望郷〜彼女が好きだった花〜
彼女はいつもチューリップが好きだと言っていた。春になると、韓国の実家近くの公園で見たカラフルなチューリップ畑の話を、目を輝かせながら語ってくれた。僕が22歳で彼女が29歳だった頃、1年間だけ付き合っていたあの頃。年齢差なんて気にしない、と笑っていた彼女の笑顔が、今でも鮮明に思い出される。
僕たちは互いに忙しい日々を送りながらも、週に一度は必ず会っていた。彼女の日本語はとても上手だったが、時々韓国語でつぶやく彼女の声は、母国への郷愁を含んでいるようで切なく感じた。ある日、彼女のアパートの近くの花屋で黄色いチューリップを見つけて、ふと彼女のことを喜ばせたくなった。「これ、君に似合うと思って」と手渡した時、彼女は驚いたように目を丸くし、それから少し涙ぐんだ。
「こんなに嬉しい気持ちになったのは久しぶり」と彼女は言った。その言葉が僕には重かった。29歳という彼女の年齢や、故郷を離れて異国で暮らす不安、そして僕との将来への迷いが、彼女を孤独にしていたのかもしれないと気づいたのは、ずっと後になってからだった。
僕たちが別れたのは些細なすれ違いだったのかもしれない。彼女は自分のキャリアに集中したいと言い、僕はまだ若さゆえに恋愛よりも自分のやりたいことを優先した(まあその挙句が酷い工場を続けることだったのだが)。最後に会った日、彼女は「元気でね」と言いながら微笑んでいたけれど、その目はどこか寂しそうだった。
それから数年後、僕はふとしたきっかけで花屋の前を通りかかり、黄色いチューリップを見つけた。あの時彼女が見せてくれた涙ぐんだ顔と笑顔が一緒に蘇った。あれは彼女が僕に最後に見せた本心だったのだろうか、と考えることがある。
今でも彼女の好きだった花を見るたびに、僕は彼女のことを思い出す。彼女の強さ、優しさ、そして時々見せる脆さ。もしまた会えたら、もっと彼女の心に寄り添える自分でいたいと願うけれど、それはもう叶わないのだろう。風に揺れるチューリップは、あの頃の彼女の笑顔そのもののように見えた。