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『肩の上のじいさん』

                
 
六月半ばのある朝、月曜七時半。
眠気を吹き飛ばそうと、洗面台で顔をジャブっと洗う。上を向いた瞬間、鏡の中の俺の右肩あたりで何かがモニョリ、と動いたような気がした。
赤と白の、しましま?
何かいけない物を見てしまったような、イヤな予感がして眼鏡をかける。鏡の中にはボサボサ頭の俺。九百九十円で買った白Tシャツの右肩に、ちょこんと乗っているのは、小さい、じいさん。
じいさんっ?
推定身長十三センチ、年齢は……よくわからん。七十は優に超えてる? 南の島に来たサンタみたいな、紅白のつなぎの水着に、絵本からのっそりと出て来たようなシンプルな目鼻立ち。白い髭をたくわえ浮き輪をつけたまま、おいっちにーさんし、と体操をしている。
これから海にでも入るのか?
冷静に見つめている自分に、ハッとする。
いやいやいや、ないないないない。
もう一度顔を洗い、目をつぶったまま右肩を触る。手応え、なし。
だよなぁ。
ゆっくりと目を開け、右肩の上を見る。
うん、何もいない。
良かった……っていうか、そんな奇妙なことが起こるはずないし。タオルで顔を拭いて、
眼鏡をかけた。
うっわ! いる! 鏡の中、いるっ! 
ぎゃあ。
大声をあげたつもりが、声になっていなかった。
これは幻覚……なのか?
鏡と右肩にせわしなく目線を動かし、俺、ちゃんと起きてるよな、夢じゃあないよな、あと十分で家出ないと会社遅刻だよな、といつもの三倍は思考を巡らせる。暑くないのにじっとりと汗をかき始めた。そんな俺に全くお構い無しに、じいさんは涼しい顔をして、突き出た腹を震わせながら、右手を上げて脇腹を伸ばしている。
「おい、お前っ! いつからそこにいる?」
ようやく出た声で鏡の中のそいつに訴えても、なんの反応もない。鏡を見ながら触ろうとしても、体操しているふうを装ってするりと逃げる。やっぱり俺、まだ夢ん中にいるんじゃないか? もしくはそうとう疲れているか。休んで寝てたほうがいいのかも。
いや。今日はイラストレーターと、吊り広告の打ち合わせだ。
ええい、もういい!
俺は鏡を見ずにワイシャツを着て、ネクタイをカバンに詰め込み家を出た。長野の大学を出て、一人暮らしを始めて三年になる。東京の小さな広告代理店に就職したけれど、後輩はまだ入ってこない。未だに下っ端だ。そういえば入社したての頃、
「ミスをしても、自分でなんとかできるようになったら一人前」
そう先輩に言われたな。じゃあ今の俺って? 半人前? いやいや、七割人前くらいにはなっていると信じたい。でもさ、本当の一人前ってのは、一体どういうことなんだろ。こういう、俺としてはかなり真面目なんだけど、ふざけているようにしか聞こえない疑問って、誰に相談したらいいのやら。
満員電車に揺られて二十分。自分の姿が映るガラス窓や駅の鏡には一切目をやらず会社に到着。タイムカードを押して一番にトイレに直行した。そして思い切り目を開いて鏡を見た。
ああ……。
残念ながら、やはり水着姿のじいさんは俺の右肩の上にいた。見間違えでもなかったし、満員電車の中で落っこちてくれてもいなかった、俺は仕事脳に切り替えるため、もう考えるのをやめた。そしていつも通り、週明け一番の大仕事、メールの返信に没頭した。
「おい春日、なんかあった? 顔が変だぞ」
唯一の同期、八頭が俺の顔をのぞき込む。八頭は、コピーライターとしての才はあるが、コミュニケーションには難がある。
「いや、特に何も。いたって順調だけど」
 パソコンの画面を見たまま答える。
「そうか? ならいいけど。でもさ、そのじいさんが……」
「な、なに? なんの話?」
 ギョッとして、八頭の顔を見る。
「言っただろ、俺んとこのじいさんが、退院の日に階段でコケたって」
 ええい、紛らわしい!
「お前んとこのじいさんなんて、俺知らないし。話が唐突すぎ」
 無視しようとしたけれど、八頭は両手で俺の顔の向きをグイッと変えた。
「春日、眉間のしわ、今日は三本多いぞ」
 人差し指を、俺のおでこにビシッと当てる。
「いいから、ほっといて」
俺は八頭の指を払って、パソコンに集中した。でも、朝一番に無駄に絡んでくるヤツではないから、ドキリとした。
午後イチの打ち合わせは思ったより長引いた。杉並の住宅街にある、イラストレーターの事務所兼自宅を出たのは三時ごろ。直帰しますと連絡をして駅に向かう。ほどなくして、ぽつり、と手の甲に雨粒が当たった。やばい傘を持ってない、というか今日は雨の予報だっけ? そうだ、今朝はバタバタしていて天気予報を見なかった。足早に駅へと向かう。が、ぽつりは一分も経たずボツリになって、ザーッを飛び越え、
どーーっ。
雨音に体が包まれた。なんだこの降り方は! ゲリラ豪雨? カバンを上着の内側に挟み、雨を避けられるところを探すが全く見当たらない。タバコ屋の小さな軒先なんて、なんの役にも立たない。ようやく車道に出ると、二車線の両脇はすでに川のような流れができていて、どんどん水かさが増して行く。いやまずい、これって、もしかしてあっという間に水位が上がって車が立ち往生するとか、ニュースで見るようなあのパターンなのか? 
早く駅に着かないと! 
ずぶ濡れの靴で思い切り走る。自動販売機の角を、駅の方へ曲がろうとした時、俺の前に黄色い傘が飛び出して来た!
うっわ!
俺は川のような流れに頭からダイブした。黄色い傘が、心配そうに俺をのぞき込んだ。

それはそれはひどい姿で、ようやく俺は家に着いた。全身水浸しで電車に乗ったのは初めてだ。滴るほど雨の染み込んだスーツは重く、快適なはずのクーラーはまさに地獄で、拷問かよと、思わず口から漏れそうだった。とにかく風呂場へ駆け込み、熱いシャワーを浴びる。
はあ。生き返った。
水の滴たるスーツもシャツもとりあえず風呂場に放置。髪を乾かそうと俺はドライヤーを手をかけた。そしてその瞬間はっと思い出した。そうだ、いたのだった。俺の肩の上には。
 眼鏡をして恐る恐る鏡を見ると、右肩の上で奴はビーチチェアに腰掛け、果物の刺さったドリンクなんぞを飲んでいた。
はあっ? なんだよこのリラックス感は? こっちはこの雨でボロボロだってのに。バカンスかよ! まるでひと泳ぎしてくつろいでいるみたいな……。
ひと泳ぎして?
俺は風呂場でぐったりしているずぶ濡れのスーツに目をやった。じいさん。お前、まさか今日の俺の運命を知っていた?

その日から、じいさんは俺の右肩に在住していた。左肩に移ることはなく、なぜかいつも右肩の上。重くもないし、他人には全く……鏡に映った姿さえ見えないことも分かった。じいさんはけっこうお洒落だ。普段は小さな襟の白シャツに蝶ネクタイ、俺の肩に腰掛けて本を読んでいたり、うとうとしていたり、快適に過ごしている。じいさんが通常モードであれば、寝る前歯を磨くまで思い出さない日もあった。ひと月たったころ、俺はじいさんの存在が、ほとんど気にならなくなり、誰かに話そうという気もおこらなかった。
しかし、だ。ごく稀に、妙な動きやいつもと全く違う服を着ている日、突飛なことをしているときは要注意だということがわかってきた。俺は毎朝、注意深くじいさんの様子を観察するために、早く起きるようになった。そしてある日、確信した。やはりこいつは、俺に起こることを予知しているのだと。
それを決定付けたのは、今年の最高気温を記録した、八月上旬のある日。
その日の朝、じいさんはこの暑さの中、クリーム色のトレンチコートを着て、きっちり上までボタンを閉め、黒い傘をさしていた。正確には傘をさしてステップを踏んでいた。
怪しすぎる。絶対にこれは何かある。
注意深く動きを観察した。鏡台の鏡だけでなく、手鏡でもじいさんを写してよーく見た。右手に傘を持ち、楽しげに左手を振るじいさん。俺はどこかでこんなシーンに見たことがあると思った。必死に考えて、わかった! 
『雨に唄えば』
あの、古い映画のオープニングに似ているのだ。間違いない。するってえと、今日も雨が降るのか? あの日みたいに? でも今朝の予報では、雨の確率ゼロパーセントだ。どうしてもじいさんの持っている傘が気になって、もう一度しっかりと見た。傘だ、傘に違和感がある。俺は穴があくほど傘を見つめて、ふと何かが降りてくるように気づいた。
これ、雨傘でなくて日傘だ! よく見ると、細いレースのような縁取りがある! でもなんで日傘?
わけはわからなかったが、これは絶対に無視してはならない案件だということだけは悟った。昼休みにくそ暑い中、駅の近くまで行って、三千円でグレーの折りたたみ日傘を買った。ただその日の仕事はデスクワークと、二駅先の事務所に届け物をするしか予定がなく、日傘の出番があるとは思えなかった。
だがやはり、きた。
朝は普通に仕事をしていた八頭が、急な腹痛で病院へ運ばれた。代理で俺がデータ入りUSBを、埼玉まで取りに行くことになったのだ。メールでやりとりするには容量が重く、先方は年配で、クラウド上でのやりとりができないと泣きついてきたらしい。お前今日中に行ってこい、と先輩からのお達しだった。実はその二つ上の先輩には借りがあって、俺は「バイク便使えばいいのに」という言葉を飲み込んだ。
しかもまた、その会社はびっくりするほどのド田舎で、最短ルートは最寄駅からバスを乗り継ぐ。一つ目のバスを降り、少し歩いて次のバス停に向かった。が、二つ目のバス停の場所がわかりにくくて、俺は道に迷った。
やばい。
ミーンミーンとセミの大合唱が、焦りを増幅させる。汗だくで、ようやく二つ目のバス停に着き、少し錆びた時刻表を確認する。一時間にバスは三本で次のバスは、ええと一五分後。良かった、約束の時間に間に合う。
これでもかというくらいに、真っ直ぐに刺さってくる日差し。しかも日除けになる物が何もない。タクシーを使ってしまおうかと一瞬思ったが……全く通らない。道を挟んだ向かい側の、広い敷地に木材が積んであるのをぼうっと眺めていたら、一瞬意識が飛びそうになった。視界に、腰の曲がった小さなおばあさんが、体のほとんどを日傘に埋めて歩いているのが見えた。
あ。
俺は慌ててカバンを開けた。そしておもむろに鞄からそいつを出すと、ホームラン宣言の打者のように、太陽にむけて構え、開いた。
ビバ、日傘。
事務所に帰ると先輩には珍しく労われ、八頭からは今度、鰻をおごるから、と感謝のメールが届いた。自宅に帰ると、鏡に映ったじいさんはもうパジャマに着替えて、肩に腰掛けて本を読んでいた。俺は鏡の中のじいさんに言った。
「今日は助かった。日傘がなければ、熱中症になりかねなかった」

秋になり、適切な表現なのかわからないが、右肩のじいさんは、もはや相棒のような存在となっていた。言葉を交わすこともないし、目すら合わないけれど。じいさんはいつもご機嫌で、朝の体操しているのを見ると、ああ今日も一日が始まるんだな、と清々しい気持ちになった。気圧の変化に弱い俺は、起きる時にかなり辛い時があって、そんな朝は、じいさんの、のほほんとした顔を見るとなんだか気がまぎれた。以前は始業時間ギリギリに出社していた俺が、じっくりじいさんを観察するため早起きになり、電車がどれだけ遅延しても、余裕で会社に着くようになっていた。しかも弁当まで作るようになり、月末に金に困ることが無くなった。
そんな十月の朝。じいさんは俺の肩に座り、ご満悦でマグカップを持っていた。何を飲んでいるのか気になり、観察用に新しく買った手鏡を使ってカップの中までよく見た。琥珀色、どうやらコーヒーのようだ。じいさんは湯気を吸う仕草をし、目をつぶって一口飲むと、それはそれは満足そうな顔をした。
うまそうだな。
猛烈にコーヒーを飲みたくなったので、今日はどこか喫茶店にでも行こうと決めた。
昼前に、ミーティングを済ませた後、早い昼食をとることにした。世田谷線上町の近くにあるこのA社は、今年から俺が任されている大手のクライアントだ。ドライビングスクールを営む会社で、ポスターを全てうちの事務所に任せてくれている。月一度のミーティングに来るけれど、それほど周辺の店には詳しいわけではない。それでも、この界隈で美味いコーヒーが飲めそうな店をイメージすると、一つだけ頭に浮かんだ。
小さな公園のはす向かいに、その店はある。年季の入った、重たい木のドアを開けると、
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から、マスターと思しき男性が俺を見た。
「お好きな席にどうぞ」
店には客が誰もいない。でも廃れている感じは全くなく、モーニングの客が帰ってちょうどランチまでの間なのだな、と感じた。窓際のテーブルに座る。公園で小さな噴水で遊ぶ小さな子どもたちが見え、笑い声が小さく聞こえる。少し暗めの店内には、コーヒーと、かすかにバターの香り。どっしりとしたガラスのコップに注がれた水を飲むとほんのりレモンの香りがする。
メニューを開くと、数種類のコーヒー、紅茶。食べ物は、ピザトースト、ナポリタン、サンドイッチ。色あせた写真が貼ってある。
よし、ピザトーストにしよう。視線を上げると、
「お決まりですか?」
深いグリーンのエプロンをした、若い女性が立っていた。ショートカットで、細いヘアピンを耳の上に留めている。化粧っ気のない肌。目元には泣きぼくろがひとつ。
「あの、おすすめは」
ピザトースト、と言うつもりが、自分の口からは、なぜか違う言葉が出た。
「えーと、お腹がぺこぺこならカレーがおすすめです。野菜がゴロゴロ入ってます。大盛りは五十円増し。ほどほどなら、ナポリタンかピザトーストが人気ですよ。ナポリタンは手作りのトマトソースで仕上げているのでさっぱりしてて。ピザトーストはチーズを三種類も使っている特製です」
よく通る声に、俺は聞き入ってしまった。
「じゃあ、両方で」
「へっ? 両方? ナポリタンとピザ?」
彼女の目が丸くなった。え? じゃなくて、へっ? というリアクションに、ちょっと吹きそうになった。具沢山なナポリタンを食べている最中に、熱々のピザトーストがきた。   
うん、美味い。でもさすがに食べ過ぎか。
「これ、おまけです」
二杯目のコーヒーが机に置かれた。
俺は基本的に自炊するし、最近は弁当持参だし、それほど馴染みの店があるわけではない。だからこの喫茶店は俺にとって、初めてできた居心地の良い場所だった。マスターのコーヒーは酸味が少なくて、温めたミルクを添えて出てくる。何回か通ううち、バイトの彼女の名前が美沙であることや、知る人ぞ知る、有名な劇団のメンバーだということもわかってきた。主な情報源はマスター。バツイチで再婚したばかりの四十五歳。基本的におしゃべりだが、俺が放っておいて欲しい時には、絶対に声をかけてこない不思議な人だ。新しい年を迎え、店に通うペースが月一度から二度になり、桜が散って。俺はその喫茶店に、休日にも足を運ぶようになっていた。

彼女に俺の下の名前が慎司であることも覚えられ、長そでシャツでは汗ばむようになった五月。今日はA社に顔を出す日だ。鼻歌でも歌いたくなるような朝、じいさんの様子がいつもとは明らかに違っていた。服装はいつもと同じだが、何やら妙な動きをしている。
そわそわ、もじもじ……
恥ずかしそうな、嬉しそうな表情。もっとも、「てん」のようなじいさんの目は、表情を読み取るには少々難しいのだが。しかもやつは手に小さな花束を持っていた。小さいじいさんが持っている花は更にミニサイズで、なんの花だかわからない。俺は、昔プラモデルを作っていたときの虫眼鏡を道具箱から取り出し、鏡に映った花をじっくり観察した。全体が明るいオレンジ色で、菊みたいに花びらがいっぱいついている。
花の名前 菊に似ている オレンジ
検索すると、キク科の花、という一覧があり、写真画面をスクロールする。
キク科だけでもこんなに花があるのか?
ちょとうんざりしつつ、でも名前が知りたくてどんどん写真に目を走らせていると、あった! ガーベラ。ここで家を出た。電車の中で、じいさんがなぜガーベラを持っていたのか、やはり気になる。何かヒントはないものか。そう言えば、花には花言葉っていうのがあったよな。ガーベラの花言葉は、ええと、
前進?  
すぐ近くにいる女子高生が俺の顔を見て、怪訝そうな顔をした。俺は、自分の心の声が漏れていたことに気づいた。

ぐうとなる腹を、ミーティング中に何度か手で抑えた。ようやく終わり、急ぎ足で喫茶店に向かう。途中で小さな花屋の前を通った。
そうだ、ガーベラ。
じいさんが花を持っていた理由はやっぱりわからない。今までの経験上花を持って喫茶店に行くしかない。
ええい、深く考えるな。俺は花屋へ飛び込んだ。

ラストオーダーの二時にギリギリセーフで駆け込み、カレーを頼んだ。腹が減っているときはカレーに限る。さっと出てくるのがいい。それにしても、今日はなんだか飯の量が多い。
「お水、注ぎますね」
コップを手に取った彼女と目が合う。
「あの、今日のカレー、なんか飯の量が多い気がするんですけど」
汗を拭きながらたずねる。
「実はランチ用のライスが余りそうで、勝手にサービスしちゃいました。ルーも多めに。春日さん、常連さんですから」
常連さん。生まれて初めて言われる言葉だ。
「ありがとう、ございます」
顔が熱くなりそうで、腹がいっぱいなのに水をガブガブ飲んだ。
さて、帰るとするか。でも、どうしたらいいんだ、この花! お店の人に無理を言って大きな紙袋に入れてもらったから、ぱっと見、花だとわからない。けどやっぱり俺、自分で家に持って帰る運命なのか? まあ仕方ないか。事務所で誰かにやろう。諦めて席を立つと、レジに立つマスターが彼女に声をかけた。
「美沙ちゃん、休憩入っていいよ」
「はーい、このお皿片付けたら」
そうか。平日はいつもこのくらいに昼休みなのか。
「ゆっくり食べておいで。オムライスと、デザートにケーキもつけるよう言っておいたから」
「やった! チーズケーキ残ってるかな」
嬉しそうにエプロンを外している。
「集まりか何か、あるんですか?」
彼女にたずねると、彼女はさらに明るい声で言った。
「今日、私、誕生日なんですよ」
えええ? 誕生日? マジで?
思わず花束の入っている袋に目がいく。焦って彼女の顔を見そうになるのをこらえ、思わずレジに立つマスターを凝視してしまった。
「どうしたの春日さん、目丸くして」
「あ、いや、その。会計お願いします」
「何? もしかして美沙ちゃんが何歳になったか、気になってる?」
「え、いやいやいや」
 それはもう! と心の中で言いつつ、手を顔の前で振る。
「ゾロ目なんだよねえ。美沙ちゃん。今日で三十三歳」
「だから二十二だってば!」
間髪入れずに言う彼女はちょっとムキになっている。こういう顔、初めて見た。俺はマスターに感謝した。おっと、彼女がエプロンを外してこちらへ来た。
おいおい、この流れ、ちょっとタイミングが良すぎるんだけど。
彼女がドアを開けてくれた。更に心臓がばくばくする。駅までの道を一緒に歩きながら、さりげなく声をかける。
「お昼ご飯は、いつも外で食べるんですか? その、賄いとかは?」
「日によっていろいろです。遅番で入るときは、早めの夕飯だったり。今日は誕生日だから、マスターがランチに行ってこいって」
 ふんふんと頷いていると、
「私がこんなこと言うのも、あれですけど」
 軽く前置きすると、彼女はさらりと言った。
「春日さん最近、いい感じですよね」
 俺は、リアクションに困った。
「ほんとっすか」
 やばい。ついタメ口になった。きっと、彼女にとってはなんてことない一言なんだろうけど、嬉しい。
 ありがとう。
 そう言おうとしたとき、青い屋根の小さな洋食屋に着いた。着いてしまった。
「ここです。マスターの友だちがやってる店で、オムライスが絶品なんです。だからうちではオムライスは絶対やらないんです」
いつもと違う会話ができたことにも、舞い上がっていた。でもきっと、夜は彼氏とデートなんだろうな、と急に気持ちが重くなる。花を下げている指先がピリッとした。
「じゃあ、春日さん、また」
振り返る横顔がスローモーションのように見え、背中が見えた瞬間、彼女のTシャツの襟元の、アルファベットが目に飛び込んだ。
Come on!
同時に、
「前進」
あの、教訓じみたガーベラの花言葉が頭をよぎった。俺の左足が、半歩前に出る。
「これ!」
俺の声に、ドアに手をかけた彼女が目を丸くして振り向く。
「あの、もらい物なんだけど」
俺はこの数年の最大の勇気を振り絞って、紙袋を差し出した。素直に受け取ってくれた彼女が、中を見て声を上げる。
「ガーベラ! きれいなオレンジ。あ、このシール、アンダンテの」
「アンダンテ?」
「この花屋さんの名前。私、いつもここで買うんです。小さなアレンジも可愛く作ってくれて。いい店なんですよ」
「ああ、確かに雰囲気の良い店だったな」
口から漏れてしまった。
「え? でもこれ、もらったって」
彼女が首をかしげる。やばい。
「ああああ、あの、前を通ったことだけはあって、見たことだけは、はは」
心臓がばくばくと音を立て、もう立ち去らなければと俺の脳内で警告がガンガン鳴った。
「じゃ、その、誕生日おめでとうってことで」
背を向けた俺に、声が当たった。
「あの! 春日さんの誕生日って、いつですか?」

あの日から、また冬が過ぎて、桜が散って。今日は、四月最後の土曜日。大きなガラス窓から、柔らかい日が差し込んだ天井の高い部屋。俺は鏡台に突っ伏して、眠ってしまったらしい。ゆっくりと顔を上げると、目の前には大きな鏡。そこには、少し前髪が乱れてしまった俺の姿が映っている。
やべ。せっかく整えてもらったのに。
手ぐしで直そうとしている俺の右肩には、じいさん。今まで見たことのない、お洒落な姿だ。俺と同じグレーのタキシード。胸ポケットには、淡いピンクのバラ。
お揃いってのは、初めてだな。
この数ヶ月は本当に忙しかった。それでも、喧嘩しながら今日の準備を進めてきた。彼女はテキパキとなんでも決めてくれて、かなり助かったけれど、正直ついていくのがやっとだった。
それにしても、今日の空はきれいだ。カラッとした青空。彼女にぴったりだ。
コンコンコン
控えめなノックの後、ドアが開いた。
「新婦の準備が整いました」
「はい、今行きます」
俺はゆっくりと立ち上がった。
もう一度、鏡の前で襟を正す。よし、疲れているけれど、めちゃくちゃ疲れているけれど、今日は笑顔で過ごす。なんとか一日持たせてやる。
「じいさん、お前も楽しんでくれよ。今日は」
素直な気持ちが言葉になった。その時、鏡の中のじいさんと目が合った、ような気がした。
「じいさん、俺のこと……見てる?」
じいさんは黙って、頭にかぶっていたシルクハットを取って、左手に持った。そして右手を胸に当て、優雅に、本当に優雅って言葉がぴったりな綺麗なお辞儀をした。頭を下げたじいさんの姿に、淡くもやがかかったように見える。うっすらと光りながら、姿が薄くなる。
「え、じいさん、ちょっと待って」
俺の言葉が終わらないうちに、じいさんはあっさりと、消えた。

休みは終わった。今日から出勤だ。しばらく休めばと勧めたのに、俺と合わせると言って、彼女も喫茶店のバイトに行く。
二人並んで、歯を磨く。
俺の右肩に、もうじいさんはいない。ひょっこり現れるんじゃないかと数日は淡い期待を抱いていた。何度も鏡の前に立った。
二年も一緒だったのに。いなくなる時は一瞬かよ。お前、アホかよ。
腹が立っているのは、じいさんにでなくて、自分に、だ。ちゃんと礼を言えば良かった。初めて目が合ったように感じた、あの瞬間に。美沙と一緒になれたのは、じいさんのおかげだ。どれだけ感謝しても足りないのに。深いため息が出てしまった。
「慎ちゃん、疲れが取れなかった?」
美沙が、鏡の中の俺を見つめる。
「平気だよ。一週間乗り切ればいいだけだし。お前も無理すんなよ」
「私は大丈夫。べつに慎ちゃんのことも、心配してないよ」
 カラリと笑う。
「あのさ。美沙」
「ん?」
「もし、もしもなんだけどさ。結婚式の朝まで、俺の右肩に小さなじいさんがいて。お前と会えたのもじいさんのおかげだって言ったらさ、驚く?」
やべ。ついに、しかも一気に口にしてしまった。言わなくていいことだと思ってたのに。すると、彼女の動きが一瞬止まった。そして鏡の中の俺に向かって、いたずらっぽい目をして笑った。
「慎ちゃん。もし私の左肩の上に、結婚式の朝から小さなおばあちゃんがいるって言ったら驚く?」                                                  


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