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ファクトとフィクション:        『ガリヴァー旅行記』訳者解題より(高山 宏)

 この拙訳が店頭に並ぶ 2021 年年頭に世界終末史の渦中にあるのは間違いなく[元]アメリカ大統領ドナルド・ジョン・トランプ氏であろう。2017 年1月20日、ほとんどの人間の予想を裏切って世界一の権力者の地位について世界中をアッと言わせたが、文化史などという何とも怪しげで頼りない分野をほとんど無手勝流で始めてしまった僕を、この一大不動産「プロジェクター」が一番驚かせた、というか感心させたのは「ファクト」という世間で一番当り前の「観念」のほぼ四百年忘れられて了っていた問題化〔プロブレマタイズ〕だった。「ファクト(fact)」と「フィクション(fiction)」が元々は同じ言葉から派生したものと知ると、何が「真」で何が「偽」か知れたものじゃないという話になる。だれがどう見ても正しいという有名メディアの報道記事をトランプ氏は自信満々、「フェイク」と言い募り、この人物の日常を伝える酷い情報を既に十分持っている我々はほぼこの人がフェイカーだと決めてかかっているので、この人物の下手な言葉遊びに今さら誰が引っ掛るもんかと誰しも笑いながら聞き流してきた。ところが……

 ところが何が「ファクト」で何が「フェイク」かを巡って近代国家の嚆矢にして頂点を極めた国家なり文化が百五十年の長きに亘〔わた〕って領域越えて七転八倒したこと、「近代」四百年の政・経・社、そして哲学、宗教、そして所謂文学までがその七転八倒の英国文化をモデルに展開されてきたことを、河岸〔かし〕のみロンドンをワシントン D.C. に変えてトランプ氏が改めてはっきりさせたことになる。

 何が言いたいか既に明白だろう。「ファクト」なる語がいつ英語に登場したかである。こういう場合、英語の単語ないし「観念」(のとりわけ起源ないし語源)については『オックスフォード大英語辞典(OED)』を必ず参照すること(というか各定義を熟読すること)。すると或る語が或る意味でいつ登場し、いつ頃その意味で一番よく使われたかが誰のどの文章かを豊富な用例として引きつつ明らかにしてもらえる。すると、ラテン語で「つくる」を意味する動詞の過去分詞形 “factum” の語尾を落とした「つくられた(もの)」に我々の言う「事実」、多くの人が共通して確かなこと、確実なものとして認識する対象という限定的な意味で初めて登場する(初出する)のが1632 年だとわかる。予想通りで、却ってびっくりする。我々が今日言う情報という意味の「データ(data)」についても同様に、それが「与えられた(もの)」というラテン語の過去分詞 datum の語尾がとれた形に、まさしく正確な情報という限定的な現代的意味が付与されるのが今度は1647年と知れる。これも予想通りで、歴史が構造的必然の連鎖からできていると理解しようとしている態度は基本的に間違っていないとわかって、嬉しくなる。極言すれば、デフォーやスウィフトがこだわり抜く(ふりをする)真「実」とか「実」話とか言う場合の “real” そのものが、英語初出 1601 年なのだ。初歩的な西洋史学、英国史ですら、その頃、いかにカトリック文化が政・経の中心をプロテスタント(というかピューリタン)にゆだねていく、ないし奪われていくかということは教えてくれるだろう。英国(というか厳密に言えばイングランド)では 1642 年から 49 年にかけて大内戦、清教徒革命が生じて、スコットランド王がイングランド王を兼ねるスチュアート朝の当時の王だったチャールズ一世が市民勢力に打破され、王の市民による弑逆〔しいぎゃく〕というか処刑が断行され、王党派カトリック勢力の駆逐とプロテスタント議会派の席捲〔せっけん〕という政治力学の大逆転が生じた。宗教地図の塗り替えと厳密に結びついたこの政・経地図の大塗り替えは世紀が十七世紀に変った頃から表沙汰になり、この清教徒革命、王のフランス亡命、名誉革命を経て、アン女王の治世下のオーガスタン・エージを経て十八世紀半ばにはひと区切りついている。要するにピューリタンがイングランド、つまりロンドンを中心とする地域を政治的にも文化的にも制圧し、スコットランドを併合し、スウィフトの愛するアイルランドにも力を及ぼそうとし始めていた時期に当る。この百五十年に亘〔わた〕る大変革時代の後半期がデフォーやスウィフトの生きた時代に当る。ひとつの価値体系が全く逆な別個の価値体系に変る。スウィフトは聖職者だからそうそう簡単に変節するわけにはいかないが、商人だったデフォーなどは職業柄、いろいろな所に出歩く必要もあり、政府のスパイ役も果たしたが、ホイッグ党政権下ではホイッグ党のスパイとして、トーリー党の支配下ではトーリー党のスパイとして働いている。同時代文業の大立者たるドライデンなど「変節の王」とまで呼ばれたが、さまざまな価値観が時代の中心をめざして競合する(ジョイスの言葉遊びを借りて言うなら)混沌〔カオス〕が秩序〔コスモス〕化した宇宙 chaosmos 〔カオスモス〕の渦中にあって、時流を見るに敏〔びん〕な人間でだれが変節しないでいられようか。島めぐり主題にそういう時代の価値観の互いに相対的でしかない併立競合を次々と取り上げる混沌時局の一大百科〔アナトミー〕を繰り展〔ひろ〕げながら、最終的にフウイヌム主義、というか「理性」主義一辺倒に偏向しつつ、挙句、猥雑な身体性とのバランスあるが故にやっていけるヒトとしての常識の世界を逸脱して恍惚の人〔ひと〕の自閉と狂死に至るリュミエル・ガリヴァー(そしてつまりはやはり作者ジョナサン・スウィフトその人)が負った、近代が近代たるため不可避な負の遺産を我々はここでやっぱり重く受けとめるしかない。重い話ばかりでは悪いから、『ガリヴァー旅行記』の諧謔〔フモール〕趣味に少しは染り、その止めどない言葉遊び癖を少しは真似てひとつふたつ冗句〔ジョーク〕を言って、この節を締める。ひとつはガリヴァー/スウィフトが最終的にうまうまと手にしたらしい “horse sense” のことである。「馬」の「理性」とはまさしく馬族フウイヌムの理性愛のことかと思いきや、辞書的には「日常的常識、俗な知恵、俗識」のこと。むしろ俗物ヤフーの特性なんだね、これは、と。ううむ、うまい意味〔ホース・センス〕。

文書名 _[5-84]第一部_ページ_2

……火は三分もせぬうち、文字通り水に囲繞〔いにょう〕、いや囲尿されてしまった。(第一部、ガリヴァーが機転を利かして小便で火事を消す場面)


 もっと根本的なギャグは今も掲げた偽装作者リュミエル・ガリヴァーの名。ガリヴァー(Gulliver)に類音で「ガリブル(gullible)」を重ね聞きするのはむしろ研究者の間ではイロハのイ。だまされやすい、という意味。架空の人物の名にむしろいろいろな「うまい意味」を隠すのは大昔から寓意物語〔アレゴリー〕という書法の特徴だから、では「リュミエル」もそのたぐいかと思って調べると、ヘブライ語源で「神に夢中な」という意味だから、ひとつことに没入する文字通りの “enthusiast”(「入神〔エン・テュオス〕」の人間。神がおりてきた者)を時代の一大流行語とした清教徒革命〜オーガスタン・エージの御時世やら、熱狂してだまされるというその御時世独特の気風・警戒心やら思わせる、考えるほどに巧い意味合いがある。区々〔いちいち〕のキーワードにこうした時代背景を負った馬感覚な遊びを感じながらの個人完訳になったように思うが、如何。ウマい神訳と言ってもらいたいがヒンの悪い越権訳と譏〔そし〕る人がいても別に構わない。頭の下るような名訳が幾つも次々出揃う中に、そのたれよりも遅いくせに我は「速い〔スウィフト〕」と思いあがった入神訳者の一人や二人、いて良い相手ではないか、この作者たるや。

※高山宏訳『ガリヴァー旅行記』は研究社より「英国十八世紀文学叢書」の一巻として刊行されています。
※〔 〕はルビを示しています。

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