芸術の存在証明と鑑賞者の介在
芸術とは何か。
芸術、またはそれに類するものに関わる表現者、鑑賞者、批評者にとって共通の永遠のテーマであり、古代ギリシアから近現代哲学、果ては深夜の下北沢の居酒屋に到るまで、脈々と議論されてきた人類の命題である。
この命題は下手に展開すると美術分野に限らず心理学・認知科学・生物学・文化人類学等々へ拡がり、美とは何かだとか、ロゴスとパトスだとか、メディア論だとか、料理はどうだ、採点型スポーツは芸術なのか、町工場の金属加工だって芸術じゃないか、など論点の枚挙にいとまがないため、ある一つの視点での考察を取り上げたい。
と言っても特に目新しい着眼点ではない。「芸術と観察の関係について」である。
はじめにピカソ御大による自らの絵画の制作方法についての所見を引用しよう。
これは1935年に「カイエ・ダール」誌にて行われたピカソへのインタビューの一部である。ピカソ曰く、制作の出発点は画家本人の意思であるが、制作時間を重ねるうちに画家の初期構想からだんだん意思そのものが離れていき、完成時には作品が「自然」に達する。彼は制作者の作品への意味づけやメッセージの内包を否定する発言を何度かしており、あの政治的意義の強い「ゲルニカ」についてすらその解釈を鑑賞者に委ねている。例えば発表当時、「ゲルニカ」の牡牛はスペイン内戦でのフランコ将軍の残忍性を表し、いななく馬は逃げ惑う人民を表しているという解釈がなされていたが、それについてピカソ本人は肯定したり受け流したりと微妙な態度をとっている。
さて、上記発言の最後、「絵画作品が観る人によって初めて生命を与えられる」とはどういうことであろうか。
これは量子力学における観察者効果と似ており、密室のアトリエより世に放たれ他者の目に触れられた時点で純然たる作品はもはや存在せず、鑑賞されるという行為そのものが作品のもつエネルギーに何らかの変化を与え、物理的変質が一切ないにも関わらず形而上での意味合いが全く別物となっていく、ということである。
「生命を与えられる」という少し宗教がかった表現を咀嚼するならば、「他者の目に曝されることで初めて芸術は芸術となり得る」と解釈できよう。
本テーマにうってつけであろう人物マルセル・デュシャンは、ピエール・カバンヌによるインタビューの中で次のようなクリティカルな発言をしている。
主観的観念論的発想とも捉えられるため、やや抵抗を感じる言い回しである。換言すると密室のアトリエで描かれたモナ・リザは落書きに等しいということになるし、作曲されたばかりの歓喜の歌はただの記号の集合体に過ぎなくなる。
逆も然りで、ポロックやバーネット・ニューマンの絵画と、酔っ払いが壁に描いた立ち小便の跡との差は一体どこにあるのだろうか。今あなたが手元にあるレシートにボールペンで一本線を引く。それは果たして芸術といえるのだろうか。
デュシャンは、そこに「鑑賞者」がいるのかどうか、という点が差異になると述べる。たとえ立ち小便の跡であっても、そこに鑑賞する「目」があれば、「芸術」となり得る。芸術作品となるには必ず他者の視点、しかも「芸術作品として鑑賞する」という意思を持った視点が必要なのである。
「立ち小便をしたおっさんを巡回中のお巡りさんが咎めました」、これは鑑賞ではない。「見る」と「鑑賞する」は決定的に違うという点には留意する必要がある。鑑賞者は制作者と同等の立場に立ち、それ相応の責任を担う。デュシャンの言うところの「作品を見る者にも、作品をつくる者と同じだけの重要性を与える」とはそういった意味である。
もっともこのあたりはバンクシーを巡る問題提起にも通じていくところであり、またそれを逆手に取ったデュシャン本人のアンデパンダン展での「泉」の出品にまつわるエピソードも有名だが、いずれにせよ鑑賞者の存在によって芸術はその存在意義を大きく左右されるわけだ。
少しニュアンスは異なってくるが、芥川龍之介も芸術の鑑賞について似たような見解を残している。
芥川は、鑑賞されることによって芸術作品が芸術作品として昇華される、という相互作用について触れると共に、単純な作品そのものの「美」や「完成度」だけではなく、「鑑賞するに耐えうる」こと自体に美術作品としての価値があるという意味合いも内包している。ただ世間に晒すだけではなく、ちゃんと見られるレベルにしてね、という厳しい意見といえる。
一方で、その価値の付与が作者の意図しない方向に進むこともまた事実である。
例えば、直に触れる鑑賞者ではなく、第三者の色眼鏡が介在することによって意味が変容する場合がある。古くはラスコーやアルタミラの壁画にはじまるプリミティブ・アート、またはアウトサイダー・アートやアートセラピー作品がその好例である。
現代音楽シーンにおいてもコンゴのKonono No.1の欧米文化圏での大ヒットや、Sublime Frequenciesによる東南アジアの謎ポップス再発掘、付け加えればフィールド・レコーディングやサンプリング、ミュージック・コンクレートの一部もその過程の上では同様である。
祝祭儀式上での道具やコマーシャリズム目的の商材に過ぎなかったものが、丁寧に美術館に陳列されることによって芸術たらしめる。肉体性・宗教性・商業性といったものが失われ、代わりに「芸術」という囲いに括られ崇められる対象へと変化する。これらはピカソで言うところの「生命」というよりは、もはやシミュレートされた人工生命のような印象である。
深掘りすると横道にそれるため、ジャック・アタリによる西洋音楽史と資本主義に関する批判的な見解のみ引用しておく。
さて、作品と鑑賞者間の相互作用についてに戻ろう。
多くは無機質と有機質の対立構造であるにも関わらず、作品が放つエネルギーと鑑賞者の眼差しそれぞれが一方通行ではなく、双方向に作用しているということ。
どこかオカルトめいた雰囲気もあるが、このフィードバックについて掘り下げてみよう。
現前性(ハイデガーのロゴス論やデリダのグラマトロジーなどで表される「現前」ではなく、単にリアルタイムに存在するといった意味)のある芸術なら鑑賞者との相互作用も起こり得るが、既成物ではどうなのだろうか。
たとえば音楽や演劇、ダンスや朗読などのライブ・パフォーマンスにおける現前性において、同時に場を共有している表現者と鑑賞者の間に相互作用が起こりうることは想像に難くない。そりゃこちらがウケればあちらもノってくる。人間だもの。
しかし、千年も前に書かれたアルゼンチン文学と、令和の日本の読者の間での相互作用とはいったい何なのか。作者の原稿をそのまま読むならまだしも、長い時を経て重版を重ね、翻訳者を介し、また重版され、もはや原型を一切とどめていない。加えて作者と読者には千年の時と地球半周分の隔たりがあり、もはや共通項は人間であることだけである。「テセウスの船」のパラドックスを彷彿とさせる。
芸術を巡る時間については、オクタビオ・パスによる次のような詩論がある。
少し難解な言い回しだが、要するに鑑賞者がイメージを追体験することで、時間が引き戻され、原初的な時間が瞬間的に具現化される。詩を読むこととは歴史(=時間)に触れることであると同時に、歴史を否定することでもある。詩に限らず芸術に鑑賞者が触れる際、時間は何ら重要性を持たないということである。
付け加えれば、時間が寄与しないということは、一般相対性理論における時空の概念を持ち出すまでもなく、同時に距離についても関係がないといえる。
既製品(レディメイド)であるレコード盤に収録された音源は過去に制作されたものであり、レコードに刻み付けられた時点でそれは物理的な単なる凸凹へと変化し、厳密に言えば「音楽」ではない。プレーヤーで再生され聴取者の耳に届くことで初めて音楽へと形を変える。レコードを物理的に捻じ曲げたとしても、それは二次的変化であり一次的には何ら影響を与えず、過去の録音物には一切の変化変容がない。良いスピーカーで聴いても「聴こえ方」が変わるだけで、演奏そのものがうまくなったりバンドメンバーが増えたりすることは決してない。
しかし万人が経験済みの通り、録音物との関係がある一定の条件の下で変化する感覚は確実に存在する。あれほど嫌いだった小室ファミリーの音楽を今聴くとノスタルジックに感じちゃったり、阿部薫の暴力的なソロが満員電車の中と冬の日本海では全く違うものに聴こえたりする。
無機質であるはずの録音物と鑑賞者の間に、何らかのプシュケー的なものが存在しているとしか考えられないわけだ。
芸術は観察者の存在によってはじめて命を与えられる。
二者は直接触れ合う必要はなく、時空の制限も一切ない。
芸術にとって観察者の能動的な参加は必要不可欠であり、二者間の相互作用がなければエネルギーの移動も生まれない。
それは単なる図であり、絵ではない。
単なる音であり、音楽ではない。
単なる移動であり、ダンスではない。
つまり、芸術家にはアンガージュマンが必要である。人の目に触れ、社会に認識されることでその作品は初めて存在証明を得る。密室を捨てよ街に出よう、ということであろう。
こと全員参加型情報社会の到来である。
芸術家よ一斉蜂起し、立ち小便を撒き散らすのだ。捕まらない程度に。
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