み ん な (秦 邦生)
――あなたは「みんな」の一人なのか?
「みんなのうた」の時代〔ころ〕
「タイム・トラベルは楽し/メトロポリタン・ミュージアム……」。表題の「みんな」という言葉を聞いて、筆者の頭のなかに軽快なメロディとともに自動再生されるのは、大貫妙子作詞作曲の童謡「メトロポリタン美術館」の、この一節である。「NHKみんなのうた」ウェブサイトの情報によれば初回の放送月は 1984 年の 4 月から 5 月にかけて。20 年以上前なのに鮮明に覚えているということは、当時小学校低学年だった筆者の心にかなり強烈な印象を残したのだろう。そのころ子どもだった世代限定なのかもしれないが、この歌を記憶しているのは筆者に限らないようで、「みんなのうた」に今でも数多くのリクエストが寄せられる定番ソングのひとつだという。[注1]
3 分にも満たないこの短い歌とクレイ・アニメの映像が展開する世界観はなんとも奇妙なものだ。夜のメトロポリタン美術館のなかに、バイオリン・ケースを鞄代わりにかかえた赤い帽子の女の子がひとり眠っている。すると、大理石の台の上の天使の像が女の子に話しかけてきたり、古代エジプトの展示室ではファラオのミイラが動き出して一緒に踊りだしたり……歌の最後には女の子が「大好きな絵」のなかに閉じ込められる、という謎めいたバッド・エンディングのおまけまでついている。夜の博物館という魅力的な舞台設定、天使像やミイラとダンスする幻想的な物語、クレイ・アニメーションのやわらかな質感もあいまって、不気味な結末はかなり中和されている気もするが、一部では子ども心に強い恐怖感を与えたトラウマ・ソングという悪評もあるようだ。この歌が記憶されているのは、楽しげなメロディによって聴く者を「タイム・トラベル」へと誘い、魔法にかけられたかのような甘美な子ども時代の記憶を喚起する強い力を持っているからでもあるのでは、と筆者には思えるのだが。
1961 年 4 月からスタートし、2011 年には 50 周年を迎えた「みんなのうた」は、子どもも大人も、多くの者たち――まさに「みんな」――が知る番組だろう。この番組は長い歴史のなかで、国内外の童謡に映像をつけパッケージ化するという当初の路線から、徐々にオリジナル楽曲を打ち出す方向へと展開してきた。1998 年から 8 年間プロデューサーを務めた川崎龍彦の著書『「みんなのうた」が生まれるとき』には、その楽曲の製作過程を考える上で、いくつか興味深い観察が含まれている。児童向け番組ということで、外部からの持ち込み企画には「子ども目線」を意識したものが多いが、子どもへの媚びがまとわりついた企画はたいていうまくいかない。他方、大人たちが夢中になって参加した製作過程からはいい作品が生まれやすい。第三の観察は、やや意外なことに、「子どもを怖がらせる作品」がむしろ傑作になる、というものだ。「実は、『みんなのうた』で最も人気があるのは、存在の不思議や、深遠を描いた作品だ」(川崎 118)という。
冒頭で紹介した「メトロポリタン美術館」の魅力の秘密はまさしくそこにあるのだろう。おそらく、謎めいたバッド・エンディングがあるからこそ、それが巧みに暗示する「存在の不思議」が長いあいだ心に残り続けるのだ。唐突だが、ほぼ同様のことが「みんな」という言葉を考えるときにも言えるのではないか。「みんな」を生み出すためには、媚びてはダメ。むしろ、自然に楽しむことが大事。そして、「存在の不思議」の経験を共有すること。
「みんな」とは誰か
いったん「うた」を離れて考えてみよう。児童番組のタイトルになるくらいに、「みんな」という言葉には子供じみた響きがある。『日本国語辞典』(第二版)によれば「みんな」は「皆」のくだけた表現、「残らず。すべて。そっくり全部」という定義が与えられている。標準的な和英辞典にはall, everyone, everybody が訳語として載っているが、このなかには「みんな」の語感にしっくりくるものはない気がする。そもそもいったい誰が「みんな」に含まれるのか、含まれないのかは、決して自明ではない。例えば、幼稚園の初日のクラスで先生から「みんな」と呼び掛けられるとき、そこにはじめて、てんでばらばらの家庭からやって来た私たちのなかに「みんな」としての集団意識が育まれる。このような(擬似)記憶が、この言葉にただようイノセンスを暗示しているとすれば、子どもたちの集団行動を促す「呼びかけ」としての用法は、この言葉のもうひとつの面、つまり、やや政治くさい面を示唆しているようだ。
イギリスの言語学者 J・L・オースティンの用語で言えば、「みんな」という言葉は、発言の効果そのものによって「呼びかけ」の対象を創出する、「行為遂行的〔パフォーマティヴ〕」な側面を持っている(通常「行為遂行的〔パフォーマティヴ〕」な発話とは、牧師が発話によってカップルの結婚を認めたり、あるいは、船長が船舶を命名したりするときのように、言葉を用いた行為が「効果」を生み出す場合のことを言う)。この実例を挙げれば、2009年の夏に自民党を離党した国会議員数名が結成した「みんなの党」の英語名称は “Your Party” である。[注2」 このネーミング・センスは必ずしも悪くない。なにしろ、「みんな」の創設の瞬間に隠れた、「あなた」への呼びかけという契機をみずから明示(暴露?)しているのだから。ただし、政党名にわざわざこのくだけた表現を用いる選択には、有権者への「媚び」も感じられるかもしれない。一個の社会人として生きる「私」にとって、「みんな」と呼びかけられるのは、子どもあつかいされているような多少の居心地の悪さがある。
いや、そこに「媚び」を感じてしまう、こうした私の感受性自体に問題があるのだろうか。なぜ「みんな」という呼びかけがもっぱら子ども時代の記憶と結びつき、大人の通常の社会経験には縁遠く感じられてしまうのか。なぜ大人たちは、「みんな」に素直に楽しんで参加できないのだろう?
「タイム・トラベルは楽し」
この抵抗感を解きほぐすために、ここで少しだけ「タイム・トラベル」をしてみよう。「みんな」が自明でない社会はいつごろ、どうやって出現したのか。「全世界のプロレタリアよ、団結せよ!」(『マルクス・コレクションⅡ』391)――この高らかな呼びかけで終わる大胆な宣言・声明文〔マニフェスト〕をマルクスとエンゲルスが世に問うたのは、1948 年、イギリスの首都ロンドンでのことだった。なぜ新たな団結が求められるのかと言えば、かつてあった集団的関係が雲散霧消してしまったからだ。近代という時代において、新たに台頭した資本主義が導入する市場経済は、あらゆる既存の関係性を侵食し、崩壊させる。宗教的、封建的、家父長的、田園的……支配を正当化していた過去の価値観はすべて貨幣価値へと置き換えられて否定され、あとには「ヴェール」をはぎ取られた、むき出しの搾取の姿だけが残される。マルクスたちが「全世界のプロレタリア」に呼び掛けたのは、ひたすら古い関係性を解体する近代の諸力への抵抗を組織しうる、新しい「みんな」を立ち上げるためだった。「マニフェスト」という言説ジャンルはまさにこの目的に奉仕するものだったのである。
だが、これがマニフェストの究極的な使命であったとするなら、近代の歴史はその絶えざる挫折と失敗によって彩られてきたようだ。いっぽうでは 1909 年の「未来派創設宣言」以降、前衛芸術運動に奪用されたマニフェスト形式は、その後も、連鎖反応のごとく多種多様な前衛運動による宣言・声明文の乱発を招いてきた(Puchner 3)。そこでまかり通った論理は、「みんな」どころか、むしろ「私たち」と「彼ら」の人為的対立を煽り、対立構造の悪用によってみずからの勢力拡大をもくろむようなものだった(Lyon 2–3)。「呼びかけ」の試み自体が無くなることはしばらくなさそ
うだが、いまでは「マニフェスト」という言語行為そのものへの強い不信感が蔓延している。それは、2009 年から 2012 年まで続いた民主党政権への期待と強い幻滅を経た現在の日本政治の状況を参照するまでもないだろう。
他方、『共産党宣言』の著者たちが夢見た「みんな」のユートピアは、20 世紀半ばまでにはソヴィエト連邦におけるスターリニズムという悪夢へと変貌し、反ユートピア的幻想の大量生産にとってまたとない口実を提供してしまった(フレドリック・ジェイムソン『未来の考古学Ⅰ』331)。つまり、抑圧的な中央集権制を不可避とするような「みんな」というイメージである。じっさいジェイムソンは、サルトルの『弁証法的理性批判』(1960 年)の「集列性」や、ラクラウ=ムフの『ヘゲモニーと社会主義戦略』(1958 年)の「等価性」など、20 世紀後半の集団形成についての主要な政治理論はみな、スターリニズム的「党」に対する近代特有の不安に駆られており、彼らの理論的独創は、中央集権化という陥穽を避けるための努力だったと指摘している(『未来の考古学Ⅱ』18)。政党不信が常態化し、地方分権が熱い支持を集める現代日本の私たちにとって、奇異とするに足らない話かもしれない。ただし、あらゆる思想的留保や悲劇的挫折の経験にもかかわらず、なおも、別のなんらかの形の「みんな」が是非とも必要だという確信を、こうした理論家たちは固く保持し続けていたのであり、その点は今の私たちとは大きく違うように思えてしまう。
政治学者の宇野重規の表現によれば、現代の人々は「〈私〉時代のデモクラシー」を生きている。宇野の挙げる例を借りるならば、「僕が僕らしくあるために」と歌った1991 年の槙原敬之(「どんなときも」)から、同じ槙原が 2003 年に SMAP に提供した「世界に一つだけの花」に至るまで、集団との同一化をできるだけ避け、「オンリーワン」でありたいと願う気持ちは、確実に深化し、いまの世の中に広く共有されている(宇野 3)。「私らしく」生きたいと思う個人にとって、他人と同じである、あるいは、同じでしかないことはおそらく耐え難い屈辱なのだろう。だが、このような個性化の理想の裏面にあるのは、格差や貧困といった本来は社会的な問題が、究極的には受験や就職の失敗、努力や能力の欠如といった個人のごく私的な問題としてとらえ返され、矮小化されてしまう傾向である(宇野 52)。家族、地域、階級……かつて〈私〉を縛るものと思われた集団から「解放」された「オンリーワン」たちは、「私たち」としてさまざまな「社会的」問題に立ち向かう力を失ってしまった。マニフェスト的な呼びかけも、政党による組織化ももはや信じられない現代は、「みんな」という言葉の残骸が堆積した地層の上にあるのだ。
点と点をつなぐ
こういった時代経験を経た現代において台頭しているのは、拡散した〈私〉と〈私〉を、密集させることなくつなぐ「ネットワーク」への期待である。1990 年代半ばから爆発的に世界中に普及したインターネットはもはや常識の範疇に入ったが、ネットをモデルにして新しい形の「みんな」を想像/創造する試みが後を絶たない。例えば、ネグリ=ハートがやや逆説的ながら、グローバルな支配構造としての〈帝国〉と、それへの抵抗勢力としての〈マルチチュード〉の共通の特徴として指摘するのが、ネットワーク状の分散型の構造である(いまだにそれを「構造」と呼べるとしての話だが)。ポストフォーディズムの拡大と呼応して、〈マルチチュード〉による「ネットワーク型の闘争」が急浮上している、と彼らは主張する(Hardt and Negri Multitude 83)。2011 年初頭のエジプト革命においてソーシャル・メディアが果たした役割についてのニュースを覚えている者ならば、それがどんな闘争になりうるのか想像できるかもしれない。ただ、フランク・ウェブスターが指摘するように、「ネットワーク」という言葉には従来、資産家集団や学閥など、その特権や排他性に対する否定的な含意があったのであり(『新キーワード辞典』363)、こうした伝統的な疑念を完全に忘れ去るのは、やや時期尚早ではないのか。
いっぽう、現代日本の思想家東浩紀は、2011 年の『一般意志 2.0』において「集合的無意識」の可視化による新たな民主主義のヴィジョンを提起しているが、その興味深い構想の基盤を提供しているのも、やはり「ネットワーク」だった。たとえある個人が、「狭く薄暗い自室に閉じ籠もったまま」であっても、インターネットさえあれば、彼は数十億人とのコミュニケーションの世界へと開かれている、と東はいう(246)。このヴィジョンを薔薇色の未来として共有できるようになるためには、どうやらこれまで持っていた「世界」についてのイメージを、根本的に改変する努力を払わねばならないようだ。
イギリスの作家カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』(2005 年)は、ヘールシャムという謎めいた寄宿学校で幼年期をともに過ごした友人たちの物語である。ネタバレにならない程度に説明すれば、成長後に各々の道を歩む彼らは、幼年期の記憶を共有する仲間たちのネットワークをただ一つの拠り所として自らの運命を甘受する。小説自体のタイトルにもなっている「わたしを離さないで」という歌謡曲がこの物語のモティーフをよく表しているが、2010 年に公開された映画版の序盤には、原作にはないもうひとつの「うた」が挿入されている。それは、ヘールシャムの講堂で子ども時代の主人公たちがはじめて映し出される場面で歌われているのだが、英国パブリック・スクールの校歌の以下の一節を少し変えたものである。
Forty years on, when
afar and asunder
Parted are those
who are singing today
When we look back
and forgetfully wonder
What we were like
in our work and play
40 年ののちに 私たちが
遠く散りぢりになるころには
今日歌う者たちは
バラバラになっている
私たちは昔を振り返って
思い出せずにいぶかしむ
学び遊んだあのころに
自分たちがどんなだったろうかと〈注3〉
たとえ別々の道を歩んでも、ともに過ごした過去の記憶が友人たちを結びつける……このようないっけん無垢な歌詞の裏には、やがて(身体そのものすらも)ばらばらに引き裂かれ寸断される([torn] asunder)、宿命というにもあまりに過酷な彼らの生が痛切に暗示されている。友人たちの絆は、互いを強固に、ほとんど排他的なまでに結びつけこそすれ、運命へのありうべき抵抗を組織することはついにない。この物語のなかの「ネットワーク」が、最近の私たちが期待するように自然発生的に拡大し、新たな「みんな」を創造することはないのだ。彼らの運命と、私たち自身の運命がどれ
ほど違うものでありうるのかは、冷静に考えたほうがいいだろう。
しかし、「オンリーワン」であることと、「みんな」であることは、本当に並び立たないのだろうか。〈存在〉の謎と律動に巻き込まれるとき、〈私〉自身の無意識の奥底に眠っていた固有の情動が、未知の「みんな」へと私たちを導きはしないか。この空想はあまりにユートピア主義的かもしれないが、ここで冒頭に触れた「メトロポリタン美術館」をもう一度思い出しておこう。「タイム・トラベルは楽し/メトロポリタン・ミュージアム/赤い靴下でよければ/かたっぽ、あげる」。動き出した天使像は、赤い帽子の女の子に美術館内の寒さを訴え、「服を貸して」とねだる。なんとも不気味な展開だが、そこで女の子が取ったのがこの行動である。片一方ずつの靴下を共有するという意表をつくユーモラスな決断には、お堅い言葉で語り直せばすぐに陳腐になってしまうだろうが、なおも一つの真理が宿ってはいないか。子供時代のような自然な愉悦感のなかでだけ体得できる何か―「みんなのうた」から再出発すべき理由としては、十分かもしれない。
[注1]「NHKみんなのうた 50 anniversary」のウェブサイトを参照。オリジナルのビデオクリップの一部とともに曲を視聴することもできる。
[注2]ちなみにこの党名の由来は、サザン・オールスターズの名曲「みんなのうた」だという。このページの記述を参照。
[注3]英国パブリック・スクール、ハロー校の校歌 “Forty Years On” (1872)より。作詞作曲はEdward Ernest Bowen, John Farmer. 『わたしを離さないで』においては冒頭の一行が “When we are scattered” と変更され、「バラバラ」感がさらに強められている。
参 考 文 献 (リンク先をご覧ください)
〈著者紹介〉
秦 邦生(しん くにお)
東京大学大学院総合文化研究科准教授。
専門はイギリス文学、批評理論。
編著に『イギリス文学と映画』(三修社)、『終わらないフェミニズム――「働く」女たちの言葉と欲望』(研究社)、『〈終わり〉への溯行――ポストコロニアリズムの歴史と使命』(英宝社)、『愛と戦いのイギリス文化史 1951–2010 年』(慶應義塾大学出版会)など。
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