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エッセイのための小論

 試しに書くとはどういうことか。
 書く――とは何か。
 基本的に、人は、自分の思っていることを書いている――と思っている。思想を言葉に加工する。つまり、思想が先にある。

 しかし、思想が先にあるのならば、試しに書いてみるとはどういうことになるのか。
 自分の思想を言葉にする――という練習に過ぎないのだろうか。そんなことはないだろう。もしそうならば、文章は上手い下手の問題に堕落してしまう。しかし、文章は上手い下手では測りきれない部分がある。

 書いてみて初めてわかる発見、自分で自分がこういう人間なんだとわかる体験――この体験の存在は、文章が上手い下手では測れない部分があることを如実に表している。
 書いて、自分を発見すること――それは、「書く」そのものに、何か自分があるということ――を表している。
 試論は、そういうためのものでもある。エッセイは、ただ上手か下手かではありえない。自分をいかに発見するのか。書いてみて初めてわかる、あるいは、書いてみて後から作り出される自分を掬い取る、ということも同時に含んでいる。

 エッセイを書くとは――自分を発見するということだ。
 そのためには、素直な文章でなければならない。自分が思っていることを、ただ書くということに努める。
 できるだけ建前のないような――脳みそからそのまま表現されるような――建前の前の思考。

 これは単なるアウトプットではない。アウトプットは、同時に「インプット」という言葉を想起させる対立概念だ。
 しかし、試論には、インプットはない。つまるところ、自分を出すことだけに努めているからだ。
 そして、自分を出すとは――自分を入れることの反対ではない。入ってないものを出す。それが、試論なのだ。つまり、インプット以前のアウトプットにアクセスする。
 インなきアウトな思考――それが、エッセイの核心の一つだということを、私は確信している。

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