イスラーム金融とは何か

掲題の本を読んだ、金利を用いずに融資を行う仕組みなどはある程度知っていたことだが、今回、この本で一番なるほどな~とある意味感心させられたのは、イスラム流の施しの仕組みの所だった。施す者と施される者の間に神を介在させることでうまく回る仕組みなのだが、これだけでは判らないので、以下、本文からの抜粋を記載する。

 皆さんは「ありがとう」と謝意を伝えた相手に怒られた経験があるだろうか。あるいは、謝意を伝えられて怒ったことのある人はいるだろうか?
 私はエジプトでの現地調査が終わり、調査に協力してくれたエジプト人に謝意を伝えたところ、強い言葉で「私にありがとうと言うな!」と怒られたことがある。一瞬、不意を突かれたが、その後、気を取り直して、その真意を本人に聞いてみた。
 彼の説明は次のようなものであった。
 「遠い日本からはるばる調査のためにエジプトまでやってきた私を助けるのは、ムスリムとして当然の義務である。そうした義務を決めたのは、神であり、神に絶対帰依している自分は、その命令に従っただけである。自分は、神の命令に従って、来世での救いが近付いたことで満足なのだから、あえて感謝される筋合いはない。もしあなたが謝意を伝えたいのであれば、自分ではなく、神に感謝するべきだ」、と。

同じ文脈で、この本にはザカート(喜捨)に関する記載があり、ザカートの受け手は、神からのありがたい施しとしてのみお金を受け取る、そのお金が本は誰が支払ったものであるかはわからないため、施しに対する謝意を神以外に表す必要もないし、支援を受けることの負い目を他人に感じる必要もないとある。筆者は続けて以下の記載をしている。

 ところで、私たちの知っている助け合いの仕組みは、基本的に施す者と施される者の関係の近さに基づいて成り立っている。それは、利他と一般に呼ばれている。そうした助け合いがうまく回っている間は良いが、時として、両者の関係の近さがいらぬ諍いを引き起こすこともある。「あの人は、お金持ちなのに、困っている人を全然助けようとしない」「あの人は、単にサボっているだけだから手厚い支援など不要だ」のように。
 こうした不満の背景にあるものは、利他は自分の犠牲の上に成り立っているという考え方である。つまり、人助けは、自分の満足度を下げることにどれだけ我慢できるかという問題に帰着するのである。こうした利己と利他ののせめぎ合いは、逼迫する社会保障費の財源確保のために、増税をどこまで許容できるかという問題や、格差社会における経済成長の果実をどのように分配するかという問題でもしばしば顔を出す。いわば、現代の資本主義社会が抱えている様々な問題の根幹にあるのが、この利己と利他の対立なのである。
 その意味で、神という超越的な存在を間に介在させることで、施す者と施される者の関係性が完全に切り離され、利己と利他の対立が止揚されているザカートは、助け合いの仕組みとして極めて魅力的である。

どうでしょう、僕は非常に腹落ち感というか、良い仕組みだと感心しました。本日、24時間テレビで頑張るヤスコさんを見て、初めて24時間テレビで募金をしました。これも同じ仕組みといえば同じ、全く犠牲感などは感じてませんので。


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