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演技における居心地の悪さ③


「元気?」の言語行為論

 「元気?」と聞かれても、私はそのとき本当に元気かどうか考えてしまいます。相手は元気かどうかを聞きたいのではない、何の気なしの挨拶だということは分かっているものの、聞かれたことが自分でも気になってしまって、いつも返答がワンテンポ以上遅れてしまいます。
 しかし実際に元気がどうかが問題でないならば「こんにちは」でも良いはずです。何故「元気? How are you?」とたずねる(あるいは「たずねる」という演技をする)のか。言葉の使用に際しては、その「言葉の意味」ばかりではなく、「その言葉を発すること自体の意味」にも焦点をあてねばならないとしたのがオースティンに端を発する「言語行為論」です(オースティンを受けてデリダが独自に展開した、コンスタティブ(言葉の意味)/パフォーマティブ(言葉を発することの意味)の区分は、もはや言及することすら躊躇われるくらいに有名ですが、しかしそうであるにもかかわらず、言語行為論を充分に「知っている」はずの人たちが、自らの言表行為のパフォーマンス性にまるで注意をはらっていないように見える場合が多々あり、そこには強い違和感を覚えてしまいます)。
 「元気?」という言語行為には、「あなたのことを気づかっています」といったメタ・メッセージがあると言っても良いでしょう。もちろん、そんなことを意識してたずねている人はほぼいないと思いますが、相手のことを気づかうのは無条件に良いことであり、単なる形式的な挨拶よりも、相手に投げかける言葉の方が円滑なコミュニケーションの導入になると考えられているのではないでしょうか。
 ……と、何の気なしに、とりあえず口火を切るための導入部として書き始めたのですが、恐ろしいことに気付いてしまいました。「何かしら心に負担がかかっていて元気ではないんだけど、そんなことは忘れてとりあえず遊びたい」みたいな人もいることでしょう。ここで「元気?」と聞かれたとき、「元気とこたえるのは躊躇われるけど、元気じゃない理由を問われても話したくはない」、みたいな状況もあるかもしれません。あるいは「元気じゃないなどと言うと相手に気をつかわせてしまうかもしれず、それは本意じゃないので嘘をついて元気と無理やり言う」みたいな場面もあるでしょう。
 元気か否か、は極めてパーソナルでセンシティブな事柄なのかもしれません。私も何の気なしに、特に久しぶりに会う人に対して「お元気ですか?」などと聞いてしまいます。私の場合は本当に関心があり、「ちょっと微妙」ならそう言ってほしい、心身に違和感があるならまさにそれについて話したいという願いもありますが、そんなものは私の勝手な願いでしかありません。「元気?」は、導入として無条件に、無邪気にして良い発話ではないのかもしれません。一定以上の信頼関係や状況理解に基づいた言語行為だと言えるかもしれません。勿論、こんなことを考え始めると、型にはまったコミュニケーション以外何一つ会話ができないことになり、みんなでどんどん元気がなくなっていくでしょうから、互いのパーソナルでセンシティブな部分に触れ合う術や機会が、何かしら必要だとは思っているのですが。
 ちなみに私は元気じゃないときはそう言いますので、是非「元気?」と聞いてください。しかし聞かれたならばちゃんと返そうとしますので、面倒だと思わないでください。

「子どもが生まれるんです」

 ここ数か月、小見出しのとおりいろんな人に報告してまわっているのですが、しかし「子どもが生まれる」という「報告」に、いまだに違和感があります。
 義務教育を受けていた頃、「生まれる」は下一段活用の動詞だと教わったのですが、しかし「生む」+助動詞「れる」じゃないのか! どう見分けるんだ! と憤っていたことを思い出しました。福田恆存は「生まれる」というのはまさに受け身の「れる」によって表現されているのだという立場をとっています。そして人間がこの世に生を受けるというのはまさに受動的な事態であり、人間が能動的な自由を求めることには倒錯があるんじゃないか、といった問題提起をしています(「眞の自由について」)。
 ただし、平塚徹(論集『自由間接話法とは何か』に、自由間接話法の概論を書いたりもしている言語学者です。大変勉強になりました)が、「生まれる」の文法的厄介さを解説していました(「誕生を表す動詞の特殊性」)。それによれば、日本語に限らず、他の言語でも、「生まれる」に該当する単語が文法的に特殊な位置付けにある、とのことでした。
 なるほど確かに、「生れる(be + bearの過去分詞)」が受け身だとしてみても、「~によって(by~)」と続けることができない。彼女は母によって育てられた、とは言えるけど、母によって生まれた、とは言えない。つまり、「生まれる」という動詞が使われるとき、動作主(生む主体)のことをそこに関係づけることができないのです。
 ちなみに、平塚は同時にギリシャ語でも、「誕生を表す動詞γιγνομαι「生まれる・なる」」が特殊な動詞であることに触れています。すなわちそれは能動欠如動詞=中動態なのです。言語(や演技など)における諸問題を中動態で説明したりすると大変説得的に聞こえます。人間の営みには、そう簡単に能動/受動で区別することができないものがあり、自らの中に何かが「起きてしまう」という事態を捉えるために、中動態という別の「思考法」を導入することには一定以上の価値があります。
 私も拙著で國分功一郎の中動態論を引きつつ、中動態的な演技の様態について論じることを試みました。ただ、これまで当たり前のものとされてきた二項対立を問い直すようなオルタナティブが発見されると、それで何かが説明されたと満足されてしまうことがしばしばあるのですが、思考がそこで止まってしまうなら良くありません。もう少し別の観点を足してみましょう。

誕生の報告なる行為について

 「生まれる」という語を実際に使用するとき、さらなる厄介さが前景化してきます。とりわけそれを「報告」するときに。「子どもが生まれるんです」という報告には「そういう事情で、あんまり仕事が受けられません」とか、「しばらくバタバタするので今のうちに飲みにいきたいです」といったコノテーションがあります。もう少し言えば「いろいろ不安(定)な状況なので、何かあってもちょっと許してください」とか、そういったことを含意する言語行為なわけです。もっと色んな含みがありそうですが、ひとまずは。
 ただ、「子ども」が「生まれる」と私がいうとき、文字面だけみると完全に他人事で、「私」のことが完全に埒外になっているような感じがします。私の「報告」の眼目は、恐らく「子ども」のこと以上に「私」のことだと思います。あるいは少なくとも「私と子どもとの関係」でしょうか。いずれにせよ、「私とは無関係に、生命の誕生を言祝いでくれ」みたいなことでは決してありません。「子どもが生まれる」と、子どもが主語になっているのに、不思議です。
 やはり、子どもという主役が生まれると、私なる主体は背後に退くのでしょうか(などと書くと、ネガティブに響くかもしれませんが、しかし私の思考にとっては追い風とも言えます。私=主体なるものの位置付けを絶えず考えなおすために、演劇が云々、ということを思索しているのです)。
 ちなみに、一つ獲得した方法は、「<里帰り出産>でしばらく関東にいるので……」と言ってしまうことでした。<里帰り出産>も、出産主体は女性なので、私には関係ないのですが、しかしいずれにしても男の私を含め、関係者たちの主体性の位置付けが明確になるのがしっくりきました。聞き手にも「パートナーの<里帰り出産>で、あわせてこいつも関東に戻るんだな」と理解してもらえます。
 <里帰り出産>という、文化的な共通理解を前提にした語を用いることで、周辺的な情報も理解してもらえるだろう、という期待を込めることができ、先の言い方よりも比較的違和感なく言うことができました(ただ、「お前が産むんじゃないのに、変な言い方をするね」、と思った人も多いようです。かくも難しい言語/行為)。
 ただしもちろん、「子どもが生まれる」という異常事態を、<里帰り出産>といった語を通じて報告してしまうことに、なんだか味気無さは覚えます。「子どもが生まれる」は、そもそも「報告」ではない、何か別の言語行為なのかもしれません。それが何なのかは、まだ分かっていませんが……。
 何をあーだこーだとこねくり回しているのだ、伝わるのだからそれで良いじゃないか、正確な言語使用など気にせず、その伝わり方、パフォーマンス性にのみ気を配れば良いじゃないか、という向きもあるだろうと思います。私も深刻に悩んでいるわけではありませんし、違和感をどこかで覚えてはいるものの、「子どもが生まれる」と報告してまわっています。
 また、問題にしたいのは「正確な言語使用」ではありません。究極的には消去しきることができない、上記のような極めて些細な違和感こそ、「思考」の端緒となりうるのではないかと思っているのです。いかなる言語使用をするかが、世界の中に自/他をどう位置付けるか、という問題と直接につながっているからです。
 文章を書く仕事をする中で、目下の大きな問題として、代名詞をどうするかということがあります。例えば「俳優たちはよく〇〇します。彼らは××と考えるのです」…みたいな文章の場合。ここでの「俳優」は無論男女の別がありません。これに続く代名詞は、慣例上は「彼ら」で正しいとされてきたわけですが、しかしここに疑問を抱いてしまった以上、無批判に「彼ら」を使用することは躊躇われます。よく見るのは「彼/女ら」という表記ですが、女性が副次的なもののように感じられて私にはなおさらしっくりきません。「当人たち」と言ったり、代名詞を使わずそのまま「俳優たち」をくり返すことも可能ですが、これでは言葉のリズムが著しく損なわれるので、やはりダメ。ちなみに私は態や話法をいじることで、主語を使わなくても良いように処理することが多いです(「××といったことが問題にされているのです」など)。
 書いていて気付きましたが、私は「男女」という表記には今のところあまり違和感を持っていないようです。無論「何で常に男が先なのか」という物言いはつけられるでしょう。全ての表現にここまでこだわっていたら、何も書けなくなってしまいますので、適当なところで見切りをつけなければならないわけですが、それでも「なぜ自分が違和感を持たずにいられているのか」といったことは問いに付すことができますし、その必要もあるでしょう。 
 日本語は人称を表す語が極めて豊富であるというのは言うまでもありませんが、それは「自/他」なるものの関係が、様々な条件によって変容する(と認識されている)からです。いや、こうした言語の形態こそ認識のあり様を決定づけているとすら言えるのです。そうであるならば、自らの用いる言語がどの様な性質を持っているのか考えないわけにはいかないでしょう。AIに文章を生成してもらって、何かを言ったつもりになっている場合ではありません。
 前回、いくらか唐突に「演技主体が、自らの演技について思索を深めねばならないのではないか」と書きました。自分がいかなる舞台に立ち、いかなる言葉を用い、それについてどの様に感じてしまっているのか。舞台に立って言葉を発することにともなう必然的な居心地悪さ(もう少し大きく言えば、存在することそのものへの問い)、これが恐らく思考なるものを可能にしているのだろうと思います。

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