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無名から最高峰へ

東京都の高校に進学した。
同じ学年には女優の安達祐実がいた。
 
部活は野球部に所属しピッチャーをしていたが、
最高成績は東京都大会ベスト4。
甲子園出場の夢は叶わなかった。
 
また、彼自身の実力も人並みといったところ。
目立つ存在ではなく、無名の選手だったため、プロのスカウトが訪れるということもなかった。
 
しかし、ドラフト会議当日になり
大阪近鉄バファローズのスカウトが彼の獲得を進言。
 
ドラフト下位指名ながらプロ入りすることになった。
 
スカウトが獲得を進言した理由は主に2つ。
・190cmを超える長身だったこと
・投球フォームが柔らかくキレイだったこと
 
 
 
プロ入り当初は、
練習についていくのがやっとだったが、
それを乗り越え、2年目には一軍登板のチャンスを得るまでに急成長。
日本シリーズ第2戦で先発投手に指名されるまでになった。
 
4年目にはチームのエースに成長。
チーム最多の15勝をマーク。
 
 
5年目には初の開幕投手に抜擢され、
開幕12連勝を飾った。
最終的には15勝を挙げ最多勝を獲得。
下位に低迷するチームのなかで一人気を吐いた。
 
また、この年はアテネ五輪に出場し銅メダルを獲得。オールスターファン投票では先発投手部門トップの得票数で選出。シーズン終了後の日米野球にも招集され、大きく飛躍した一年になった。
 
 
翌年からは楽天イーグルスでプレー。
 
 
6〜8年目は肩や肘の不調に悩まされたが、
フォーム改造や手術を経て復活。
 
 
9年目は開幕から圧倒的かつ安定したパフォーマンスを披露。
勝ち星を量産し続け、21勝を記録。
チーム全体の勝ち星(65勝)のうち約3分の1を彼一人で稼いだ。

最多勝・最優秀防御率・最高勝率投手三冠に加え、沢村賞ベストナインを獲得。
そして、下位チームの選手としては異例となる
「リーグMVP」に選出された。
 
 
13年目からは活躍の場をメジャーに移し、
そこでも主力として活躍。
 
16年目にはアジア人選手史上2人目となる
「ノーヒットノーラン」を達成した。
 
 
 

無名の高校球児は着実に階段を登り続け、
世界最高峰のピッチャーに成長した。
 
 

 
 
彼の名前は、

 
 
 
 
 
岩隈久志

以上、「無名から最高峰へ」でした。

※この記事は彼の半生の極一部を抜粋して書いたものです。

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