Q:なぜ意識高い系は問題か? A:徳がないから
意識の高さという、本来なら褒め言葉となるのが揶揄することばとなってし久しい。何が問題か?を考えてみました。
意識が高い発言の動機には二種類あって
1)自意識が高い(注目されたい、自惚れ、自己中心的)
2)意識だけが高い(行動が伴わない、実践的でない)
1)が問題外と思われるのは当然だとして、2)の面における理由があります。なぜ、意識の高い人の発言は、行動が伴わず、実践的でなくなってしまうのか。
「他者への共感が欠けるから」
が答えかなと思いました。
他者の共感を伴わないと、仮に行動したとしても、共に行動してもらえず、現実とならない。ゆえに、結果的に「意識高い系」発言は、自己成就的に意識だけが高い発言となる。結果的に「意識だけが高い」発言も「自意識が高い発言」になってしまう。
では、私たちは、意識をどうすれば良いのでしょう?
意識は広く、深く、かなと思いました。
「意識が広い」とは、多くの可能性に開いていること
「意識が深い」とは、多くの人の表層ではない想いに気づくということ
先日話のついでにアンケートとして、以下の質問をしてみました。
「意識高い人は好きか?」か、100% Noでした。「意識が広い、意識が深いは?」「それは、懐が大きいとか優しいってこと?絶対そっちがいい」とのことでした。シンプルですね。意識が高い、つまり、計算できる範囲のことを知ったように話すことには、価値がないどころか、マイナスになります。
それより、意識が広い、意識が深いことが大事なようです。これからは、意識広い系、意識深い系の時代かもしれません!間違っても意識高い系になっては行けません!!意識高い系ってのは、お勉強して、少し知識が増えた人の「豚もおだてりゃ木に登る」様子ですね。
この文章が、意識の高い文章になっていないか、心配です!😆
上記は、少し、カジュアルな文章で書きましたが、意識を学ぶことは、すなわち、実践的に物事を進める方法を学ぶことです。それは、小学校のクラス以来、私たちが学ぶことを忘れた、「道徳」の学びでもあります。
他者が共感可能な内発的公共性とは何か?物事が実現するかどうかは、私たちの意識場がどれだけ、そうしたことにチューニングできているかにかかっています。それは、現実世界と意識の場の一体性・共振性と言えるでしょう。
WaLaの哲学では、そうした意識の場(anywhere)の持つポテンシャルの力を学ぶための、内省の型と、体験、それを可能とする心理的安全な場を設計しております。
今年もあと3ヶ月!2020年を、「コロナ禍をきっかけに社会が変わった年」とするのか、「コロナ禍をきっかけに自分が変わった年」とするのかは私たち一人ひとりの決断にかかってます。10月開講のクラスに向けた説明会は、いよいよ今回が最後の1回となりました。2020年実施の「WaLaの哲学」もこの10月開講がラストです。この機会を活かして欲しい、と思います。
WaLaの哲学 説明会
9/25(金)19:30~ @zoom
▼詳細・お申し込みはこちらから
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