「年収の壁」話と最適不明瞭性の原理
勿凝学問411
レントシーキングが織りなす華麗なる景色
先日2月24日の全世代型社会保障構築会議で、次のような発言をしている。
研究者としては、自分の仮説、予測通りに事態が展開していくことはおもしろいものではある。ただ、それがカッサンドラよろしく不吉な予測であるために、その予測が当たったからといって、喜んでばかりもいられない。
「年収の壁」騒動については、次を書いているが、その後の展開も、まさに政治経済学におけるキーワード「レントシーキング」が予測する通りに進んでいる。
世の中、と言うべきか、大人の世界の民主主義というものは、興味が尽きないところがある(「大人の世界の民主主義」については『もっと気になる社会保障』212頁参照)。
得票率を極大化させる最適不明瞭性の原理
年収の壁をめぐる政治周りの様子を眺めていると、2001年に出した本の第1章に書いた「最適不明瞭性の原理(principle of optimal obfuscation)」を思い出してしまう。
その仮説は、国際経済学の世界で提示されたものであった。
Magee, Block, Young ら(以下、MBY)国際経済学者は、保護貿易を支持する政党は、国内製造業者に補助金を与えることにより、次の選挙で得票率を極大化する行動をとると仮定するところからはじめる。MBYは、投票者に関しては、投票者は、公共政策に関して積極的に情報を収集して学習してみてもほとんど見返りを見込めないのだから、合理的に判断して無知でいることを選択する――いわゆる、投票者の合理的無知を想定している。
補助金が、国内労働者の手元に丸々渡る方法は、労働補助金である。しかし、そうした露骨な補助金が、経済への歪み(死荷重)をもたらしていることを、たとえ合理的無知な投票者であっても、時間が経てば分かっていくようになる。
そうなると、保護貿易支持政党は、一般の投票者には、経済効果がより一層わからない不明瞭、複雑な方法による、補助金の与え方を考え出していくことになる。もちろん、そうした不明瞭な方法では、国内製造業者の手元に届く補助金の割合が減っていき、さらには経済を歪める度合いも増していく。しかし、一般の多くの投票者は通常は公共政策に関して無知な状況を合理的に選択するので、はじめはそれに気付かない。ゆえに、政党の支持者への補助金の分配方法を今よりも不明瞭、複雑にしていくと、投票者がその政策の問題点を理解するのによりコストがかかるようになり、そのために、問題点を理解している者が少なくなっていって、結果、得票率が上がることになる。
こうした仮説を立てたMBYらが描いた図「政治的効率政策の進化(the evolution of the political efficient policy) 」は、縦軸に保護貿易支持政党の得票率、軸に政策手段の不明瞭レベルがとられている。
得票率を極大化させる政治的効率政策の進化
この図を説明しよう。
MBYモデルでは、民主主義に関して、興味深い前提が置かれている。
「年収の壁」騒動の周りで起こっていること
先日、ついに、「単身世帯への不公平感をなくすため、配偶者の有無にかかわらず、給付の対象とする」という話がでてきた。
安価な労働力を手軽に利用できるように、この国では、非正規のパート労働者を多く作ってきた。その過程で、被用者保険の適用除外規定を設けて、パート労働を多用する企業、産業を優遇してきた。しかし、被用者保険の適用除外規定が、どれほど大きな問題であるかという認識が徐々に拡がり、適用拡大という政治的な動きが、そのスピードは遅すぎた感はあったが、高まってきた。そうなると次に考えられるのは、得票率を極大化できる次なる不明瞭な優遇策となる。
「「年収の壁」という人々を不幸にする言葉」に書いているように、この話は、「経営者は、自社が他社から労働者を奪えるくらいに魅力的な職場になるように待遇改善を図ればいい話」である。実際に、多くの企業が賃金の引上げをはじめとした待遇改善を発表しはじめている。社会保険料の本人負担分を事業主が肩代わりして、労働力希少社会に入った難局を乗り切ろうとしているところもでてきている(北海道NewsWeb)。
しかしそうした経営努力をやりたくない人たちは政治に助けを求め、レントシーキングに走る。
最初に考えられた補助策は、彼らが「年収の壁」と呼ぶ壁を超えた人たちに、手取りが減った分を保障するというものであった。それにより、賃金の引上げなどをしなくても、就業調整をしている人たちを労働力として確保できる環境を準備しようとした。この方法では、「「年収の壁」という人々を不幸にする言葉」にも書いているように、「不公平かつフリーライドを奨励して制度への不信感を煽る案」との批判は免れない。つまり、それでは、配偶者がいないパートには不公平になるとの批判は当然でてくる。そうした中、次には、「配偶者の有無にかかわらず」という話に進んでいった。
一般の投票者たちに向けては、「年収の壁」という一連の騒動を解決するかのように見える話をしておけば、得票率は高まる――そういう読みが政治家に働いていると考えさせるのが、最適不明瞭性の原理である。
「再分配政策の政治経済学」という学問領域を20年以上も前に掲げた僕からのアドバイスは、その再分配所得は、どこからどこに流れている所得なのかを考えてみることである。当初の、「彼らが「年収の壁」と呼ぶ壁を超えた人たちに、手取りが減った分を保障するという補助策」は、なにも、配偶者がいないパートに対して不公平という点のみが問題であったわけではない。
そうした問題点を時間をかけて考える者は、Magee, Block, Youngが想定している合理的無知な投票者が一般的である世界にはほとんどいない。
国際経済の世界の歴史は、補助金の渡し方による増幅する歪み、不公正さを理解し、投票者が洗練され(sophisticated)ていくのには、数十年単位の時間がかかったことを示している。
社会保障の世界はどうなのか。ここ最近の動きをみていると、もしかすると、社会保障の世界も、最適不明瞭性の原理が予言するように、どんどんと事態は悪くなるブラックホールに向かっていくのかもしれないと思わせるものがある。
補論 最適不明瞭性原理とこの原理から導かれる命題
最適不明瞭性の原理を唱えたMagee, Block, Youngのモデルは次式で表される。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?