生動物画家でありパレオアートの巨匠でもあるナイトが描いたこの絵。”1897”年の作品である。
 先述した「恐竜は活発な温血動物だった」という説が唱えられ恐竜ルネッサンスが起ったのは1960年代であり、ナイトがこの絵を描いた時代の恐竜像に、この絵の恐竜たちはそぐわない。
 音声ガイドでも「ナイトは当時の学説に”基づかず”おそらく想像力で描いた」と語られていた。
 野生動物を普段から観察・研究していた人間の想像力が、これを描いた瞬間だけ時代を超えたと思うと偶然や偶々という言葉で片付けてはいけないような神憑かったものを感じてしまいました。

 出口直前。
 四足歩行で角の生えたイグアノドン、直立二足歩行のイグアノドンという過去の復元イメージの像二体が未来へ左向き、現在のイグアノドンのイメージ像が過去を振り返るようにそれら二体へ向いて展示されているのがこの会全体の主題を表しているようで良い余韻が残りました。

 最後に。

 『ジュラシック・パーク』自体もパレオアートかもしれないが、スピルバーグが恐竜を映画で表現するためにCGやアニマトロニクスを採用したことによって採用されなかった企画当初の恐竜、フィル・ティペットのストップモーションの恐竜も今となっては貴重なパレオアートだと思った。

 ちなみにティペットが試作したこのシーンを観た、恐竜監修担当の古生物学者ホーナーは「温血動物の恐竜がこんなヘビやトカゲみたいに舌をぺろぺろ出すわけないやろ」と怒ったとか。
 これはこれでティペットの「こうあってほしい」という想像力が面白いです。

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