写真は世界の見方である
学生の頃はよく海外旅行に行った。アルバイトで貯めては海外の安宿を巡った。そういうのが流行った時期でもあった。
最初のうちは、地球のこんな裏側にも人が山ほど生きているという事実を目の当たりにし、テレビでしかみたことのない風景が目の前にあることに感動した。旅先の人の優しさに触れることもあれば恐ろしいと感じることもあった。
そうして旅行をしているうちに気づいたことがあった。「人間は食べて排泄して寝て起きて生きている」という当たり前のことだった。つまりどれだけたくさん人間がいても同じだということだ。だいたいの都市はバスがあり、タクシーがあり、ホテルがある。だんだん見ている景色を概念化していくと、なんだ同じじゃん、というところに行き着いてしまった。
当時はまだ若かったから、入ってくるものがとにかく新しいものが多くて刺激にあふれていたのだろう、そういう受動的な刺激というのは慣れてしまうものなのだ。
「やっぱり日々は退屈だ」というなんとなくの虚無感に包まれた日常を送っているとある写真に気を止めた。キラキラと美しく輝く光。理屈はさておき、自分の感覚が美しいということを理解していた。よくよく見てみればそれは雫のクローズアップ写真だった。いわゆるマクロレンズを使って撮影した小さな世界。
ふとその時気づいた。「心を揺さぶるものは自分の周りにいくらでもある。それを見ようとしていなかっただけだ」そう、感性さえ研ぎ澄ませていれば自分の周りにある感動を見つけ出すことができる。カメラに映し出されるものは自分が世界をどう観ているかということだ。その光を写し取ろうとする行為は、世界を見る見方を研ぎ澄ませるということなのだ。
自分が写真を撮る理由。それは世界に飽きないよう、自分に飽きないようにしようとしているからだ。