ピンピンコロリ、幻想でない元気老人
老いを考えるとき、いつのころからは知らないがピンピンコロリなどといわれはじめました。コロリとは、一体どういうことでしょう。人間ももちろん、野生動物も、犬猫でも、老いて亡くなる最期の様子は一週間内外の「衰弱」を伴って死が訪れます。老衰というと、わたしはこの衰弱する最期の様子を思い浮かべていましたが、医療が進むといつの間にやらこうした最期の様子を見ることがなくなりました。現代日本の異常な病院化社会がもたらした、非常に大きな弊害ではないでしょうか。
看取りを考えない社会になった
人の最期を静かに「看取る」といったかつては当たり前の家庭、家族の光景が、すっかり打ち消されています。孫世代が、年老いた家族の死を身近に感じたのは、わたしたちの世代までかもしれません。
今日介護保険制度ができて20年程で、すっかり施設介護が増えました。いささか主観に過ぎるかもしれませんが、介護施設に高齢者が入所してしばらくすると、多くの人は認知症となっていきますが、そのせいか「看取り」を希望する家族も然程多くはないようです。
病院も、介護施設も、家族の関係を変えてしまったように思うのは、私だけでしょうか。施設の中に入ると、社会活動が忙しい若い世代にとって日頃の帰宅時間が遅ければ遅いほど、病院も介護施設も足を踏み入れにくくなっていきます。
こうした建物は通勤経路にあればともなく、ない場合が多いでしょう。その点を考えると、看取りなどを日常的に考え難くしているようです。
死の形を考える
現代では、若い人ほど家族の死や自分の死を考えることが少ないことも事実でしょう。気のせいかもしれませんが、家族を看取ることを経験している人は、病院や施設から家族の死を知らされた人よりも、死を考えやすいように思えます。
家族がどこにいて、どんな関係で、自分はそんな状況でどんな死に方をしたいのか、その形を考える必要に迫られてきます。死にゆく人にその家族が最期の際にどんな接点を設けたいか、そのためには死にゆく人自身も健康面をどのように維持してゆくことが賢明なのでしょうか。
高齢でも健康を維持する元気老人の出現
とかく高齢になれば、病気のひとつやふたつあるのが当たり前という固定観念が付きまといます。それでも近年は病気ひとつない元気老人がメディアなどに登場してきましきました。いずれも筋肉はしっかりと維持している方ばかりです。
90代女性という運動インストラクターもいますから、けして若めの高齢者ということではありません。身長は低くなったとはいうものの、筋肉維持の重要性を示すお手本です。
健康からの衰弱期
老いを考えるために何冊か本を読んでみましたが、作家などが書く本は病気との付き合い方ばかりで、けして心身ともに元気という人はいません。書くということは机の前にいる時間が長いということを意味しますから、そのせいであることは容易に「老い」の現状を推察できます。
老いてからちょっと元気を出して1万歩歩いたところで、病気は直すことができません。それまでの負の遺産が余りに大きいからです。それを一旦解消すれば、もう一度振り出しに戻すことができるはずです。
生活習慣病は、単に数値だけを追い求めていくよりも、徹底的に歩くことが必要です。毎日20㎞、30㎞と2~3ヶ月歩いてみます。病気も消え去っていることでしょう。中高齢者が健康を取り戻すのは案外骨が折れます。非日常的なことを潜り抜けなければ、健康を取り戻すことはできません。
一旦取り戻してしませば、維持することは楽なものです。そこから年齢を重ね、本当の終末期に衰弱しながら一週間ほどで亡くなるというのが理想のように思えてきました。
突然死というのがありますが、それは心臓・脳や血管に障害が出たことによるものです。病気で亡くなっているわけですが、それで家族に別れの挨拶もなくいってしまうのも寂しい気がします。衰弱しながら、感謝を伝えながら、静かに旅立つ、あるいは水を飲んだり食事しながらコトッと息が切れる姿もありではないでしょうか。