「1ST OF ACE」皆、人生一周目。
noteはじめて見て思ったけど、お金をもらわずに文章を書くのは、こう憩いというか、なんかこう気分が良い。直感的でなんも推敲しない言葉の塊を(誰をメンションするでも無く)紡ぐのは、なんとなくスッキリするのである。文字数制限も無いし。推敲もしてなければてにをはもそんな揃ってないけど、気にせずにいくぞ。なんせこれは趣味なんだから。
で、書いてて直感的に思ったのが「自分が過去提供した曲に準えて、なんとなく思うことを、気が向いたら投稿していくか~」みたいな。現時点で164曲を世に出しているので、少なくとも164記事は書けることになる笑。
で、今回のテーマは、シクフォニ「1ST OF ACE」
デビュー当時からメインの楽曲制作をずっと担当させてもらっているシクフォニ。その後の快進撃は物凄く、一般的歌い手グルとしては想像できないスピードで巨大規模化し、階段を駆け上がってるボーイズ・バンドだ。
シクフォニでは本当に沢山の実験をさせてもらって、信じられないくらい幅広い楽曲を提供してたのだけど、この楽曲は一周年ということで「J0KER×JOK3Rの続編が欲しい」というオーダーで仕上げた。まあでも過去の自分の真似っこみたいなものは世に出したくないので、ジョカジョカっぽさを感じさせつつも細かい部分は全然違う楽曲となっている。(というか、基本的に自分はオーダーを厳密に守らない。リファレンスの曲があったとき、テンポ感と雰囲気さえ守ってれば、曲自体が強ければ発注とズレていても大体気に入ってもらえるので、あんまり厳密に参考にしないほうが良いの)
https://x.com/kenkaiyosi_info/status/1807518019608055913
【楽曲提供・139曲目】
— ケンカイヨシ(作曲家→現在164曲提供) (@kenkaiyosi_info) June 30, 2024
シクフォニ「1ST OF ACE」
作詞 / 作曲 / 編曲
「原点にして頂点のJ0KER×JOK3Rを超えてください!」と発注を受けた。一周年なので俺も大分本気だ。中毒性あるリフレインは「天国と地獄」や「熊蜂の飛行」みたいなクラシック音楽の要素を取り入れた。https://t.co/zYUAGTerIX…
音についてはツイッター↑で書いたので、歌詞面のアプローチや考え方の話をしよう。一周年だから分かりやすく「1」という数字がこの楽曲のテーマになってるわけだけども、1って言ったらまあ真っ先に浮かぶのが頂点ってイメージで、「1ST OF ACE」はエースの中の一番、まあだから「俺達がNo.1だ」みたいな、みんなの想像することだと思うし、実際そういうメッセージ性もかなり含まれているのだけれど、自分にとって「1ST OF ACE」は「最初の最初、一周目」というニュアンスだったりする。
「何々さん、人生何周目ですか~!?」みたいなの今ツイッターのスラングであるけど、俺その表現がめちゃくちゃ嫌いなんだよな。特定の個人を信奉して、その人がまるで他の人の成長段階をスルーできる超越した能力を持っているかのような表現するのは、その相手にも失礼で、かつ無理を強いてる話だと思う。まして、なんか最近ツイッターで客観的に立派に思える発言をしている子ども(小学生?)の発言を取り上げて「〇〇くん人生何周目!?本当に立派だね☆」みたいに言ってるリプを見てめちゃくちゃ腹立った。
人間はコスプレや真似だったらいくらでも出来るし、達観した風の発言だったらそれこそ中学二年生でも出来る。まして子どもだったら親の顔色を伺って親が気に入ることを言おうと必死に脳内のGoogleをサーチするわけで、木で鼻を括ったような大人っぽい論語の詰め合わせを彼ら彼女らが発することが出来るのは、その言葉を心底飲み込んで納得し自家薬籠中の物にしているからではなく、ただ単に”嫌われず、生き残るための術”だ。
そりゃまあ凄い能力ある人は世の中に居る。原口沙輔や大谷翔平とかね。でも彼らは当然血を吐く努力をしてるわけで、それと同時に一部の能力を特化させるために人生を使った代償も当然払っていると思う。(人に見せないだけで、極端に苦手なことだってきっとあるだろう)
ようは何が言いたいかというと、全員の人生は一周目なわけで、傍から見て立派に見える人がいたとして、「達観してるね!」「人生何周目なの!?すごーい!」って安易にうっとりするべきではない気がする。
"人を人として見る"とか、"世の中に溢れるそれっぽい言葉で納得するのではなく、痛みを伴う体験として血肉にする"みたいなことが大事だと思っていて、まあそれこそYouTubeにせよTikTokにせよ見たら作品のコンセプトや意味を分かった気になるようなインスタントな解放感を与えてくれる解説動画とかが花盛りだったりするわけだけど、自分の足で走ることでそれらを自分の言葉にしていくプロセスが何よりも大事だと思う。で、立ち向かうということは逃げる(≒run away)こととある意味同義であり、それら多次元的な葛藤(ただただ全力疾走するだけではなく、自らの逃げてしまうような弱い心そのものとも向き合うことが出来る人は逆に強い)勝てた過去、負けた過去、全てひっくるめて向き合うことが大事な気がしている。『自分は全てに立ち向かう』も『自分は全てから逃げる』もどちらも思考停止で、自分のことを大人と思うのも子どもと思うのもある種の逃避に思える。誰かが何かに立ち向かってる瞬間、それと同時に逃げている自分が内側に確かにいて、臆病を知る人こそ勇気を知る。両方と共に走るのが大事なのだよっ!
……なんかこう説教臭くなってしまったな。まあようするに『今の自分が何者なのか?結論を出さずに、永遠に自問自答する。立ち向かったり、逃げたりしながら』というのが俺達"一周目を生きる人類"に課された本当の使命だと思うのだ。
俺は幸せだ、俺は不幸だ、どちらも決めつけたらそれは逃避な気がする……一周目の、何も知らない人生の壇上を自分の意志で走りたいZE☆
(まとまってるか分からないがここで終了)