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My Life Story: 生い立ち~学生時代編

前回のこれまでのキャリア編に続いて、今回は生い立ちから学生時代にかけて書いてみたいと思います。写真はたまたま手元にあった2歳の誕生日の時の写真です(実は先日2歳になった息子に怖いくらい似ています、というか同じ子にしか見えません(笑))。

誕生

母親の出身地でもある埼玉県浦和市(平成の大合併で現在はさいたま市)で生まれました。浦和といえばそう、浦和レッズです。私がなぜ浦和レッズが好きかと言うと生まれたのが浦和だからですね。でも、最近は出身地は後述するスリランカと言うようにしています。そのほうがインパクトあるので。ちなみに出身地の定義というのは「その人が生まれた土地。また、生い育った土地」とのことなので、間違ってはいないですね。

幼少期

生後半年で父の仕事の関係でネパールに行きました。初めて喋った言葉はネパール語らしいのですが、当時のことは何も覚えておらず、今はネパール語も全く話せません。2歳の誕生日が上の写真です。3歳の時に日本に帰国しました。2年後に今度はスリランカに引っ越しました。

小学校

スリランカってどこだかわかりますかね?わからない方もいるかも知れないので、地図を貼っておきます。インドの南の島です。インドの一部ではありません、宗教も言葉も違います。

スリランカで幼稚園から現地のインターナショナルスクールに通いました。仕事の都合でスリランカに来ている外国人の子弟が通う学校です。世界中からいろいろな国の子供が集まって居ました、授業は全部、英語なので自ずと英語が話せるようになりました。そして、そのまま同じ学校の小学校に上がりました(なぜか飛び級で1年早く)。

日本で言う小学校3年に上がる時に一時的に日本に帰ることになり、小学校3年と4年の2年間は浦和市立北浦和小学校に通いました。サッカー少年団にも入ったのですが、後輩に元浦和レッズの山田直輝、矢島慎也が居ます。二人とも別のチームに移籍してしまって寂しい限りです。この2年間が私の人生に大きな影響がありました。なぜなら、この2年間で日本語が身についたからです(その分英語力は失われたのですが。。。)。おそらくのこの一時帰国がなければ日本にそこまで興味も持たず、日本語もさほどできないので日本の高校や大学に進学することもなく、日本でその後ずっと暮らすことも無かったでしょう。おそらく英語圏のどこか(アメリカかな)の移民になっていたと思います。

小学校5年生に上がる時に再びスリランカに戻り、通っていたインターナショナルスクールに戻りました。この時にショックだったのが、幼稚園から通っていたにも関わらず、英語力不足でわずか2年のブランクで、もともと飛び級していた学年に戻れず一つ落とされた上に、ESLという英語ができない子向けのクラスに入れられたことです。このESLが結構スパルタで、宿題の料もものすごくて、そのおかげで半年ぐらいで普通のクラスに入れることにはなりました。ただ、日本語ができるようになった分、英語ができなくなっていた感は正直否めませんでした。

中学校

中学もスリランカのインターナショナルスクールにそのまま通いました。正確には1年生から12年生(高校3年相当)まで一つの学校なので中学校という概念はありません。敷いて言えば7年生から9年生が日本の中学に相当します。この頃には高校から日本に帰ることが決まっていたので学校の勉強をすごく頑張るでもなく、スポーツに打ち込むこともなく、なんとなくいろんな国出身のクラスメイトたちとそこそこ楽しく過ごしていたような気がします。10年生の10月ぐらいに日本に帰国して、帰国子女向けの高校受験の塾に通いました。4月生まれの私は中3にあたる、9年生が6月に終わっているので翌年の高1の4月まで学校に通わなくても良かったのです。人生でこのときだけは結構勉強したように記憶しています。

高校

高校受験では無事に?帰国枠で国際基督教大学高等学校(通称:ICU高校)というちょっと変わった高校に滑り込むことができました。私のようなインターナショナルスクールや海外の現地校出身者は試験は小論文と面接しか無いので、受験勉強はあまり必要なかった可能性が高いです。でも日本の中学の勉強を受験対策とはいえ数ヶ月詰め込んだことは意味があったとも思います。ICU高校は全校生徒の2/3は帰国子女で同じような境遇の生徒ばかりなので過ごしやすかったような気がします。ただ東京の小金井市に、埼玉の浦和市から通っていたので、通学が片道一時間半と辛かったのを覚えています。最近はICUというと皇族が学んでいたこともあって、大学が有名になりましたかね。ちなみに高校は「付属高校」では無いので、高校を卒業したら同大学に進めるわけではありません。推薦みたいのもあるのですが、私の場合、対して勉強のしなかったので、成績も足りず、通学も大変だったので、早々に他の大学を受験することを決めていました。

大学

大学は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(通称:SFC)にある総合政策学部に進学しました。入試が英語(もしくは数学)と小論文だけで入れたのでラッキーでした。学生生活は最初の2年間は大学近くの湘南台にアパートを借りて通い、後半2年間はこれならは通えそうだなと思い浦和の実家から2時間半かけて週2日~3日に授業を固めて通いました。このころは湘南新宿ラインもなければ、相鉄も湘南台まで伸びていなかったので、大変でしたが、今ならだいぶアクセスも良くなっているので、今なら普通に通えるのかもしれません。在学中はコンピューターに多少ハマったりしながら都内の某企業でバイトしたり、長期の休みはそのお金で旅行に行ったり、自由に過ごしていましたね。当時はとにかく卒業することが目的になっていて、あんまり勉学に力を入れていなかったことを後悔しています。社会人になってから反省して?もっと勉強しようと大学院(MBA)に通うことにしたりしました。大学生の皆さん、勉強も大事です(笑)。

就活

就職活動は文系でしたが、モノやサービスを作ることに興味があってメーカーを中心に受けたように記憶しています。学生の時に少しかじった、コンピューターに関わる仕事にも興味があり、縁があって富士通にシステムエンジニア枠で内定が出ました。英語を活かして外資系とかも考えたのですが、外資は転職でも入れるけど、日本の大手企業には「新卒」でしか入れないから日系企業に入ろうと決めていて、その選択はあながち間違ってなかったと今でも思います。就職した後の詳しい話はこれまでのキャリア編を読んでみてください。

まとめ

ちょっと変わった生い立ちなので長くなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。これまでのキャリア編と併せてMy Life Storyということで、お楽しみいただけたなら幸いです。これからも不定期となりますがNoteで情報発信していきたいと思います。

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