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栗原康さん(政治学者、アナキズム研究)前編・4

大杉栄

――では具体的に大杉栄さんの話を伺えればとおもいます。もともと大杉栄はふつうに軍人になろうと思ってドロップアウトしてしまって。そのあとに幸徳秋水の文章に出会うんですよね?

栗原 大杉は最初軍人になろうとして名古屋の幼年学校でエリートコースを歩み始めるんですが、喧嘩で退校になって。そのあと大杉はひきこもり生活を何か月か過ごしてるんです。何か大杉さんちの坊ちゃんが帰ってきてしまった、みたいな形で外に出れなくなってしまった。で、郷里の新潟にいられないと言って。大杉が受けた陸軍の教育というのは語学の勉強をするんですよね。ドイツ語とか。で、大杉はフランス語も勉強していて、語学が好きだから語学の勉強をさせてくれ、ということで東京に出てきて、今の東京外国語大学。そこに入ったんです。

――すごく語学力のある人だったようですね。語学の天才だったとか?

栗原 そうですね。エスぺランド語とかをしゃべれるのは当時は大杉だけだということで。「一犯一語」とか、狂ってますしね。

――それは?

栗原 「一犯一語」って、犯罪の犯。一回捕まったらそのときごとに一カ国語を覚えて帰ってくるという。

――ああ~。それはすごいですよねえ。確か知ってる言語が10数から20とか?

栗原 20以上ですね。語学に関してはすごかったです。「オレは30か国語でどもってやるぜ」とか言っていたみたいです。

――そして大学で*幸徳秋水の文章に出会って、ものすごい影響を受けるわけですか。

栗原 そうです。こんなに自由に文章を書いていいのか、みたいな感じですね。

――その当時の幸徳秋水はまだアナキストになる前の社会主義者時代ですか?

栗原 まだ直前ですね。

――*堺利彦などが同志で、ふたりが*平民新聞を立ち上げたころ?

栗原 大杉が文章をよみはじめたころの幸徳は、まだ*萬朝報(よろずちょうほう)という新聞社の社員ですね。大杉は最初キリスト教徒になったりします。*海老名弾正という人から洗礼を受けているんですが、日露戦争になったらキリスト教徒も含めてみんな愛国戦争肯定論みたいになっていく。大杉は軍人の時の悪い記憶がありますから。吃音を矯正して身体にあてはめようとして吃音者としての自分を痛めつけるみたいなそんな風に傷つけられた体験もあったので、自分は反戦で行きたいと思っていた。そうしたら幸徳は萬朝報を辞めて平民新聞を立ち上げたので、そこへ行ってみようと。大杉にとっては自分の喋りかたとか身体の自由のために社会主義に何かを求めていたところがあって、幸徳に惹かれたのもその文章の奔放さ、表現の自由さ、みたいなところで。そういうものをたぶん自分も身につけたいと思ったんじゃないかと思います。

――吃音とか、標準化される身体とか、そういうものに対してあらがえる者として自由な表現を持つ人がここにいたと。そこで幸徳にハマって、実際に平民新聞社まで行ってしまう。

栗原 行っちゃって。反戦運動から始めます。同時期に*荒畑寒村という若者も入ってきて親友のようになって、「暴れん坊二人組」みたいな存在になっていきます(笑)。荒畑は「社会主義伝道行商」というのを行って、社会主義の本を持って誰も見向きもしてくれそうにない農村の中で本の行商をして歩くんですが、大杉はオシャレを決め込んで平民社に来ていますね(笑)。語学ができますから翻訳やったり、文章書いたり。まだ当時は少し硬い文章ですが。幸徳秋水の手伝いでちょっとクロポトキンの本を訳してみたりとかしていますね。

――実際に大杉栄が平民社に入社したのはいつ頃ですか?

栗原 1904年か3年ですかね。

――で、大杉さんも元気いっぱいな人なので、*「赤旗事件」で懲役をくらう。その獄中生活の間に幸徳秋水らが死刑になってしまう*大逆事件が起こります。

栗原 獄中に入ってなかったら、大杉もたぶんやられてたでしょうね。

――ええ。社会主義大弾圧のような事件ですね。で、幸徳秋水も大杉と似ていたというか、同志の女性であった*菅野スガさんを愛人として。

栗原 菅野スガは荒畑寒村と付き合っていたんです。で、荒畑寒村がピストル持って幸徳らを追い回す、みたいなこともありました。

――その間に大逆事件が起こった。で、幸徳秋水は箱根かどこかで捕まるんでしたか?

栗原 箱根のほうかな。あ、湯河原ですね。

――湯河原ですか。しばらく文筆業に力を入れようとして病気静養から上京するところ、立ち寄った土地の同志の人たちも大逆事件に巻き込まれてしまいますね。

栗原 幸徳秋水が地元の高知県から出てきて廻ったところの人たちが全員やられちゃうわけです。

――この頃の幸徳秋水はもう完全にアナキストになっていた?

栗原 アナキストです。1905年くらいからアメリカに行って、アナキストになって帰ってきます。直前にもうアナキストになってて、向こうに行って確信した。

――社会主義に限界を感じた?

栗原 社会主義の運動の中でも、当時は直接行動で行くか、社会政策で行くか、みたいな方向性があったんですよね。幸徳の立場は議会を通してもどうにもならないから、労働者が自分たちの力でパンと米を掴み取るしかないんだ、という考えかたです。

――当時の日本は社会政策とか、議会を通じての社会改良ではとても無理だという時代背景みたいなものを感じてそうなったのでしょうか?

栗原 そうですね。少なくとも明治の頃はなかったかもしれませんね。幸徳の頃はまだ政府も社会政策なんてやる気がなくて、で、なおかつ暴動とかがちょっと起きたり、*足尾とか見たりして、なにかそういう中で動き始めている民衆の力を掴み取ろうとしたんじゃないか。大杉が活動する1910年代後半になると、内務官僚が社会政策をやるとかを言いはじめるんですよ。大杉とは対立している労使協調系の組合なんかだと、そこと一緒にやろうといいはじめる。だから大杉がそれに乗らないのは、もう少し違う理由なのかもしれませんね。国が社会政策をやるといっても反対するわけですから。それって労働倫理が強められるだけなんじゃないかと。

――労働者としてのマインドを内面化した形で労働時間を短くしろと言ってもダメだと?

栗原 そうですね。それだけだと全員が労働倫理、勤労者倫理に持っていかれるだろう、兵隊が作られるだけだろうということでしょうね。


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米騒動に学ぶ

*幸徳秋水―1871-1911。高知県中村生まれ。幼少期から自由民権運動に関心を持ち、中江兆民の書生になる。新聞『萬朝報』の記者となり、社会主義ジャーナリストとして名をはせた。1903年、日露戦争に向けて『万朝報』が開戦論に転じるとこれに反対して退社。堺利彦とともに、週刊『平民新聞』を創刊。その後、大逆事件に至り、死刑となる。(『大杉栄伝』栗原康・人物解説より)

*堺利彦―1870-1933。1899年、『万朝報』の記者になる。しだいに社会主義者の立場を鮮明にした。1903年、『万朝報』が日露戦争開戦論をかかげると幸徳秋水とともに退社。平民社を立ち上げる。1906年には、日本社会党を結党。1908年、大杉栄とともに赤旗事件でつかまり、大逆事件を免れた。その後、社会主義運動再生のために売文社を起こす。1922年には共産党を結党するが、しばらくのちに離脱。1927年に山川均とともに『労農』を創刊。1929年、東京市会議員に立候補し、当選している。(『大杉栄伝』栗原康・人物解説より)

*平民新聞―明治後期に刊行された週刊および日刊の社会主義新聞。

*萬朝報―明治から昭和にかけての東京の日刊新聞。1892年黒岩涙香が創刊。1900年頃から内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らの論客を迎え、進歩的色彩の強い言論新聞となったが、日露戦争を前にして黒岩が主戦論に転じたため、内村、幸徳、堺らは退社した。(ブリタニカ国際大百科事典より)。

*海老名弾正―福岡県生まれ。同志神学校卒業後、群馬件安中教会の牧師となり、その後教会を点々とした。優秀な説教者であり、大杉栄のほかにも、吉野作造や鈴木文治らが教会に通い、キリスト教の思想家として知られた。熱烈なナショナリストで日韓併合や日露戦争をキリスト教の立場から擁護した。(『大杉栄伝』栗原康・人物解説より)

*荒畑寒村―1887-1981。神奈川県横浜生まれ。1912年、大杉栄とともに『近代思想』を創刊。翌年からサンディカリズム研究会をはじめる。その後も月刊『平民新聞』、第2次『近代思想』と大杉と行動をともにするが、しだいに思想的、感情的なもつれが生じ、決別。荒畑はサンディカリズムから共産主義の立場に転じた。1922年、堺利彦、山川均らと共産党を結党。戦後は社会党に入党し、衆議院議員になる。(『大杉栄伝』栗原康・人物解説より)

*管野スガー1881-1991。大阪市生まれ。1899年、『大阪朝報』の記者になる。1904年、上京した際に平民社を訪問。1906年、京都に移り荒畑寒村と同棲。1908年赤旗事件で逮捕。荒畑が入獄中に幸徳秋水と例愛関係に入る。宮下太吉、古川力作らと天皇に爆弾を投げる計画を立てるが発覚し逮捕。いわゆる大逆事件で、死刑となる。(『大杉栄伝』栗原康・人物解説より)

*赤旗事件―1908年6月に起こった日本社会主義運動に対する弾圧事件。東京神田での社会主義者山口義三の出獄歓迎会の閉会間際に大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いつつ会場外へデモ行進を始めたところ、警戒中の警官隊が襲いかかり、乱闘の末、大杉栄、堺利彦、山川均、荒畑寒村などが逮捕された。(ブリタニカ国際大百科事典より)

*大逆事件―1910年5月各地で多数の社会主義者、無政府主義者が明治天皇暗殺を計画したとの理由で検挙され、翌年1月26名の被告が死刑その他の刑に処せられた事件。幸徳事件とも言われる。(ブリタニカ国際大百科事典より)


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