人間の共感力の限界と世界に広がる自国中心主義について
だいそれたタイトルをつけて今週のnoteを書き始めたけど、どこまでこのタイトルに沿った内容の事が書けるのか分かりません。でも、アメリカでトランプ大統領が生まれてからぼんやりと考えている事についてなんとか文章にしてみたい。今週もよろしくお願いします。
2017年、トランプ大統領誕生
トランプが大統領に選ばれてつくづく感じるのは、アメリカは自分が思っているよりずっと「大きな国」だということ。それは単純に国土だけでなく、そこに住む人々の考え方、生き方、多様性という面も含めて。
世界的に排他主義的な勢力が台頭する背景には、
「私はこんな善い人間でありたい」
「こんな人間であるべきだ」
という理想を追い求める事への人々の疲れがあると思う。
平等とか博愛とか。人間はそんなに皆が清く正しい存在ではない。
「俺はこれが欲しいんだ!」
と吠えるトランプは、アメリカ人が心の中で思っていても公言できない欲望を代弁したんだろうな。
うまく説明できないけど、今、この時代にトランプを選んだアメリカ人は、「生き物」として凄く優秀なんじゃないかな、とかそんな事を思っています。
これは2016年11月、ドナルド・トランプが大統領に選ばれた時に私がFacebookに投稿した文章です。
私は20~23才頃にアメリカに留学していたため、おそらく多くの日本人の方より「ドナルド・トランプが大統領に選ばれた!」という出来事に大きな衝撃を受けました。なぜなら、トランプがアメリカのテレビ番組で「You're fired」という決め台詞を言ってお茶の間を沸かしていたのを見ていたからです。
TVでトランプを見ていた頃、私のトランプに対する印象は「ホリエモン+ドン小西」みたいな人が、日本のテレビ番組で言う「マネーの虎」で社長の役をしているという感じでした。
「ホリエモン+ドン小西」的な人がアメリカ大統領になる、って聞いたらびくりしませんか??実際、投票日当日までマスコミも含めて殆どの有識者と呼ばれるような人達はトランプが大統領になるなんてジョークだと思っていたし、当然ヒラリーが大統領に選ばれると考えていました。
でも、実際にアメリカ合衆国大統領に選ばれたのはドナルド・トランプ。
この衝撃的な出来事から、今日のnoteのタイトルに書いている「人間の共感力の限界」という事について考えるようになりました。
人間の共感力の限界ってなんの話?
人は他人の痛みや感情を想像する共感力を持っています。自分自身に起きた出来事ではなくても、目の前で悲しみにくれて涙を流す人を見れば、自分の心も悲しくなります。
共感力があるから人は他人に対して優しくすることが出来ます。
自分の行いによって目の前の人が悲しくなったり、痛がったりすれば、共感力によって自分自身も悲しく、痛くなるからです。
でも、その悲しんでいる人が目の前にいない場合はどうでしょうか?自分が何気なくいった一言が人づてに友人に伝わり、その友人が悲しんでいると聞いた時、あなたは「目の前で友人が悲しんでいる」時ほど、その悲しみに共感できるでしょうか?
共感力には限界があります。
自分の抱える悲しみ > 恋人、家族といった自分にとって最も大切な人たちの悲しみ > 友人の悲しみ > 知人の悲しみ > 他人の悲しみ(日本人)>他人の悲しみ(アジア人)> 他人の悲しみ(アジア人以外)...
こんな感じで、自分に近しい存在から離れていくと、その人への共感力もどんどん弱まっていきます。
「今もアフリカでは貧困に苦しんでいる人たちがいます!」
と聞いても、私がその事に対して特別な感情を抱くことはありません。勿論、そうであって欲しくはないなと思いますが、それ以上の事は考えられません。でも、大切に思っている友人が明日食べるものも無くて困っていると聞けば、当然「何か自分にできないか?」と行動を起こします。
自国中心主義が台頭してきている理由
基本的に人間の歴史は「共感できる範囲」を拡張していく方向で進んできました。例えば、黒人が奴隷として扱われていた時代には「黒人だって自分(白人)と同じ人間で、人間として生きる権利がある!」という主張が行われますし、女性が選挙で投票できない時代には「女性だって自分(男)と同じ人間で、投票する権利がある!」という主張が行われます。
※実際にこの主張をしたメインは黒人、女性といった差別される側の人たちですが、その主張が差別する側の人たちにも浸透していきます。
この共感できる範囲の拡張はヨーロッパではEUを生み出し、その他地域では様々な形で国同士の連携を生み出して行きます。
もともとは村単位で共同体として生きていた日本人が、その共同体意識(共感できる範囲)を、村から藩へ、藩から国へ、そしてアジアの一員という意識へ、という様に拡張していったのと同じ流れです。
そして、この人類の大きな歴史の潮流と異なる動きとなるのが自国中心主義の台頭です。トランプは叫びます。「メキシコ人は皆犯罪者だ!国境に壁を作るぞ!」「アメリカが豊かになるために、アメリカに工場を作れ!他の国には作るな!」と。
そんなトランプをアメリカの田舎に住むブルーカラー層が支持します。この人達の多くは白人で、不法移民に仕事を奪われているから自分たちが生活に困っていると考え、排他主義的なトランプを支持します。
ここで人間の共感力の限界が現れます。
トランプを支持している層は「アメリカ人、白人、キリスト教徒」という共感できる範囲を持っており、その範囲の外に自分たちと同じような権利を渡すことを拒もうとしています。
まず「アメリカ人、白人、キリスト教徒」である自分たちが豊かになる事が大切で、それ以外の「黒人、ヒスパニック系の人々、キリスト教徒以外」がどうなろうと、自分達には関係ないと考えています。私が「今もアフリカでは貧困に苦しんでいる人たちがいます!」と聞いても何もしないのと同様に、です。
そしてこの自国中心主義の台頭はアメリカだけで起きている現象ではありません。イギリスのEU離脱や、各国での極右勢力の台頭(2018年にはブラジルで極右派の大統領が新しく生まれました)が起きています。
この世界的な現象の根本が「人間の共感力の限界」なのでは?というのがトランプ大統領が生まれてから私が考えている事で、今日このnoteに書きたかった事の核心になります。
人間は地球市民という意識を持つ事ができるのか?
共感できる範囲をどんどん広げていくと最終的には「地球市民」という意識に辿り着きます。私が地球市民という意識を持つ事ができれば、アフリカで困っている地球市民に対してもきっと共感が出来る筈。
だけど、それってそもそも人間の能力として不可能なのでは?と私は考えています。
自分の抱える悲しみ > 恋人、家族といった自分にとって最も大切な人たちの悲しみ > 友人の悲しみ > 知人の悲しみ > 他人の悲しみ(日本人)>他人の悲しみ(アジア人)> 他人の悲しみ(アジア人以外)...
というふうに人類は共感できる範囲を広げていこうとしたけど、イギリスは「他人の悲しみ(イギリス人)> 他人の悲しみ(EUの人たち)」の所で、イギリス人の悲しみは共感できても、EUの人たちまでその範囲を広げる事はできないよ!とEU離脱を選択し、アメリカでは「他人の悲しみ(アメリカ人、白人、キリスト教徒)」までしか共感の範囲を広げられない、という人たちがドナルド・トランプを大統領に選びました。
この共感できる範囲が狭くなっていく傾向は、これからもっといろいろな場所で起きてくると思っています。何故なら、今までの「広げていく流れ」が、ある意味「我々人間はこういう存在でありたい!あるべきだ!」という理想から生まれており、その理想と現実の間にあるギャップがどんどん明らかになっているからです。
人権意識の高いヨーロッパで起きている移民問題などはそのいい例です。
もともと人権意識の高いヨーロッパでは積極的に移民、難民を受けれてきました。共感できる範囲を「ヨーロッパにもともと住んでいた人たち」から「新しくヨーロッパに住みたいと考えている人たち」にまで広げようとした訳です。
その結果、例えばフランスでは、イスラム系の移民たちがフランス語を習得せず、生活習慣や食生活もイスラム教の習慣のママでコミュニティを形成し、そのコミュニティ内では「もともとその地域に住んでいたフランス人」が逆に差別を受けるといった様な問題が起きてしまっています。
フランス人は「フランス人の共感できる範囲」を広げようとしたけれど、イスラム系移民の人たちは、その共感の範囲に入ろうとはしないという事が分かってしまい、その結果として、移民に対する排斥運動や極右勢力が台頭してきているのが現状です。
共感はできない、けど争わない
私は人間の共感力に限界があると考えています。
例えば日本人が「アジア人」という意識を持つ事は出来ない、と。それが出来るとしたら、日本人がもっと海外に移住し、海外の人たちが日本にもっと多く住むようになり「日本人」というアイデンティティが溶けてなくなる様な状態、つまり「日本人」が消えてなくならないと無理だと思っていて、そして、私はその実現を望んではいません。
共感をこれ以上広げられないのは人間の能力の限界なのでしょうがないとして、じゃあこのママ自国中心主義的な思想がもっと広がって良いか?といえばそうは思いません。今の流れが加速すると、利害が対立する共感の範囲同士で争いが起きてしまうからです。
共感はできない、けど争わない。
その為に必要な第一ステップは、まず、人間の共感力に限界があることを認めることが必要です。自分たちが共感の範囲を広げられるのはせいぜい現在の国の単位までで、宗教の様な人間の根本的な生き方、思想に影響する部分が異なる人たちと共感を共有する事は難しい、と認める事が第一ステップ。ある意味「諦めなよ」という話です。
共感力の限界を認識した上で第二のステップとして、考え方、文化の違う人たちの意見を尊重し、自分達の価値観を押し付けない事が大切です。自分達と違う考え方をする人たちがいる、という事実をただ認めて、そこに影響力を持とうとしない、という姿勢です。
こんなふうにお互いの違いを認め、その違いを尊重しあう様な世の中になればいいなと願っているのですが、それはそれでなかなか難しそうなので、その理由についてはまた別の機会に。
自国中心主義が世界同時多発的に広がっているのは、人類の歴史の流れが人間という動物の共感力の限界に達した反動であり、そのこと自体はどうしようもない事。限界の先にある新しい未来をどのように描いていくのか?これからはそんな課題が待っているような気がしています。