坂野潤治 「日本近代史」 第一章、第二章 読書会報告用
坂野潤治 「日本近代史」第一章、第二章 読書会用
日本近代史ー危機の時代1925−1937 (一、二)ー
第一次大戦後の1915年
日本による中国への二十一箇条要求ー内容のポイントは、第1号=山東省を日本の勢力範囲に置く四か条、第2号=満蒙の独占的支配を策する旅順(りょじゅん)と大連(だいれん)の租借権、満鉄権益期限の99か年への延長など七か条。
孫文の辛亥革命(1911年)
アジア主義者と、山県有朋の中国革命不信。→その頃からの日本の対中政策の「まるで幽霊みたいにふらふら」(犬養毅)
孫文の1924年、長崎での談話
「日本の維新は中国革命の第一歩であった。中国革命は日本維新の第二歩である。中国の革命と日本の維新とは、実際同一の意味のものである。惜しいかな、日本人は維新後富強を致し得て、帰って中国革命の失敗を亡失してしまった。ゆえに中国の感情は日に日に疎遠となった。」(『日本の百年7 アジア解放の夢』橋川文三:編著)
昭和日本
⚫︎政治
大正13年、加藤高明(憲政会)高橋是清(政友会)犬養毅(革新倶楽部)による護憲三派内閣。首相は加藤高明 。言論界が考える憲政擁護運動の課題は、普通選挙であった。
伝統として、
普通選挙に反対で、平和外交型の政友会。→原敬、高橋是清など。
普通選挙に賛成で、強行外交型の憲政会(のちの民政党)→加藤高明など。
日本の対外政策は植民地帝国主義から、非植民地帝国主義へと大きく揺れ動いた。その契機になったのが1921年から22年(大正12〜13)にかけての「ワシントン会議」である。日本は日英同盟を解消し、対支21箇条型の植民地主義から、
⚫︎中国の主権と領土保全⚫︎内政不干渉を条約化され、中国政策の大きな転換を迫られる。
日本の中国権益は、満蒙の鉄道、鉱山、鉄道沿線の関東軍による守備権のみとなった。(全権大使:加藤友三郎海軍相。幣原喜重郎駐米大使)
そしてワシントン会議のもう一つのテーマは海軍軍縮で、主要国主要艦を英米10、日本6、仏伊3・3の比率に定めた。
政友会は、ワシントン体制を支持続け、大正十二年の議会報告書には、「自国の利害伸長のみを事として他を顧みない帝国主義の時代はすでに去った」という観点で、山東半島の中国返還を肯定している。
(※)護憲三派内閣は、国際協調と内政不干渉政策をセットにして切り替えた。幣原喜重郎外交である。→幣原の考えは、「外交政策継続主義」である。(幣原は政党に属さなかった)
政友会・原敬内閣の外交政策を方向づけたのは高橋是清で、幣原は友人でもある高橋の国際協調主義を受け継いだ。高橋は、関東軍をはじめとする中国駐屯の撤兵を訴えていた。
ところが、普通選挙法が成立し、第二次加藤内閣が成立すると、陸軍大将、田中義一が党首になった政友会は政権を離脱。1925年以降、憲政党(民政党)は平和外交路線に舵をとり、逆に田中義一の政友会は保守化路線を鮮明に打ち出す。
幣原の外交政策継続主義は、昭和に入って、田中義一内閣(政友会)によって破られた。
田中義一の「産業立国」論→資源確保のために「満蒙特殊地域」を武力で持っても擁護するという考え。高橋是清の外交政策を180度転換する。(田中外交)
→方法として、東方会議、関東軍の第一次山東出兵(中国内政への武力介入の第一歩)
また、高橋の「参謀本部廃止論」と真逆に、田中は「皇室中心主義」を振り回す。
対して野党、憲政会(民政党)は幣原外交と、内政面でも民主化を強調した。
「少数の有産階級と少数の特権階級の生活を引き下げると同時に、最大多数の階級、殊に貧民階級の生活を向上せしむる」(憲政会機関紙)
大正14年7月時点の二大政党は、「平和と民主主義」の憲政会(民政党)と、「侵略と天皇主義」の政友会の二大政党となった。(1925〜1932年(「5.15事件」の年)ー乱暴に言えば、この期間、板野氏は「危機の時代に導いた二大政党時代」と見る。
●ロンドン海軍軍縮会議(1930)
この二大政党制での安全保障政策における対立が鮮明化したのが、ロンドン海軍軍縮会議である。大型巡洋艦米英10に対し、日本は海軍が7割死守を主張したが、政府は米英の提案である6割で妥協した。7割死守を守らない浜口内閣に対抗して、海軍軍令司令部の加藤寛治が直接天皇に上奏しようとして天皇の側近に阻まれた。その間にロンドン軍縮会議の条約は調印され、これが天皇の「統帥権」の干犯だとして、政治問題となる。「統帥権干犯問題」である。天皇が軍を指揮する「統帥権」に関しては、陸軍参謀長官や海軍軍令司令部が直接天皇に上奏できるとする、いわゆる帷幄(いあく)上奏権と言うものがあった。
⚫︎天皇と、内閣と、軍部の、大日本帝国憲法上の関係。
「大日本帝国憲法第11条 天皇は陸海軍を統帥す。」
とあるように、統帥権は天皇大権とされていた。
統帥権のうち、軍事作戦は陸軍では参謀総長が、海軍では海軍軍令部長が輔弼し、彼らが帷幄(いあく)上奏し、天皇の裁可を経た後、その奉勅命令を伝宣した。
他に軍政上の動員令・編成令・復員令という奉勅命令があり、通常陸海軍大臣が帷幄上奏し、裁可後彼らが伝宣した。
統帥権の独立によって、奉勅命令や帷幄上奏勅令へ政府や帝国議会は介入できなかった。他方、
大日本帝国憲法第12条 「天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む」
とあるように、兵力量(師団数や艦隊など軍の規模)の決定は天皇の編制大権であった。これは軍政をになう陸軍大臣か海軍大臣が輔弼した。
他に、
大日本帝国憲法第55条 「国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任す」
大日本帝国憲法第5条「 天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ」
大日本帝国憲法第64条 「国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経へし」
とあり、軍の兵力量の決定は、陸海軍大臣も内閣閣僚として属す政府が帝国議会へ法案として提出し、その議決を得るべき事項であった。
海軍軍令部長加藤寛治(ひろはる)大将など、ロンドン海軍軍縮条約の強硬反対派(艦隊派)は、統帥権を拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権に関係するとして、浜口雄幸内閣が海軍軍令部の意に反して軍縮条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したものだとして攻撃した。
1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は、「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。元内閣法制局長官で法学者だった枢密院議長倉富勇三郎も統帥権干犯に同調する動きを見せた。6月、加藤寛治大将は昭和天皇に帷幄(いあく)上奏して辞職した。この騒動は、民間の右翼団体(「国粋団体」と呼ばれていた)をも巻き込んだ。
条約の批准権は昭和天皇にあった。浜口雄幸首相はそのような反対論を押し切り帝国議会で可決を得、その後昭和天皇に裁可を求め上奏した。昭和天皇は枢密院へ諮詢(しじゅん)、倉富枢密院議長の意に反し、10月1日同院本会議で可決、翌日昭和天皇は裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准を実現した。枢密院議長の倉富の意に反しても批准されたのは、法学者の美濃部達吉による浜口首相への助言が大きい。美濃部は、条約の事実上の批准の権限は枢密院にあるが、その枢密院の定員を決める権限は首相にある、と助言し、これが枢密院に伝わると、枢密院も宥和的になった。(※)
このやり方が汚いという考えが根底にあって、浜口雄幸狙撃事件につながった。
同年11月14日、浜口首相は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口は8月26日に死亡)。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まった。(Wikipediaより)
(※)「日本近代史」の記述では、美濃部の憲法に準拠する軍縮などの「国防に関する条約」などは内閣に属し、「作戦用兵」などの統帥権とは峻別されるという論理は、「海軍軍令部条例」によって立ち行かないことを美濃部自身、知っていた。そこで軍令は海軍内部の規律に過ぎず、国家レベルの問題は大臣の副書を要件とする「勅令」によって定められるという論を立てた。
結果
この事件(浜口首相狙撃事件)以降、日本の政党政治は弱体化する。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対しては“自分達に命令出来るのは陛下だけだ”と、統帥権の権利を行使したため、政府はそれを止める手段を失うことになる。
政友会がこの問題を持ち出したのはその年に行われた第17回衆議院議員総選挙で大敗したことに加えて、田中義一前総裁(元陸軍大臣・総理大臣)の総裁時代以来、在郷軍人会が政友会の有力支持母体化したことに伴う「政友会の親軍化」現象の一環とも言われている。(Wikipediaより)
〈昭和の軍部の動き〉
⚫︎満州国関東軍ー石原莞爾、板垣征四郎など。→石原莞爾の世界最終戦争論。(軍事戦略家として、また日蓮宗信者としてのカリスマの持ち主)。→柳条湖事件を起こし、「満州事変」へ。(1931年)
⚫︎陸軍内部の対立(政治軍人の誕生)
「桜会」ー国家改造計画をもつ。橋本欣五郎砲兵中佐らを中心に、民間学者大川周明など。陸軍大臣、宇垣一成を首班とする国家改造を考える。
十月事件には、大川周明、北一輝、西田税らも参加する筈であった。
北一輝、西田税らの思想系グループは、下級将校青年たちへの影響が強く、荒木貞夫中将を担ぐ(皇道派)。
・北一輝
24歳で『国体論及び純正社会主義』を書き下ろす。
明治末年、中国革命に参加。
“青年時代における進化論的社会主義の思想と、中国革命における無残な政治的リアリズムの把握と、法華経と結びついた行者的資質とが渾然として北のカリスマを形成していた。”(『日本の百年 アジア解放の夢』橋川文三:編著)
ー当時の青年皇道派思想の若者の観念的な姿勢は、明治維新史に出てくる維新の志士や維新思想家たちの影響や、同一化として見られる。
「皇道派」ー荒木陸相、真崎教育総監を頭首とするグループ、その主力は陸士三十七期、八期あたりの青年将校。彼らの思想的指導者は北、西田税(みつぎ)のふたり。
「統制派」ー中央幕僚を中心とする左官級の人びと。指導的人物は時期によって南次郎大将、林銑十郎大将、永田鉄山少将とみられるが、いわば特定個人を指導者とするのではなく、制度としての軍の合法機能を極限まで発揮することで軍の独裁権力を確立しようとした軍事的エリート。「満蒙に完全なる政治権力を確立する」ことを目標とした。永田鉄山、東條英機、石原莞爾、鈴木貞一ら。
統制派は政治的謀略に通じ、皇道派将校の純真な直接行動をむしろ邪魔扱いにした。後者は逆に、前者の不純性をいきどおるという関係性だった。
⚫︎軍国政治化は、果たして政党政治の汚職のみでそうなったのか?
陸軍、鈴木貞一の証言。
「政党不信はやっぱり疑獄とかそういう事から出たわけですが、それにもまして、選挙における民政党、政友会が敵味方になって争うという事、この分裂状態というものが、国家の安全保障を考えている軍人の目から見ると、耐えられない」(政権交代のたびに対中政策が大きく変わることに際して)
しかし、やはり東北農村の飢餓は酷く、娘は身売りされ、若槻内閣の金本位制復帰の示唆が昭和2年の昭和大恐慌を引き起こし(鈴木商店の倒産、台湾銀行の休業など)大量の失業を生み出していた。
以上のような、1930年のロンドン海軍軍縮会議に代表される民政党、政友会の外交、憲法、経済政策の争点肥大化は、政治の外部に軍部・右翼の国家改造運動と、労働運動、農民運動に連動していく。
このような、満州事変などの対外危機、軍事クーデターの予感、経済危機で、1931年から32年の5.15事件までの8ヶ月、日本は危機の渦中にあった。
満州事変では、幣原外相もあり得ないと見ていた満州での戦線拡大(錦州攻撃中止の陸軍参謀長官の命令があった)は裏目に出て、関東軍は参謀総長の中止命令を無視。錦州攻撃に取り掛かった。ここに、幣原外交の敗北、関東軍の拡大路線が決定づけられた。
⚫︎5.15事件への危機。
民政党内閣内務大臣、安達謙蔵は、1931年10月事件に象徴される軍部クーデター計画と民間右翼テロを重く見て、金本位制復帰による農民の生活難と、労働者の失業増大の社会不安を解消するため、金本位制を廃止することを目途に、民政党と政友会の大連立を構想する。内大臣秘書官を務めていた木戸幸一も、「政民両派の協力上最も難関とするは、外交政策にはあらずして、財政策、殊に金輸出の禁止を中心としたる問題なり」と。
しかし、金本位制にこだわる井上準之助蔵相はむしろ軍部批判の観点から協力内閣構想を批判。協力内閣と金本位制を巡る閣内不一致の結果、第二次若槻内閣は総辞職。
後継の政友会、犬養毅内閣は衆議院解散を狙い、公約の目玉は金本位制停止による積極財政の復活だった。1931年に犬養内閣が成立すると、高橋是清蔵相はその当日に金本位制を停止。翌年1月、衆議院を解散した。選挙に勝利した政友会は陸相に荒木貞夫を据えて、満州問題は満州国成立を認める方向をとった。
残る問題はクーデターあるいはテロの危機で、陸軍青年将校は政友会内閣を作り、次に陸相の荒木貞夫の内閣を作るという「合法革命」を目指した。
しかし農本主義的理想社会を目指す海軍将校は、政友会であろうと民政党であろうと、金本位制廃止であろうとなかろうと、それらとは無関係に井伊直弼殺害の桜田門外ノ変と同様の状況を目指した。それは、井上日召の「血盟団」による前蔵相、井上準之助暗殺事件、同じく血盟団メンバーによる三井合名会社理事長の団琢磨暗殺に触発されている。犬養毅首相を暗殺した5•15事件を起こした海軍青年将校は、井上日召の影響を受けていた。
この5.15事件を契機として、太平洋戦争終結まで政党内閣は一度も成立しなかった。すなわち政党政治の終焉である。
※個人的に:坂野氏の「日本近代史」は政党政治に力点を置いているが、同時に昭和前期は軍部(特に陸軍)、そしてマスコミ(新聞)が外部から政党政治を脅かした要素が大きいということも思われた。この意味で、NHK アーカイブの「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(2011年)のエピソード2「巨大組織“陸軍“暴走のメカニズム」エピソード3「“熱狂“はこうして作られた」が個人的に参考になりました。(NHK見放題パックで視聴できます)興味のある方はどうぞ。