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勝山実さんトークショー@Sapporo スピンオフ

 ひきこもり名人、勝山実さんの1.25トークショー@Sapporo、無事終わりました。
(主催の漂流教室さん、会場を貸してくれたSeeSawブックスさん、共催のWHO CARESさん、ありがとうございました!)

勝山さんが札幌に滞在中ずっと天気も良く、気温も高くて環境的にも良好なコンデションでとても良かった。人徳の反映かな。
 当日音声録音する予定だったのですが、トーク相手ということでやっちまったな、また録音忘れましたの介で。。。
 そこは主催してくれた「訪問と居場所 漂流教室」の相馬さんがFacebookに本番のレポートを残してくれました。→ コチラ

 札幌滞在がほかの方の誘いも受けて2日間滞在が伸びるということで、最初の帰宅予定の日曜日に私の友人宅へ一緒に行ってもらいました。そこでの話が当日のトークイベントで語りきれなかった部分を語ってくれたと思うので、こちらにまとめておおまかな概要をお伝えします。より深く勝山さんのことを知れますよ✌️

 あとはそうだな。。。トークイベントのときにも言ってただろうか。勝山さんの「言い切る力」。について。これはとりあえず、二十代、三十代、四十代。そして五十代に入った勝山さんとして、そのときどき、仮にたとえ多少理解が乏しかったとしても、やはりその時の自分の思っていることを言い切ること。それをしないで、「これからじっくり考えます」とか、「葛藤と今後向き合っていきたい」と言っても、その後その答えは聞くことも、読むこともない。そこで格好つけてもダメ、格好はつけないで言い切らないと、と。
 いやいや、自分などもたいへん耳が痛い言葉であった。
 4日間お付き合いさせてもらって魅力の底知れなさをかなり知りました。
 そうそう、加えて言えば、イベントに来て勝山さんのことを「自立している」と応えてくれた人もいましたが、ぼくも全く同感です。新刊のタイトル『自立からの卒業』はもしかしたら、純粋に「経済的自立」を指しているのかも知れない。

 前置き長くなりました。

勝山さん、初訪問の友人の家ということで、言葉を張ることもおどけることもなく、自然体な調子で話してくれ(それがすごく柔らかい)、ある意味仏教でいうところの「待機説法」(その時々の聞き手の環境や理解に合わせてする説法)の趣きが顕れ、語り口の幅が本当に広い人だと改めて舌を巻きました。何はともあれ、トークショウで話しきれなかった部分。
どうぞ!

(自分の作品について)
・自分の文章は大衆性。目指すところがある時に、違う意見の人とただ議論しただけでは目指すところに至れない。考えの違う人も笑わせて巻き込みたい。


(ひきこもりの人の体験談について)
・いい話が「成功談」であってはいけないと思う。引きこもりが何かうまくいって、というのはこちらが困っちゃう。


(交流についてーだめ蓮の集まりで得た経験)
・教える人と聞く人の関係じゃなくて、双方向、「交流」的な感じでやりたい。それは「だめ蓮」で学んだ。だめ蓮は参加者全員の自己紹介から始める。長時間の自己紹介になるが、その中の面白いエピソードで盛り上がる。


(ピアサポーター)
・最近ひきこもりピアサポーター講座とかがあると聞くが、誰が俺を教えるんだ?ここに連れてこい、と思う。ピアサポーターも支援のタテ社会序列の一番下のパーツになるんじゃないかという危惧を持ってます。


(ひきこもりの生き方)
とりあえず生存していればそれでよし。僕のひきこもり問題はそこが核心。それ以外は簡単だ。なぜなら現に自分がきょうここで、北海道でのほほんとしているわけで。それが証明してるように実は簡単なこと。それ以外の「自己実現」とかの問題は引きこもってない人でも悩んでいること。モテる、モテないとか。仕事の休みの日に何もすることがない人だっている。僕らがやることは「生存して、交流する」こと。どうやって交流するのか。

 まずは「好きなこと」から。あるいは、「NO」でつながること。例えば「原発イヤだ」みたいな交流の仕方。イエス・ノーの「態度でのつながり」。それがいま自分が考えるひきこもりのゴール。いまこれで大丈夫、ずいぶん豊かだ。


(行政関与の居場所・委託事業)
・市が委託する報告書付きの居場所というのは、「カギなし牢屋」じゃないかな。

「何かしなきゃ」と思って、何のアイデアもない奴らが今のサポートステーションや居場所だと思う。政治家は何もやらないわけにはいかない。でも人手不足でも職につかない我々なわけだから、問題は別のところにある。アイデアが無いままやるのが行政のブルシットジョブ。そのおこぼれのはしたガネで働く人たち。でも末端の人はそのままでは餓死しちゃうから、自分はそれも仕方ないと思っている。ただ、何もアイデアがないのに変な事業を始める政治や行政には腹が立つわけです(直接給付を求める理由)。


(看取り)
・マイダディのホスピスのキャンセル、医療はチームで行う作業なので予定が変わってしまうと彼らの仕事は切り替えが効かない。だからキャンセルは無理。当日深夜急にホスピス行かない、という父の願いは物理的に不可能だった。気持ち的にはやってあげたかったのは僕の心理だったけど、客観的に無理なのは致し方ない。本には「自分のせいで」のように書いたけど、事実は客観的状況がそれを許さなかった。


(ひきこもり固有の対人不安や緊張、あるいは自分の意見に対して迷いがないように見えますが?)
・自分は本を読むにも太宰だったり芥川だったり、古典が好きだから。外国小説だったらドストエフスキーとかシェイクスピアを読んで影響を受けて、そうやって生きてきた以上、自分は極めてオーソドックスで普遍的なものの考えというのが土台にある。そこからズレてるものが自分にとっての違和感なのであり、いかがなものかと思っている。批判の対象がそこからズレたものだという考えがあるから、自分が批判されるということは、太宰の批判であり、芥川批判であり、ドストエフスキー否定だから、そう考えると例えば自分が特別マイナーな作家の信奉者であれば何かしら揺らぐものがあるかもしれないけど、自分は考え方が王道なので。だから批判されても特にそれで揺らぎようがない。何か世の中がガラリと変わって王道が変わり、誰も太宰も芥川もドストエフスキーも読まない世の中になれば、それは不安というか、自分が揺らぐでしょうね。


(書く文章について)
・鶴見済さんの本に出会って自分の表現方法が変わった。それまでは小説の手法で物を書いていた。ノンフィクション手法は本当のことを書くので。要はストーリーを作らない。自分にはフィクションは作れないとわかった。だからアウトプットはノンフィクションの形でやる。でも今でもフィクションを読むのは好きです。


なぜ古典か)
・作品が「時」に耐えるのは大変。だから古典を読むのがイチバン。時の洗礼に負けないで存在しているのだから。


(アウトノミアーオペライズモ)
・僕らは結局「NO」を突きつけてるわけだよね。ひきこもりは「NO」の運動。じゃあ僕たちの「YES」は何か?「YES」を作れたのならもう一つの運動になり、アナキズムの運動のようになれば、かつての「アウトノミア(自律自治)」のようなものが生まれるのではないか。とりあえずまずはしっかり「NO」に行けること。「NO」を(対象に)突きつけることの大変さがあっても、その「NO」に対する「YES」で繋がる人はいる。だから僕が一貫して言っているのは「直接給付」であり、交流なのであり、あとは自分が「いい」と思うことをはっきり言い切るということです。


直接交流について)
・今まではzoomだけだった。実際に会って「どうすんべ」「どうしたらよかんべ」と話したりすることの中から、こじんまりと生身のからだ同士で話したい。でかい組織は特に意識しない。

 だめ蓮は30年。すごい影響力はないけれど、確実に影響は与えあっている。そこで別に政権交代も起こらないし、そこで社会を動かす組織ができなかったな、って落ち込むんじゃなく、自分だってだめ蓮の周りをうろちょろするようになって30年かけてその程度なんだけど、特に若い時は時間も遅く感じるし、発信力もなくてはダメなんじゃないのと思って見てたけど、「身の丈を知る」というのが本物の活動じゃないかと感ずるようになりました。逆にそういう時にzoomでやりましょうとか、YouTubeでやりましょうとか言われると、逆に自分は萎えてしまう。             以上

友人宅にて


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