最大少数の最大幸福、と猫
※以下の内容は個人の感想です
働き始めて一ヶ月経って、気づいたことがある。
幸福は、不足によって生じると。
友達と遊んだり、映画を観たり、バイクに乗ったりゲームしたり、お酒を飲んだり…幸福を生み出しうる要素は様々だが、どれも幸福を生み出す装置としての機能はある一定の条件を満たさないと働かないようになっている。
それが、不足である。
ほとんど全ての娯楽は、供給が多すぎるとそこから得られる満足度は10%〜40%以下に低減してしまう。一方不足した娯楽は、それが得られた時の満足度がとてつもなく大きなものとなり、それに伴う幸福も最大級のものとなる。
まあ当たり前の話だ。空腹が最高のスパイスとはよくいったもので、不足が最大の幸福を私たちにもたらす。
私は仕事が始まったことで、不足というものを十分なほどに供給されている。そのため、家に帰った後や休日に行う娯楽に修正必須レベルのバフがかかるようになった。映画を観ても、ゲームをしても、友達と会っても、なにをしても学生時代には感じられなかったほど大きな幸福を感じられることが多い(「多い」である)。
皮肉な話だ。十分な時間があると満足できず、時間がないと満足するようになる。
お金と一緒だ。お金がない時にお金を使う元気があり、お金がある時にお金を使う元気が無い。
泣けるぜ。
ただこの幸福度に関する式には、少なくとも一つ例外がある。
そう、猫と一緒にいる時間は、どれだけあっても足りやしない。どれだけ猫吸い(猫の体に顔をうずくめて呼吸をすること)しても足りない。どれだけ喉ゴロゴロ鳴らしてるのを聞いても足りない。どれだけおもちゃで一緒に遊んでも足りない。猫だけは、その要素を得られれば得られるほど、幸福度が加算されていく。
神の誤算だ。重力に逆らって空高く昇っていく風船の如く、自然法則に抗う生き物。神をも超越した。
猫よ、ありがとう。
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