NPO法人 訪問と居場所 漂流教室 理事 相馬契太さん インタビュー(前編・1)
今回は札幌で独自な訪問支援活動をしている相馬契太さんのインタビューをお届けします。相馬さんは私自身いろんな意味で学びとなってくれる人で、特別な用事がない時にも時々会ってもらい、雑談の中で知恵をもらっています。
何より情緒的すぎる自分とは真逆な人で、プレ思春期の頃に「自分と他人は別だ」と気づいたと言う、ぼくの見立てでは理想的な成長をされたところから視野を広げてきた人で、それは「自他分離」の良質な形ゆえだと思います。対して自他分離ができないところから社会不安を抱えてしまった自分としてはそういう位置からの視点を、避けず飾らずに話をしてくれる相馬さんのようなかたは貴重に思うのです。
気質や体質は真逆かと思いますが、僭越ながら、社会に向けるセンスは似ているところも多いと思います。おそらく「自然でないものが生理的に嫌だ」というケレンのなさ、みたいなところはあるのではないか。
今回は昨年20周年を迎えた「漂流教室」と言う相馬さんの活動の舞台における哲学をほぼ初めてじっくり伺いました。かなり対話的になりましたが、相互の性格の違いなども含めて面白い話し合いになったと思います。2回に分けてお届けします。読んでいただけると幸いです。
改めて不登校から考えたい
杉本:漂流教室は基本的には若い人たちや学齢期の子への訪問と居場所活動をやっておられて、それが主な活動であると思います。主に集団適応が難しい子たちを相手にされて昨年で20周年ですよね。20年活動されてきているわけですが、まずは漂流教室が目指していること、そして現実の機能的な面の話をうかがえたらと思います。
相馬:それが難しいんですよね。やっているうちにどんどんわからなくなってしまって。
まず今の利用者の中心は義務教育年齢の上です。高校生や成人年齢や、一番上だと50歳くらい。年齢を問わず、一人だとなかなか大変な時があるとか、誰かと話したいなとか、どこか家じゃないところに行きたいなとか、少しいつもと違う時間がほしいとか、そういう人のところへ訪問したり、あるいはこのフリースペースに来てもらったりしています。
目指しているものですが、最初はそれこそ不登校の子どもたちの学習支援と、メンタルサポートみたいなことを掲げていました。でも、そういうものは全部やめてしまった。いまは「ただ会っている」だけです。訪問なら1週間にいっぺん1時間、同じ場所で同じ時間を過ごす。そこになんの意味があるのかと聞かれたら、正直わからない。
杉本:ないことはないでしょうけど。
相馬:と、そういうことをしています。
杉本:私などはひきこもり経験者でもあるし、今も人に会う機会はあまりないわけで。例えば一人で孤立しているとか、家族はいるけれど出かける場所が見つからないとか、一緒にいてくれる人がほしいとか、それが具体的に見つからなければ漂流教室がありますという感じでしょうから、方向性はある意味正しいというか、目指しているところの動機は間違っていないと思います。で、子どもたちが減っているのかな、世代的に。それで必然的に利用者の世代が上がっているとか。
相馬:そうですね。確かに義務教育年齢の利用者は減っています。利用者の数はあまり変わらないけど、中に占める義務教育年齢の子どもの割合は減っている。それはある意味当たり前だと思っていて、「不登校」を打ち出さなくなったので、そこでひっかからなくなったんでしょう。
杉本:不登校の看板を下げたのはそんなに昔じゃないですよね。フリースクールを名乗るのをやめたのはいつですか?
相馬:2015年にフリースクールと名乗るのはやめて。でも、以前からフリースクールと不登校は関係ないという話はずっとしていたんです。
杉本:ああ、そうですね。漂流教室の日誌とかを読むと。
相馬:活動自体が不登校に限定したものではないので、不登校について話したりとか、不登校に対応しますと正面に掲げたりとかはしなくなった。それゆえ学齢期の子の割合も減った。
杉本:一般的には学校に行きづらいのであれば、その代替になるのがフリースクールであるみたいな印象ですよね?そこに関して特別な思い入れはないと。
相馬:そこは微妙なところで。学校の代替施設としての思い入れは全然ないですけど、一方で不登校、もしくはフリースクールを巡る状況はここ数年でけっこう変わっていて。で、いまの状況はあまり好きではないんです。それがいいとは思っていないから、「フリースクールとして」とはならないにしても、もう一度、「不登校と関わる」と掲げてもいいのかなとちょっと思っているところです。
杉本:前に話をきいたことのある関西の大学で教えている貴戸理恵さんは、小学校を不登校した研究者ですけど、このところ学校教育の福祉的な機能にも言及していまして。家庭の問題、それこそやや少しDVがあるとか、経済的な貧窮があるとか。貴戸さん自身が1980年代の不登校がまだ語りにくい時代に、「学校に行けない」自分の「なぜ?」と向き合う、難しくいえば実存的な問題にぶち当たっていた時代と違ってきて、改めてもう一度学校の福祉的な機能が課題になってきていると…今のは少し縮めた言い方ですけど、家庭だけが居場所じゃないと。相馬さんも同じようなことを感じています?
相馬:うーん。それはそれであるんですが。2016年に「教育機会確保法」という法律ができて、不登校は「問題行動ではない」という通知も出た。まあ不登校というだけで問題行動と見なされることがあってはならないですが、学校が大変だったら別のところで学べばいい。学校以外の居場所、選択肢があるとまことしやかに言われている。
学校がちょっと嫌だ。辛い。もしくは行きたくない、行けない。それで学校から一旦離れたのにも関わらず、まわりが「学校のようなもの」だらけになってしまうと、より辛いんじゃないかと思うんです。確かに学校復帰は声高に言われなくなったけど、代わりに「社会的自立」が入ってきた。「社会的自立」とはなにかといえば、文科省は「精神的自立」に加えて「経済的自立」と説明しているんですね。
で、そのようにゴールは動いたけれど、そもそもゴールを大人が設定して、子どもをそっちに向かわせるという意味では学校復帰だろうが社会的自立だろうが一緒じゃないですか。以前はね、学校復帰と言われたって行かなければそれまでだったけど、「社会的自立」がゴールになってしまったら子どもはどこへ逃げたらいいのか。それがヤダって時に、もしくはそこから今はちょっと距離を置きたいという時にどうするかを、いま考えています。
杉本:昔は学校が大人の側から見た間違いのないステップであって、そこでつまずいちゃったら社会的自立も難しいみたいな。でも、時代が変わって、今の学校を見ても「そう簡単ではないよね」という合意はできてきたんだけれども、自立を目指させる点は同じで変わらない。
相馬:そう。しかも子どもを中心に置いて、まわりが自立に向けて連携するという形になってしまう。
杉本:常に外部的な働きかけがあるということなんでしょうか?
相馬:外部的な働きかけというのは誰から誰へ?
杉本:学校に行かないとするじゃないですか。親は困るでしょうけど、場合によったら抱えこんでしまう親もいるかもしれない。それはまずいだろうということで、アウトリーチみたいな形でやってくるとか。
相馬:そうですね。アウトリーチ型の支援というのは行政で何とか構築してやろうとしているところですね。
杉本:それは全国的な現象ですか?
相馬:はい。
杉本:文科省か何かが推奨しているとか?
相馬:こども家庭庁ですね。でも文科も厚生労働省もそうです。困っている人はなかなか相談に行けないという実態は確かにあるんです。じゃあどうすればいいだろうかという時に、こちらから出かけて行く手法自体はアリかとは思いつつ、でもやっぱり気持ち悪いですよね。勝手に「問題あり」と思われて来られるのはね(苦笑)。
杉本:そうですね。ですから、本人も困っていると。親が困っているというだけでなくて、本人も辛い。どうにかしたいが、どうしたらいいか。わからないから親に相談して、親が情報を調べて、行政でも相談員が赴くか、本人が相談に来るかして子どもが自分の悩みを話す。それはそれ自体として安心だし、意味はあるかもしれないけど、相談を受ける大人の側の目的はその子の自立である。それが基本的に正しいと。それ以外の道はあまり想定されていないとのは気持ち悪いというふうに考えていいんでしょうか。
相馬:そうとも言い切れないんですよね(笑)
杉本:ははは(笑)相馬:ごめんなさい。そこが難しくて。何事もそうなんですけど、自分のなかに「気持ち悪い」という感覚がまずあって、そこは言語化されるまでものすごく時間がかかるんです。
杉本:ああー。つまり答えとしてはないんだけれども、生理的に気持ち悪いなと。
相馬:進む方向はわかっているんですよ。だから、まあ漂流教室のことなのでね。俺がひとりで決めるわけには行かないんだけれども、不登校に関わる活動にもうちょっと戻って行こうかと。で、どこともつながってない、どこも目指さないという気持ちで戻りたい。
杉本:自立とか目標とか定めない。
相馬:そう。
杉本:つながりだけは持ちたいと?
相馬:いや、どこともつながりたくないですね。とは言っても無理ですよ。どこともつながらないというのは。虐待の通告義務はあるし、学校にまったく関与せずにいられるかというと、本人や保護者の意向は聞くけれども、完全にノータッチというわけにもいかないでしょう。でも、「いろんなところとつながっているから安心ですよ」という売り方もしたくないなと。それよりは、「ここはどこともつながってない場所だから安心しておいで」という方がいい。
杉本:なるほどね。現実的な問題として、学校に在籍していれば、行かないにしてもどうなっているんだろうということは、教育機関として最低限知っておかなければならない。
相馬:まあ、本来は向こうから来いって話なんですけどね。こっちから何も言わなくたって。
杉本:まあねえ。教育現場もなかなか大変でしょうから(苦笑)。
相馬:どう言ったらいいか。「学校と連携取っています、ここにくると出席扱いになりますよ」とかね。それはそれで魅力的かもしれないけど、学校の引力圏から離れたところにいたいんです。本来、不登校もしくはフリースクールにはそういう面があったんだと思うんですよ。学校の引力の外にあって好きにやっていた。それが公的な位置付けを求めて動いた結果、教育機関っぽいものとして認知された代わりに学校教育に取り込まれてしまいましたね。
杉本:確かに、フリースクール法案の話もそうでしょうけど、オルタナティヴな「別の学校」みたいなイメージが徐々に定着しつつあって、それに対する批判とかもあれば、それを推し進めている機関もある。それはそれで役立っているというか、そっちの方が学ぶ自分としてはいいとかね。
最近「落ちこぼれ」の反対で「浮きこぼれ」という言葉もあるらしいけど、頭が良すぎて、自分のレベルからすると学校なんて付き合ってらんねえと思っている子は、通信制みたいなところやネット学習みたいなものでどんどん先に進んじゃうみたいな。まさにフリーな形でどんどん先に進みたいという子どもたちからの要求もあるけれど、当然、その反対の人たちもたくさんいて。後者のほうですよね?相馬さんたちが問題にしたいのは。
相馬:うーん。
杉本:それもちょっと違ったかな(笑)
権利教育をどこで学ぶのか
相馬:いやまあ、結果的にはそうなるんですけど。学力とか教科学習、もしくは興味の範囲を学ぶとなるとそういうことになるんですが、一方で「市民の権利」みたいなもの、権利教育をどこでどのように学ぶのか気になっています。ただ興味の赴くままに学習を進めるだけでいいのか。
杉本:確かにそれはありますね。
相馬:そこが公教育のひとつ大きな役割だと思うんですよ。個別最適化された学習を進めます。あっちで学びますか、それともこっちで学びますかと子どもを割り振ったとして、「ところで、みんなちゃんと権利について学んだ?」という疑問が残る。
杉本:そうですね、確かに。過度に自由主義思想的なもので進んでしまうと、「自分がよければ」みたいなところで完結しちゃう。最近の突出した意見でいえば「後期高齢者の人たちは自殺してください」みたいなね。非常に知的だけど、想像力が足りなさすぎないか。といった人たちが増えちゃうと、「社会をどう考えるか」という問題がね。それはやっぱり公教育で学んでいますね。
相馬:そこはおそらくすっぽ抜けている部分です。
杉本:知的でありさえすればいいという問題じゃないですもんね。
相馬:ただ、どうしても学校という制度はしんどいだろうなあというのもわかるんですよ。1クラスに30人とかいて、一斉にね、授業を1時間から6時間目まで受けて。一緒に過ごす時間が長ければどうしても摩擦も起きますから。同じような人たちを同じようなところに閉じ込めておけば、それは揉めごとも起きるでしょう。だから他のところに行きたいなという人が出てきても不思議ではないし、それに対しての用意はあってほしい。そこは全然いい。
杉本:たとえば単位制みたいな形にするとか?
相馬:でも、あまり好きな言葉ではないけれど、そこでちゃんと質が保たれるか。学力だけではなくて、子どもの成長、もしくは権利について。いろんな場所があっていいけれども、それをきちんとやれるかは担保されておかなければならないと思っています。
その上で、漂流教室はその輪からも外れて、こうポツンとね、また別のところにいたい。どこでどう過ごしても大変な時はあるから、まあ大変な時だけじゃなくていいです。楽しい時でもいい。ちょっと寄ってしゃべって帰っていく。もしくは、こちらからちょっと遊びに行って、しゃべって戻ってくるという形でいたい。
杉本:「寄り道の場所」として利用してくださいみたいなものですか。相馬:そうですね。
杉本:学校から帰ってきてから訪問で会うという例もあるんですか?
相馬:はい。あります。
杉本;ちゃんと学校には行ってて、でもちょっと疲れてたり、ストレスを感じてたり。なるほどね、大事なことですね。相馬さんは仕事で学校を内部から見ていたりもするから、今の学校の雰囲気とか様子から何か足りない部分を感じるのでしょうね。
相馬:どうかな。どうでしょうね(笑)
杉本:そうでもないですか?
相馬:うーん。自分に学校の何がわかって、何がわかってないのかわからないからなんとも言えない。
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