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【小説】 桜の奏で その1
その1
埼玉県行田市にある埼玉古墳公園は広い。巨大な古墳に囲まれた上に、大きな空がある。
その空に向かって赤く彩られた西洋凧が強い風に煽られ、高度を上げ下げしながら舞っていた。
首に巻いたマフラーの緩みを直してから塚本裕樹は、西洋凧から視線を切って辺りを見渡した。空には茜色が浸食し始めていた。前方後円墳が並ぶ公園で散策やボール遊びにふけっていた人たちは、すでに、帰路を取りはじめていた。凧を見る子供たちの好奇心はすでになかった。
「もう、帰っても、いいあんばいだね」風が冷たくなってきたのを感じて、裕樹は妻の塚本葉子へ声を張り上げた。
「もうちょっとまって、面白いんだから、もっと高く上げたいから、もう一息遊ばせて」
「僕は仕事の続きもしたいから、そろそろ、帰りたいんだけど」
「仕事? 土日関係ない仕事だものね、そういうのもなんだかある意味嫉妬を抱くけど、いいわ、わかったわ。凧揚げはお終いにしましょう」
その言葉と共に葉子の身体が揺れた。名を呼ぶ力のない声が裕樹の耳に届いた。
たこ糸が力なく緩んで凧は揚力を失い、葉子は打っ伏した。
「おいっ!」裕樹は離れている葉子の許へ走って行った。
ぼんやりと西洋凧は地面へと落ちた。
葉子の身体を抱え上げ、裕樹は色を失って言った。
「たいしたことないわ」しかし、葉子の唇にはどろっとした血があった。
「いや、これは、尋常じゃないぞ」すばやくジーンズのポケットからハンカチを出して、葉子の口に当てた。
暗赤色の血痰がハンカチに広がった。
「大丈夫だから」力ない言葉が葉子の口から出た。
「救急車を呼ぶ」裕樹は声を絞り出して、ポケットのスマホを取り出して番号を押そうとした。
「やめて、なんともないから」身体をひねって半身を起こした葉子は裕樹の袖を掴んだ。
「でも、血が出てる」
「内緒にしていたけど、たまに出るの。もう、出ていない。あたしは元気だから」
「だったら、今から病院へ行こう」
「日曜日よ。開いていないわ。大丈夫だから」
「じゃぁ、月曜日。一緒に病院へ行こう、必ずだ」
「裕ちゃんは頑固なんだから」葉子は頷いた。
「心配しないはずがないだろう」
「ありがとう」葉子は、裕樹の肩を掴んでゆっくりと立ち上がった。そして裕樹の瞳を観て、裕樹のマフラーを取って長い方を自分の首に巻いた。
「問題ないよ。こんな事で、あたしは死なないから」
裕樹は、葉子の頬を両手で包んで、長い吐息を吐いた。
裕樹たちはさいたま市のそこそこ大きな駅に住んでいた。駅から徒歩10分の距離も今日はタクシーで帰っていった。借りて3年の白いマンションが徐々に近づいてきた。家の前で車をつけて貰って料金を払った。白いLEDの街灯が並ぶ道が照らす階段を上って、一基だけある古びた油圧式エレベーターに乗り込んだ。ゆったりとしたエレベーターの上昇スピードは、いつもはまどろしく感じさせるものだった。
行き先階ボタンを押す指が触れ合った。
「お腹すいたね。あたし、ご飯作るから、何が食べたい?」動くエレベーターのなかで葉子は言った。
「君は安静にしておかなくちゃ。寝ていて、僕が作る」
「古墳から行田の駅までだって、ここの駅からだって、タクシー使ったから回復したわ。もう大丈夫、いつも、血痰が出ても普通に出来たもの」
「そうじゃないだろう」
「もう、元気って事。あたしが好きなお料理ぐらいさせて欲しいわ」
「何を作るの」
「スーパーには寄りそびれちゃったけど、家にあるもので何か出来るでしょう」
「僕が作るよ」裕樹は、眉間に皺を寄せた。
「あなたは仕事をして、あたしのことを構うこともないから」
エレベーターのドアが開いた。二人は歩調を合わせて降りて、重い鉄扉を開け、部屋に入った。
上がり框で裕樹は、「電気が消えているんだよなぁ」と呟いた。独身の頃から続く、いつもの独り言だった。そして、蛍光テープがやんわりと光るスイッチを触って電気を付けた。暖色の灯りが、暗闇を穏やかに照らした。
「食事が出来たら呼ぶわ」ブーツを脱いだ葉子が言った。
「仕事は後回しにもできるから、やらなくてもいい」
「行き詰まっていることは知っているわ。お気づかいは嬉しいわ。でも、何かあったら呼ぶわ」
「心配だなぁ」
「あなたは自分の仕事の心配をして」
葉子はキッチンへ行き、裕樹は広めの自室に入った。革製の椅子に座り、裕樹はノートパソコンを開けた。だが、電源は入れなかった。
やりかけの五線紙が浮かび上がる。しかし、記号化された音楽は、力を失っていた。いくら書き直しても1ミリも進めない。隣に積んだ五線紙をノートパソコンの前に広げた。
自分の作曲には、紙と鉛筆が適してる。だけども、鉛筆の痕跡は消しゴムに削られることもなく、五線紙とともに丸められていた。
裕樹の仕事は作曲だった。チャンスがあれば何でも作曲する。主に作曲するのはゲーム音楽だった。
今回手掛けているゲーム音楽のコンセプトは何度かの会議で定まり、音楽の方向性も明確に決まっていた。たった5分のテーマ音楽だ。前から温めている曲の味付けだけでいけるかとも思っていた。
だが、もう3週間、裕樹は書けていなかった。
「今日こそは」裕樹は小さなデスクに向かってつぶやいた。五線紙に柔らかい鉛筆をのせてトーン記号を記して、縦線を乱暴に引いた。
それでも、何も湧いては来なかった。今日、埼玉古墳公園へ行ったのは、フレーズの一つでも思い付くのじゃないかと言う葉子の勧めだった。だが、何のメロディも降りては来なかった。
「できたわよ」数十分たって、キッチンから声が聞こえてきた。